時計塔の千夜2
「その話をするなら、時計塔のそばまで行った方がいいだろう。お前に見せたいものがあるんだ。それと、お前に一つ話さないといけないことがある」
「え、なに? 何か隠してることでもある?」
「そう。出来れば卒業してから話したかったんだが、今朝の騒ぎとその噂のことを考えると、そろそろ話しておいたほうがいいだろうと思って」
光彰はそう言うと黎の目をじっと見つめた。その眼差しは黎の目の奥のさらに奥までを見透かされそうに強く、彼を捉えて離さない。
「……いいな?」
同意を得ようとしているのだろうとは思ったのだが、黎にはそれが何を意図しているのかはわからなかった。
ただ、なぜか自分の体の奥底の方には深い受容の感覚がある気がした。それは、頭では理解出来ていないことを、気持ちの上では受け入れているというものに近い。
ただ正確に言おうとするならば、それもまた違うような気はした。それくらい、不思議な感覚だった。
◆
その夜、二人で部屋を出た。そして、時計塔の下へと向かう。春の夜は、しっとりと爽やかな空気に満たされていて、頭上に光る月は銀色に艶めいていた。
千夜についての話をするからと、部屋ではなく外へ呼ばれたことで、門限だけには厳しい寮の寮長が取る行動としてはいかがなものかと黎が指摘すると、そのあたりは抜かりないと光彰は笑った。
彼は黎の手を取り、時計塔の階段室入り口のドアの前に連れてきた。そして、そのまま温田見が落ちたと見られている屋上を見上げる。そこには、月明かりに照らされた時計の盤面が輝いて見えていた。
丁寧に手入れをされているこの時計は、いつも美しい。月明かりの下でこれを見ることも、寮生の一つの楽しみとされていた。
少し前までは、時計塔の屋上で夜のデートを楽しむ生徒が後を絶たなかった。彼らは門限を過ぎても部屋へ戻らないため、捜索する寮長や寮監の手をいつも煩わせていた。光彰も当然そこへ駆り出されていた。
千夜はそうやって抜け出してきた生徒を狙っては、屋上から落として殺すと噂になっている。彼女がそうすることで得をするのは寮長だけだという見解が広まり、いつしか寮長を怒らせると千夜に呪い殺されるという話に変わっていったのだそうだ。そして、今やそれが光彰に限定されている。
「霊が見えもしない奴らが、呪いを信じてることが俺には理解出来ないが、そこは市岡が見てしまっている以上は否定することは出来ないよな。ただ、時計塔の千夜は、満月の夜に現れるんだろう? でも、温田見が落ちたのは今朝のはずだ。夜ですら無い。おかしいと思わないか?」
光彰にそう問いかけられて、黎は目を丸くした。そう言われてみれば、温田見が落ちた時間は午前八時三十分をゆうに超えていた。その時間に千夜を見たという話は、あまり聞いたことがない。
「本当だ。なんで誰もそのことは疑問に思わないんだろう」
「あいつらにとっては、そんな細かいことはどうでもいいんじゃないか? それに気がつかないふりをしたとしても、俺を怒らせたら呪い殺されるっていう話を信じて面白がりたかったんだろう。そもそも、霊体を見る能力の無い奴らには、夜だろうが昼だろうが結局は見えない。そうなると、霊がいるかいないかを自分で判断するのは難しい。それでもそんな噂をしてるって事は、普段からなんでも自分に都合のいい事だけを信じてるって事だろう」
光彰はそう言いながら階段室のドアを開けた。ガチャリと重い音が響き、鉄扉が開く。
「うわ、なんだこの匂い」
軋みながらも大きく開いたドアの奥から、ツンとした匂いが鼻をついた。思わず二人は顔を顰める。鉄とそれにサビの浮いた匂いが渦巻く階段を登ろうと一歩踏み出すと、自動で灯ったライトが柔らかく足元を照らした。
「扉の鍵は修復しないのに、センサーライトは取り付けてあるんだ」
「本当だな。管理するのが煩わしかったというわけじゃ無さそうだな」
そうだなと思いつつ、黎はライトを見上げた。柔らかなオレンジ色の光が、踊り場に取り付けてあるのが見える。二つの踊り場にそれぞれつけられたそれは、おそらく最近取り付けられたものだ。古びた壁や階段の中で、そのライトだけはとても新しかった。
そして、わざわざセンサーライトを取り付けるほどに出入りをしていたであろう階段は、よくみると塵一つ落ちていない。その二つは、ここがとても丁寧に管理されているということを教えてくれていた。
「鍵が開いていて、センサーライトが付いている。どう考えてもここを利用しやすくしたとしか思えないな。立ち入り禁止のはずなのに、これじゃあ歓迎してるとしか思えないじゃないか」
驚く黎が階段から落ちないように、光彰はその背中をそっと支えた。黎はその優しさに、思いがけず胸が詰まるのを感じた。
「ま、間違いなくここで人が何人も死んでるんだろう? 立ち入り禁止どころか、学校が何かの処分を受けそうなもんだよな。でも、うちは何もない。おかしいことだらけだ」
「そうだな。少なくとも、俺は聞いたことが無い。千夜に関する事件は、三件が病死扱いだ。おそらく学校に非は無いと判断されたんだろう。だからこそ、温田見の件だけは別のものとして考えなければならないだろうと思ってる」
「あ、そうだ。その昔の話って葉咲くんが話してたんだけど……」
黎は今日の放課後に聞いた噂話の中にあった、千夜の呪いについて光彰に話した。
