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「お姉様、とてもきれいですわ!」
「ありがとう、マリー」
あの深夜の話し合いから十日後。
私はマリアンネに手伝ってもらって、王城で開かれる夜会に参加するための準備を整えたところだ。
扉がノックされ、返事をすると煌びやかな夜会服を着たヘンリックと、全身真っ黒な服を着たエルヴィンがはいってきた。
「着飾ったリサを見るのは久しぶりだね。
とても美しいよ」
「ありがとう、リック。
でも、あなたの隣に立つと見劣りしてしまうわ」
ごく自然に賛辞の言葉をくれるヘンリックだが、二人並ぶとどう考えても私は霞んで見えてしまう。
私だってそれなりに整った容姿をしているという自覚はあるが、別次元のヘンリックとは最初から張り合う気にもなれない。
「そんなことありません!
リックも素敵ですけど、お姉様もすっっっごくきれいじゃありませんか!
見劣りするなんて、あり得ません!」
「そうだぞ、お嬢。
お嬢よりきれいな女なんて、この世に存在しない」
相変わらずな二人に、私は苦笑した。
とはいえ、きれいだと言われて悪い気分ではない。
「ありがとう。それじゃ、行ってくるわ。
エル、打合せ通りにね」
「任せておいてくれ。
リック、お嬢を頼んだぞ」
「ああ、リサのことはなにも心配いらないからな」
私はヘンリックと二人で馬車に乗り込み、王城に向かった。
「リサ、緊張してる?」
「ええ、少し。
夜会なんて、数えるほどしか参加したことないから。
それに、こういうドレスって動き難くて苦手なのよね」
母と弟に根も葉もない悪評を流されたことで結婚前の私はほぼ家に引き籠っていたし、結婚後は一度も社交界に顔を出していない。
これも私が考えた策の一部でなければ、夜会に参加しようなんて一生思わなかっただろう。
「夫婦だから二人で参加するのは当然なんだけど……
私のせいで、リックが悪く言われたりしないかしら」
「そんなことにはならないよ。
きみの悪い噂なんて、もう誰も覚えていないからね」
侯爵令息の妻となった私の悪い噂を吹聴するほど、母と弟の頭は悪くなかったようだ。
実体のない私の噂は、雨後の竹の子のように次々と現れる新しい噂に埋もれてしまい、とっくの昔に忘れ去られたとヘンリックは言っていた。
私は身持ちが悪いはずなのに、私とどうこうしたことがある男性なんて存在しないので、母と弟以外から私の噂がでてくることもないのだ。
「むしろ私は、美しい妻を独り占めして隠してた狭量な夫と陰口を叩かれるかもしれないね」
「もう、リックったら」
ヘンリックのあり得ない冗談に苦笑しながら、私は緊張が解けていった。
私は一人ではない。
信頼のおける友人であり、近い将来義弟になる予定のヘンリックが隣にいるのだから。
かつて参加した夜会のように、あからさまに嘲笑されたり、侮蔑の言葉を投げつけられることなんて、あるはずがないのだ。
「頼りにしてるわ、リック」
「ああ、大いに頼ってくれ。
それが今夜の私の役目だからね」
ヘンリックにエスコートされて夜会の会場に入ると、私たちを中心にさざ波のような囁きが広がった。
「見て、ヘンリック様が女性をエスコートなさってるわ」
「本当だ! 初めて見たわ」
「どなたかしら? 見覚えがあるような気がするけど」
「奥様ではないの? ヘンリック様は既婚でいらっしゃるのでしょう?」
「そういえば、悪評がある令嬢と結婚なさったってことじゃなかった?」
「そうだったわね。確か身持ちが悪いとかなんとかっていうことだったと思うけど」
「そんな感じには見えないわよね。あ、ヘンリック様が笑ったわ。
奥様には、あんな顔をなさるのね」
私は自主的に社交界から遠ざかっているが、ヘンリックも似たようなものだ。
たまに第二王子殿下の護衛として夜会やお茶会に出ることがあっても、職務に徹してダンスやおしゃべりなどは一切しないのだそうだ。
好奇や嫉妬の視線が突き刺さるのを感じながら、私は穏やかな笑みをうかべたままヘンリックに連れられ歩いた。
「ルーカス様に挨拶したら、軽くなにかつまもうか」
「ええ、そうしましょうね。
お腹が空いたわ」
会場の一画には、王城の料理人が腕によりをかけてつくった料理が並べられていて、それを食べるのを私は楽しみにしていたのだ。
「リック! 本当に来たのか!」
第二王子殿下は仲睦まじく現れた私たちに目を丸くした。
「来ると言ったでしょう。もしかして、信じていなかったんですか」
「だって、てっきり冗談かと思って……夫人まで連れて、どういう風の吹き回しなんだよ」
「たまには美しい妻を見せびらかすのもいいかと思いまして」
「ええぇ? なにそれ?
