黎の体6
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「じゃあ、今から約二時間の間ですね。何かあればすぐにそのブザー鳴らしてください。警備が駆けつけますので」
光彰は、寮監の当直担当者から防犯用のブザーを受け取るために、警備室へと向かった。警備室は第十二寮の角にあり、来客用の窓口と共に設置されている。第一寮の自習室を夜中に使うとの申請をした際に、最初は深夜の利用は規則で禁止されているからダメだと言われ、即却下された。
仕方なく彼らは、光彰に殺人の疑いがかけられており、それを否定する材料を集めるためにどうしてもこの申請を通して欲しいと願い出た。そのためにはあの時間でないといけないのだという説明をすると、今度は容易に了承を得ることができた。
「ありがとう。もしこのことであなたが校長から何か嫌がらせを受けるような事があれば、父からきちんと対応してもらいますので、私に必ず連絡してください」
そう言って警備の担当者へ笑いかけると、「あ、ありがとうございます!」と警備員は頭を下げた。それに軽い会釈を返しながら、彼らは警備室を出た。そのまま食堂を抜けて、第一寮の自習室へと向かって歩いていく。
「光彰、自習室に霊が出るのを確かめるって、もしかして自習室の中で霊が現れるのを待つのか? あんまり近くで見るのはちょっと嫌だなあ」
真っ暗な廊下の中に、非常灯の灯りだけが浮かぶ深夜二時。幽霊に会うとなれば、やはりこの時間なのだろう。草木も眠る丑三つ時。この時間にだけ跋扈することを許されるという、ある意味不憫なもの達が、そこかしこにいるという最も恐ろしい時間帯だ。日中賑やかしいその広間は、今や不気味なほどに静かで、その空間に壁時計の秒針の音だけが鳴り響いている。
「なんだ、黎。もしかして、怖いのか?」
目を細めるようにして光彰が黎を揶揄うと、彼は一瞬意地を張ってそれを否定しようとした。しかし、すぐにそれをやめると、驚くほど素直にそれを認めた。
「そりゃあお前、普通は怖いだろ。だってさー、月夜は千夜が出る……あ、そうか。千夜は千晃兄さんなんだもんな。そう考えると怖くないのか……んぶっ!」
もし現れるのが千夜だというのであれば、黎はそれを恐れる必要がなくなる。一縷の望みのような気がして思わず大きな声を上げそうになった黎の口を、光彰が慌てて手で覆った。
「黎、それは俺たちだけの秘密だ。誰にも言うなよ」
もう一方の手では、その長い指をすっと自分の唇にあてがっている。どこで誰がこの話を聞いているかわからないのだ、慎重になる必要があると黎に示していた。
「絶対だぞ」
そう言う光彰の穏やかな笑顔に、体育館の上に昇った月の光が真っ直ぐに届いていた。それは幻想的な陰影を作り、彼の顔にまるで彫刻のような美しさを纏う。
霊を使役する力を得ると、この世とあの世の境に存在するようなものとなる。だからだろうか、光彰は時折人間とは思えないような不思議な色香を放つ事があった。黎は今まさにそれに当てられてしまっていた。背筋をぞくりと走り抜ける感覚に「おう」と返事をするのが精一杯だった。
「確かにこんな月の夜には、千夜が現れると言われてるな。でも、本物の千夜は、今日は絶対に現れないぞ。千夜には別のことを頼んであるんだ」
生徒達は、千夜は月夜が好きであるため、時計塔の上で物憂げにしている姿が見られるのだと言っている。だからこそ、今日のように月が美しい夜には、光彰は千夜に隠密行動を頼むことが多い。もし生徒に霊感がある者がいて万が一その姿を目撃されてしまったとしても、噂が少し増える程度で済むからだ。
「今から探そうとしている幽霊がもし逃げた時、俺たちは壁をすり抜けて追いかけたりすることは出来ないだろう? だから、追跡は千夜に頼んであるんだ。あいつはいつでも出て来れるように、ある場所で待ってくれている。それがどこなのかは、今は内緒だ」
そう言って、光彰はにいっと妖しく笑った。そして、自習室の手前にあるコミュニケーションルームを指差した。
「よし、まだ何もいないみたいだな」
自習室とコミュニケーションルームの間は半分がガラスになっていて、人がいなければ室内が丸見えになるようになっている。使用する際にプライバシーを保ちたい場合は、室内にあるスイッチを押せばすりガラスへと変わる仕様になっているため、イベント前の更衣室として利用する生徒が多い。今は誰も使っていないため、部屋の中は簡単に見渡せる状態になっていた。ただ、それはつまり、相手からもこちらは丸見えだと言うことになる。
「ここから覗くのか?」
そう問いかけた黎に、光彰は被りを振って答えた。
「いや、ここじゃ相手から俺たちも見えるからな。自習室と自習室の間にちょっとした隙間があるだろう? そのまま外部と繋がってる場所なんだが、パイプスペースとして使用するはずだったものがあるんだ。途中で浴室の場所を変更したから、今はそこは空いている。狭いが、そこに隠れるぞ」
「パイプスペースか。二人で隠れるにはかなり狭そうだけど、大丈夫か?」
それを聞いて、光彰はニヤリと笑った。
「俺がお前を抱きしめておけば大丈夫だろ?」
