⑭
あれは、私が十歳になってすぐのころだった。
その日、私たち三人は年嵩のメイドを連れて本屋に買い物に出かけていた。
その帰りに、いつもの待ち合わせ場所で馬車を待っていたのだが、なぜかいつまでたっても迎えの馬車が来なくて、しかたなくメイドは私たち三人を残し辻馬車を探しに行った。
子供だけだが三人もいるし、まだ昼間で治安がいい地域だからとなにも心配していなかったのだが、運の悪いことにすぐ近くで数匹の魔獣が檻を破って脱走するという事件が起こった。
あとでわかったことだが、当時愛玩用の小型魔獣を飼うのが流行っていて、なかには愛玩には向かない魔獣に手を出す人も少なくなく、そういった需要に応えるため違法に都に持ち込まれた魔獣が暴走したのだ。
周囲の人たちは悲鳴を上げて逃げまどう中、私はエルヴィンとマリアンネの手を掴んで建物と建物の間の狭い通路に飛び込んだ。
魔獣もこんな狭いところには目も向けないだろうと思ったのだが、私のそんな予想は外れてしまった。
私たちを追うように、一匹の魔獣が通路に侵入してきたのだ。
ちょうどエルヴィンと同じくらいの大きさの、角が生えた狼のような姿の魔獣だった。
「ひっ……!」
マリアンネが恐怖に体をこわばらせた。
逃げないとまずいのに、私も体が動かない。
「お嬢! マリー! 逃げろ!」
そんな私たちを背中に庇い、エルヴィンは果敢に魔獣に立ち向かった。
当時十一歳だった彼は、魔力は十分あるはずなのになぜか魔法が使えなかった。
そういうことも稀にあるとのことで、魔法は諦め剣術と体術の鍛錬に集中するようになったところだった。
私は水魔法が使えるには使えるが、魔獣を攻撃できるような魔法はとても無理で、マリアンネはまだ魔法の訓練を始めたばかりだった。
まさに、絶体絶命のピンチである。
魔獣はエルヴィンに襲いかかり、地面に押し倒して首筋に噛みつこうとした。
彼は咄嗟に首を腕で庇い、なんとか急所を守ることができたが、まだ細い腕には深々と魔獣の牙が突き刺さるのが見えた。
いけない。このままでは、彼が死んでしまう!
「エルから離れなさい!」
私は落ちていた小石を拾い、魔獣に投げつけた。
ほとんど狙いも定めずただ投げただけだというのに、運がいいのか悪いのかそれは魔獣の赤い目のすぐ近くにぶつかった。
『ギャゥウ!』
思わぬところから攻撃を受け、魔獣は悲鳴を上げてエルヴィンの腕を離すと私をギラリと睨みつけた。
標的がエルヴィンから私に変わったのだ。
私はせめての目くらましと牽制のため精一杯大きな水球をつくりだし、マリアンネを背に魔獣を睨みつけた。
魔獣がこちらにむけて駆けてくる。
「お嬢! マリー!」
エルヴィンの悲鳴が響いたその次の瞬間。
魔獣の後ろから黒い紐のようなものが伸びてきて、魔獣の体に巻き付いた。
そして、紐が触れているところから魔獣の体はすっぱりと切断され、五分割くらいになって地面にボトボトと落ちた。
目の前でなにが起きたのかわからず唖然としていると、なにやら黒いものが動いているのが視界の端に映った。
また魔獣か⁉ と思い私は身構えたが、すぐにそうではないとわかった。
「……エ……エル……?」
そこにいたのは、驚愕の表情のエルヴィンだった。
ただし、姿がさっきまでと大きく違っている。
すべすべで真っ白だった肌は褐色に染まり、澄んだ青い瞳は金色にギラギラと輝いている。
そして、背中には烏のような黒い翼。
魔獣に噛まれて血に濡れた手には、翼と同じ色の紐のようなものがある。
よくわからないが、きっとこれがさっき魔獣を切断したのだ。
「わ……わぁぁぁ!」
エルヴィンは黒い紐を放り投げ、悲鳴を上げた。
紐は彼の手から離れると、地面に落ちる前に跡形もなく消え去った。
「なんだこれ⁉ 俺……どうなってるんだよ!」
自分の姿が変貌したことと、謎の黒い紐にエルヴィンはパニックになってしまったようだ。
私より慌てているエルヴィンの姿に、私は冷静さを取り戻した。
なにが起きているのかわからないが、今の彼を他人の目に触れさせるわけにはいかないと直観でわかった。
「エル! エルヴィン!」
なんとか落ち着かせようと駆け寄って、手を伸ばした。
「きゃぁ!」
バサバサとせわしなく動く黒い翼が私の手の甲をかすめ、切り裂いた。
どうやら、翼の先は鋭い刃物のようになっているようだ。
「お嬢!」
私が出血したのを見て、彼は叫んだ。
金色の瞳を見開いて、私の手から流れ落ちる手を凝視し固まっている。
注意が自分自身から私に逸れたことで、パニックが収まったようだ。
「エル、落ち着いて。私は大丈夫だから」
私はゆっくりと歩み寄り、褐色に染まった頬を両手で包み込んだ。
「あなたのおかげで、私もマリーも助かったわ。
ありがとう、エル」
「お嬢……」
「もう大丈夫よ。大丈夫だから、元に戻って。
これは、きっとあなたの魔力がどうにかなったものよ。
魔力を制御したら、これもきっと収まって元に戻るんだと思うわ」
私は動揺に揺れる金色の瞳を真っすぐに見つめた。
「あなたの中の魔力に集中して。
訓練で何度もしたのと同じことをすればいいの。
あなたならできるはずよ」
落ち着いた優しい声で言い聞かせると、彼は瞳を閉じて胸に手を当て集中し始めた。
正直なところ、私にだって彼の身になにが起きたのかわからない。
これで本当に元に戻れるかどうかは、賭けでしかないのだ。
もし元の姿に戻れなかったら、きっとエルヴィンは酷い目にあうことになるだろう。
そんなのは絶対に嫌だ。
(お願い、元に戻って!)