「葉咲くんが言うには、この時計塔から転落して亡くなった生徒は、これまでに二人。千夜本人と温田見くんだけらしいんだ。じゃあなんでこれまで千夜が恐れられていたかというと、他の三人が千夜の呪いで心臓発作を起こして亡くなったからだって言ってた」
光彰はそれを聞いて、小さく頷いた。自分がこれまで聞いていた話と、概ね同じらしい。
「その三人は春先に亡くなったんだよな。新学期の健康診断では何も問題がなかったのに、死因は心筋梗塞だったと聞いてる。三人は寮長や寮監から問題児扱いされていた。だから、寮長が千夜に呪いで心臓を止めさせたっていう話になったって言われてるらしいな」
「うん、そうだった。ただ、温田見くんの時だけは違ってて、彼は自分から望んで落ちていったように見えたんだって話だった。それがまるで恋人同士の抱擁に見えたって、市岡先生は言ってるらしい」
「でも、温田見の性格を考えると、それは無いと俺は思ってる。あいつには好きな人がいたからな。誰かを好きなのに、他の人と逢瀬を楽しむみたいな真似は、あいつには出来ないはずだ。実際、他に好きな人が出来たと自覚してからは、小野ともすぐに別れたみたいだぞ」
黎は光彰のその説明を聞いて、大きな目がこぼれ落ちそうなほどに驚いてしまった。人に興味の無いはずの光彰が、珍しく温田見の性格や事情を把握している。
「ええ、なんでそんなこと知ってるんだ? 光彰って温田見くんと親しかったのか?」
しかも、なぜか彼に好きな人がいたという情報に関して、絶対的な自信を持っているように見えた。黎にはそれが信じられなかった。思わず足が止まる。目の前の人物は、本当に光彰なのだろうかという疑いすら湧くくらいに驚いていた。
一方、光彰は屋上への出入り口になっている鉄扉を外に向けて開いていた。そして、一歩外へと踏み出すと、時計塔の黄金色の光がゆらりと彼を包んだ。まとわりつく光は羽衣のようにも見え、それを纏う彼は、性別を超越した美しさを放っていた。
「いや、親しくはなかっただろうな」
そう答えて、ふわりと微笑む。そして、黎には寝耳に水である温田見との関係を教えてくれた。
「親しくは無かったけれど、二年の後半くらいからよく話すようにはなったんだ。俺はほとんどあいつが話すことを聞いていただけだったんだが、よく話しかけに来てくれていた。恐らく本当は親父さんから何か頼まれてたんだろう。俺を通して父さんに口利きをしてもらいたいとでも言われていたんじゃないだろうか。温田見が俺に近づいたきっかけは、間違いなくそれだったと思う。でも、あいつは一度もそのことを俺に言わなかったんだ。言わなければならないという焦燥感はあったはずなんだが、それよりも俺をコマとして扱うことへの嫌悪感が勝ったみたいだ。ずっとただ世間話をしに俺のところに来てくれていた。俺は温田見のその気遣いが嬉しかったんだ。それから何となく俺も温田見のことを見るようになって……。小野といる時の様子や、温田見が小野の後に好きになったっていう子と話してる時の態度とかで、その相手が誰なのかはなんとなく分かった。それだけだ」
そのまま黎の肩を抱き、並んで時計塔を見上げた。煌びやかな光を纏った文字盤と尖塔に、しばし二人で見入ってしまった。
「キレイだよなあ」
「そうだな」
感嘆の言葉を漏らしはしたものの、光彰は時計塔を眺めながら僅かに浮かない顔をしていた。黎は千夜の話を聞かせてもらうためにここにいることを踏まえながらも、どうして光彰が浮かない顔をしているのだろうかとやや心配になっていた。
「なあ、あの噂はもちろんデマだよな? お前を怒らせると千夜に呪い殺されるっていう話。そんなことはありえないよな?」
物憂げに文字盤を見つめる光彰を見ていると、黎は急に不安になってしまった。もし仮にあの噂が本当だとしたら、自分は一体どうすべきなのだろう。ふと、そんなことさえ考えてしまっていた。
しかし、もしそうだとしたら、彼ならもっと上手く隠し通すだろうとも考えていた。
光彰が黎に対して本気になって隠し事をしようとすれば、そんなのはどうにでもなるだろう。間違えても遺体を外に置いたままにしたりなどせずに、きっちりと完璧な隠蔽を行うはずだ。彼にはそれだけの頭脳もあるし、それを実行可能なほどに資金も権力もある。
「実はそれを完全否定出来ない理由が俺にはあるんだ。それを黎に聞いて欲しくて、今日はここに来てもらった」
「え……? どう言うことだ?」
黎の胸がザワザワと騒ぎ始めた。ここから先の話を聞いて、それからも今まで通りに暮らしていけるだろうかという不安が過ぎる。両手を胸元でギュッと握りしめ、悪い話ではないことを祈った。
「本当は卒業するまで話したくなかった。今から話すことは、俺の宿命の話だ。そうは言っても、俺自身はまだ受け入れきれてないことでもある。だから、出来ればまだ黎には知らずにいて欲しかった。だけど、もう話しておかないと……。いつか他の人の口からお前の耳に入りそうだと思ったんだよ。だから、他の人からお前に知らされるよりは自分で言おうと思ったんだ」
「受け入れきれてないこと? お前にそんなものがあるのか?」
黎に問われた光彰は、こくりと大きく頷いた。
「聞いてくれ」
グッと拳を握り、覚悟を固めるのが黎の目に入った。彼はそれを受け止めて、しっかりと頷いた。光彰はそれを確認すると、ゆっくりと口を開き、自分の家の話とその後継者にあたる総領と呼ばれる存在について語り始めた。