「……はあっ?」
その不適な笑みに、黎は顔を真っ赤にして絶句した。
確かに図面を見せてもらう限り、そうでもしないと入りきれないだろう。だからと言って、それを堂々と言ってのけられると多少なりとも羞恥心が湧くものだ。不必要に慌ててしまい返事に窮した黎は、思わず言葉にならない音を発してしまった。
「ふえっ? お、おお、まあ、うん……」
光彰はそれを見て、楽しそうに笑った。声を出してはいけないため、笑うというよりは苦しそうに顔を歪めた。
「ふっ……、お前、大丈夫か? 絶対に騒ぐなよ。渦中の霊を拝まないと、頑張って申請を出した意味がないからな。小野へ報告をしなければならないんだから、しっかり確認するんだぞ」
そういうと、パイプスペースになる予定だった狭小な場所に黎を座らせた。そして、その後ろへとするりと入り込み、少しでもスペースにゆとりを持てるようにと、黎の体に回した長い腕で二人の隙間を埋めていく。そうして、ガラス戸へ目だけが見えるようにしてしゃがみ込んだ。
「う、結構苦しいな」
「少しの間だから我慢してくれ」
そのまま二人で第一寮の自習室の中を覗きつつ、温田見の霊と思われるモノを待った。
カチコチと鳴る時計の秒針の音だけを聞きながら、彼らはひたすらに霊が現れるのを待った。光彰の鼓動を背中に感じながらも、これ以上動揺を大きくしないために、黎は小野との約束を果たす事に意識を集中した。丑の刻を過ぎ、虎の刻へと差し掛かったその時、そのギリギリのタイミングで、ようやくソレは姿を現した。
「光彰……!」
黎は目を見張った。自習室の壁際に現れたのは、ぼんやりと白く光る温田見の姿だった。その姿は、小野がここにいたら叫び出してしまうのではないかと思うほど、生前とほぼ変わらない。
「噂の霊はやっぱり温田見くんだったのか。生きてた頃と変わらない姿に見えるぞ」
二人は目の前の温田見の姿に驚きつつも、次第に彼の行動の方へと興味を移していった。彼はしきりに周囲をうかがい、何かを探しているような素振りを見せていたのだ。
「なあ、あれって、きっと何かを探してるよな」
黎の問いかけに光彰は頷いた。彼が浮遊霊となっているのであれば、あれが心残りの原因だろう。そう思わせるほどに、彼の執着は強そうに見える。
「そんな感じに見えるな……。あいつ、落とし物とかしなさそうなのに……」
そう言っていると、突然その温田見と目があった。
「あっ、こっち見た」
「……まずいな、気がついたのかもしれない。黎、念のためそろそろ……」
温田見の目がじわりと黄金に輝く。光彰には、それがなんの意味をなしているのかがわからなかった。
しかし、何か得体の知れないことが起きるような気がした彼は、黎を立ち上がらせようと腕の力を僅かに緩めた。すると、なぜか黎が突然立ち上がろうとした。狭いスペースでの行動であるためか、うまく立ち上がれない。それでも光彰を押し退けて何とかその場に立ち上がった。
「黎? どうした……」
そう尋ねている光彰の手を振り解いて、するりとその場を抜け出して行ってしまった。
「黎!」
光彰はすぐにもう一度手を伸ばしたが届かず、その華奢な体は舞うように遠ざかって行った。まるで千夜が光彰の手から逃れて陽光の下を堪能していた時のように、あまりにも突然の行動だった。
「くそっ、油断した。黎、待て!」
走り出した黎の向かう先には、生垣の向こうに青白く浮かぶ月が輝いている。その月明かりの下を、温田見の霊が吸い寄せられるように移動していた。そのまま真っ直ぐ向かえば、コミュニケーションルームのガラス壁へとぶつかる。温田見はそれをするりと通り抜けて、何かから解放されたように校庭をかけていった。
初夏の晴れた夜、大きな月の浮かぶ校庭の下を走る、白く光り輝く男子生徒の後ろ姿。その自由への逃避のような後ろ姿に、光彰は一瞬目を奪われてしまった。
しかし、すぐにあることに気がついた。
温田見はガラス壁をすり抜けていった。そして、黎はそれを真っ直ぐに追いかけている。あの勢いで走っていたら、壁にぶつかってしまって大怪我をするかもしれない。光彰は息を呑んだ。
「黎! 止まれ!」
虚な目をしたまま壁に激突する寸前の黎の姿を見て、光彰は恐怖に囚われた。自分には彼を助けることが出来ないということが、はっきりとわかってしまったからだ。黎が自ら止まらないと、光彰がスピードを上げて追いついたとしても、立ちどまれずに二人で壁にぶつかる可能性が高い。
「黎! 頼む、止まってくれ!」
解決することは出来ないとわかっていても必死になって走っていると、突然第二寮の方から人影が現れた。そして、その人物は黎へと勢いよく飛びかかっていく。後ろから抱き抱える様にして壁から引き離すと、そのままの勢いでぐるぐると回転しながら床の上を転げていった。
「いてっ!」
二人は、ロータイプのソファ上に置いてある大きなクッションに体をぶつけ、勢いを殺すことには成功した。だが、その座面からは弾き出されてしまい、そのまままた床へと戻っていく。
「黎!」
倒れたままの二人の元へと光彰が駆け寄ると、黎を抱き抱えたまま唸っている男の近くに、見慣れた黒縁メガネが落ちていた。