私は祈りながら、自分の魔力と戦うエルヴィンを見守った。
その祈りが通じたのか、変化が起こったのはそれからすぐのことだった。
黒い翼が崩れ、黒い靄になったかと思うとすぅっと彼の体に吸い込まれていた。
それと同時に褐色だった肌色も白くなっていく。
しばらくして開かれた瞳は、金色ではなく穏やかに澄んだ青。
「エル……よかった、元に戻れたのね」
私は安堵の溜息をもらした。
「お嬢……俺は」
「大丈夫。もう大丈夫よ」
私はエルヴィンをぎゅっと抱きしめた。
「マリー、あなたもいらっしゃい」
手招きをすると、呆然と立ち尽くしていたマリアンネも涙目になりながら駆けてきて私たちに抱きついてきた。
「お兄様……お姉様……」
「怖かったわね、マリー。
もう魔獣はいないから、心配いらないわ。
エルが私たちを守ってくれたのよ」
わけがわからないことばかりだが、エルヴィンのおかげで私たちが無事生き延びたことは確かだ。
「このことは、私たちだけの秘密よ。
絶対に、だれにも言ってはいけないわ。
いいわね?」
二人はコクコクと頷き、同意してくれた。
こうして、私たちは新たな秘密を共有することになった。
私たちが一応の落ち着きを取り戻し、路地から顔を出して外の様子を伺うと、駆けつけた騎士団により既に魔獣は一匹残らず斬り捨てられていた。
「あ、きみたち! 怪我をしているじゃないか!
手当をしてあげるから、こちらに来なさい」
騎士の一人が流血している私とエルヴィンを見とがめ、負傷者が手当を受けてるところまで連れてってくれた。
「きみは貴族のご令嬢だね?
付き添いの大人とはぐれてしまったのかい?」
白髭のおじいちゃん医師が、血が出ている私の手の甲にガーゼをあてながら尋ねてきたので、私はエルヴィンのこと以外は全て正直に話した。
魔獣については、「知らないおじちゃんが魔獣を切り殺して、すぐどこかに行ってしまったの。とても怖かった……」と泣きそうな顔で言ったので、誰にも疑われることはなかった。
そうしている間に、私の手の甲にあった傷はすっかり治ってしまった。
「これ、アブラッハの……?」
「そうだよ。アブラッハの実からつくった回復薬をガーゼに沁み込ませてあるんだ。
ほら、もう痕も残っていない」
知識としては知っていたが、実際に回復薬の効果を体感するのは初めてで、私は傷が消えた手の甲をまじまじと観察した。
こんなに即効性があるなんて、すごい。
見ると、エルヴィンも同じガーゼを腕に巻かれている。
彼の傷は私のより深いが、この薬があればきっと大丈夫だろう。
「お嬢様!」
ちょうどそんな時、年嵩のメイドが戻ってきた。
「エルヴィン! マリアンネも!
ごめんなさい、私が離れたせいで……」
メイドは私たち三人を抱きしめて、おいおいと泣き始めた。
正直、このメイドがいても魔獣に対抗できたわけでもないので、むしろ離れてくれていてよかったと思う。
「私たちは大丈夫よ。だから泣かないで」
私がメイドを慰めるという、なんだかおかしな立場になってしまった。
ともあれ、彼女も無事でなによりだ。
私たちは騎士団の馬車で屋敷まで送られ、親切に付き添ってくれた騎士は状況説明とともに、令嬢を迎えに行くはずの馬車が遅れるなんて家政の取り仕切りが悪いのではと母に苦言まで呈してくれた。
どうやらキルステン伯爵家よりかなり家格が高い家の出身であるらしい騎士に母はなにも言い返せず、私は少し胸がすく思いだった。
後で聞いたところによると、迎えの馬車が来なかったのは弟が企てた嫌がらせだったらしい。
私を困らせようと、母の宝石箱から持ち出したペンダントで馭者を買収したのだそうで、さすがの母も弟を叱り飛ばしたそうだ。
母と弟はますます私に寄り付かなくなり、私の前世の記憶という曖昧で証明しようもないものよりよほど重大な秘密を抱えた私たち三人の結束はさらに強まっていった。