いや、確かに夫人は美しいけどさ」
私たちが契約結婚していることを知っている第二王子殿下は、訝し気な顔をした。
「では、私たちはこれで。御前を失礼します」
そんな主の前から、ヘンリックは私の手を引いて颯爽と立ち去った。
なんだかいろんなことが省略されていたような気がするが、とりあえず挨拶は済んだのだからよしとしよう。
「クラリッサ」
真っすぐ料理の方に向かおうとしていたのに、横から呼び止められてしまった。
「お父様、お母様。お久しぶりでございます」
無視するわけにもいかず、私は立ち止まって両親に挨拶をした。
結婚式の時以来なので、約三年ぶりに会う両親は、私の記憶より少しくたびれているように見えた。
「元気だったかい?
社交界でも姿を見ないし、全然音沙汰がないから心配していたんだよ」
「私が病弱なのはご存じでしょう。
ヘンリック様にとてもよくしていただいているので、心配なさらないでください」
ね? と隣を見上げると、彼は私には作り笑顔とわかる笑顔をきれいな顔にはりつけた。
「お久しぶりですね、キルステン伯爵夫妻。
妻のことは心配不要です。
我が家には腕がいい医師がいますから」
私は病弱だということで社交界から遠ざかっているが、それが嘘だということを両親は知っている。
少なくとも、母は知っているはずだ。
「それにしたって、手紙を出しても梨の礫だし、里帰りだって一度もしないじゃないか。
心配するなという方が無理だよ」
手紙が届ているのは知っているが、一応目を通して即ゴミ箱コースにしている。
だって、私を通してヘンリックとフューゲル侯爵家との縁を繋ぎたいというのが見え見えの内容ばかりなのだ。
本来、貴族同士の結婚というのはそういうものではあるのだが、私たちもフューゲル侯爵家もキルステン伯爵家に便宜を図るつもりは一切ない。
「そうよ、クラリッサ。
たまには実家に顔を出しなさいないな。
皆があなたに会いたがっているわ」
私たちによくしてくれた使用人たちには会いたい気持ちはあるが、里帰りをするつもりはない。
「ええ、では今度、時間があるときにでも」
肯定しているようでなんとも曖昧な返事をした私だが、父はそんな意図は通じなかったようだ。
「そうだ、ヘンリック卿。我が家の料理人は腕がいいのですよ。
クラリッサと一緒に晩餐にお招きしましょう」
「まぁ、それはいい考えだわ!
我が家自慢の料理でおもてなししますわ」
「それは楽しみですね」
嬉しそうな両親に、ヘンリックは私と同じように曖昧な返事をした。
「ところで、お父様。
私、ますますおばあ様に似てきたと思いませんこと?」
「ああ、本当だね。
おまえは母上によく似ているよ。
きれいになったね」
父はなにも考えずに薄っぺらい称賛を口にしたが、その隣の母からは表情がすっと消えた。
今の私は、銀色の髪をやや古風な形に結い上げ、上品だが装飾は控え目な水色のドレスを着ている。
実はこの装いは、キルステン伯爵家に唯一残されている祖母の若いころの肖像画に似せてコーディネートしてあるのだ。
きっと私の両親が声をかけてくると思っての、敢えての演出だ。
祖母と確執があった母の瞳に、隠しきれない憎悪の光が灯った。
母はやはり私のことが大嫌いなのだということが、改めてよくわかった。
「ヨーゼフも来ているのですか?」
「ああ、来るときは一緒だった。
どこかその辺で友人と話でもしていると思うよ」
「ヨーゼフの友人といえば、フローエ公爵家の方がいらっしゃいましたね。
今も懇意にしているのでしょうか」
「フローエ公爵家? さあ、どうだったかな」
父はチラリと母を見たが、母は青ざめたまま固まっている。
「実は、私とヘンリック様が出会ったのは、ヨーゼフとフローエ公爵家のご友人のおかげなのです」
ヨーゼフは、フローエ公爵家の放蕩息子に私を売ったのだ。
それがきっかけで私たちは出会ったというのは本当だが、だからといってそんなことをしたヨーゼフを恨んでいないわけではない。
「そうだったのか。それは知らなかった」
「あれがなければ、私は妻と出会うことはできませんでした。
私も、私の両親もとても感謝していますよ」
なにも知らないらしい父に、ヘンリックが表面上にこやかに応え、母はさらに顔色が悪くなった。
私たちが出会うことになった原因を、ヘンリックもフューゲル侯爵夫妻もよく知っている、と言外に伝えたのだ。
「もう三年も前のことですけど、なにをしたのかヨーゼフに聞いてみてください。
きっとお父様もヨーゼフのことを誇らしく思うはずですわ」
「ああ、そうしてみようか……」
やっと不穏なものを察知したらしい父は、視線をさまよわせながら歯切れが悪い返事をした。
帰宅してから父は母を問い詰め、ヨーゼフがしでかしたことを知ると、フューゲル侯爵家が塩対応な理由に納得するのと同時に激怒するだろう。
「では、私たちはこれで失礼します。
行きましょう、ヘンリック様」
「ああ、それでは」
立ち去る私たちを、両親が引き止めることはなかった。