第100話 宙を舞う兄
――ラファエロの怒声が木霊する。
マティアスに灸を据えられたのがよっぽど応えたのだろう。
あんなので激怒するとは、やはりガキだな。
大方、親父にだってぶたれたことはないのだろうさ。
〝最低最悪の男爵〟だった俺が言えた義理じゃないが、大概甘ちゃんだな。
「許さない……! 僕の綺麗な顔を叩くなんて……死ぬほど後悔させてやる……!」
可愛らしい顔を憤怒に染め上げたラファエロ。
再び立ち上がり、鉈で斬りかかろうと構えるが――。
「はい……そこまで……」
いつの間にかラファエロの背後に回り込んでいたカーラが、彼の腕を掴んで羽交い締めにした。
「くっ……!? カーラお姉ちゃん、放してよ!」
「あなたの負けよ、ラファエロ……。あなたの暗殺は失敗したの……」
「まだだ! まだ終わってないもん!」
「これ以上……我儘を言うなら……お姉ちゃん、怒っちゃうから……」
口先では諭すように落ち着いた声で話しかけるカーラだが、その腕はラファエロを力強く掴んでミシッという音を奏でる。
……怒っちゃうから、と言いつつもう既に怒ってるだろ、お前。
「ぐうううぅぅ……っ!」
悔しさのあまりギリッと歯軋りするラファエロ。
しかしまあ、実の姉に捕まってしまえばもはや為す術もあるまい――。
そう思ったのだが、
「――〔影潜り・闇染隠れ〕ッ!」
ラファエロは魔法を発動。
直後に身体がドロリと真っ黒な泥のようになり、カーラの拘束をすり抜けて足元へと落下。
そのまま影の中に流れ込むように入り込み、完全に姿を晦ます。
「……! 今のは、レクソン家の秘術の一つ……! どうしてラファエロが……!」
意表を突かれたらしいカーラは驚きを露わにし、同時にマティアスとエイプリルへと視線を向けた。
「二人共、〝影〟に気を付けて……!」
「か、影……? どうして――」
思わずキョトンとするエイプリル。
だがそれも束の間、
「――きゃあっ!?」
次の瞬間、エイプリルの影から伸びた手が彼女の足を掴み、そのまま影の中へと引きずり込む。
そしてあっという間に、エイプリルは影の中へと姿を消した。
「ッ! エイプリル!」
『くふふふ! 〝花嫁〟を取られた気分はどうかな、お兄さん!』
どこからともなく聞こえてくるラファエロの笑い声。
この魔法……どうやら以前レティシアを〝呪装具〟の実験動物にしようとしたライモンドが使っていた移動魔法と似た類のモノだな。
一度潜られると、こちらからは手出しができない。
まったく厄介な魔法だ。
『よくも僕をコケにしてくれたねぇ! お返しに〝花嫁〟は簡単には殺さない! たくさん玩具にして辱めて、それから死体を街灯に吊り下げてあげる! 楽しみにしててよ!』
アハハハ! と響く甲高い笑い声。
それは徐々に小さくなっていき、完全に聞こえなくなると同時に――ラファエロとエイプリルの気配が完全に消失した。
タイミングを同じくして貴族たちにかけられていた精神操作魔法も解除。
大乱闘と化した舞踏会はようやく静寂を取り戻した。
「あンのクソガキ……! よくもエイプリルを……!」
「ごめんマティアスくん……。私が王立学園に入る前は、ラファエロはあんな魔法使えなかったのに……」
焦るマティアスに対して申し訳なさそうに謝罪するカーラ。
マティアスは一度深く深呼吸して自らを落ち着かせると、
「……あのガキがどこへ逃げたか、わかるか?」
「〔影潜り・闇染隠れ〕は……魔力の消費が激しい魔法……。それも自分以外も連れてとなると、そう遠くまでは行けないはず……。魔力の残滓を追えばいい……」
「よし、すぐに追い駆け――!」
「待て」
急いで走り出そうとするマティアスの肩を、俺はガシッと掴んだ。
「マティアス、お前はここに残れ。あのガキは――俺が追う」
「オードラン男爵……! だけどよ――!」
「アルバンの言う通りよ。あなたにはやらなくてはならないことがあるわ」
俺に続いてレティシアが言う。
彼女はぐちゃぐちゃになった会場内を見渡し、
「怪我人も大勢出たし、まだ無事な貴族たちも酷く混乱してる。あなたはここに残って、事態を収拾させなきゃ」
――レティシアの言う通りだ。
ラファエロが乱闘騒ぎなんて起こしてくれたお陰で、出なくて済んだ被害が大量に出てしまった。
幾らマティアスも完全な被害者と言えど、だからといって簡単に許されるはずもないだろう。
説得だの隠蔽だの揉み消しだの賠償金だの……気の毒な話だが、マティアスにとっては猛烈に大変な仕事がこの後に待っている。
故にこんな状況となってしまったからには、幾ら〝花嫁〟のためとはいえ貴族たちの傍を一秒たりとも離れるべきではないのだ。
レティシアもそれがわかっているから、マティアスを留めようとしているワケで。
ま、もし俺が逆の立場だったなら「知ったこっちゃない。レティシアの方が大事だ」って言うけど。
それはそれ、だ。
俺はフゥと小さく息を吐き、
「……あのガキはレティシアも傷付けようとしやがった。許しておけん」
「オードラン男爵……」
「それに――お前もお前で、落とし前をつけなきゃいけない相手が残ってるだろ?」
俺はチラリと視線を流す。
その先には――。
「ラ、ラファエロの野郎……! 雇い主である俺を置いていくなんざ、一体なにやって……!」
――今回の事件の主犯でありながら、ラファエロに見捨てられて一人会場に放置された、憐れなナルシスの姿。
それを見たマティアスは、
「…………ああ、そうだったわ」
思い出したかのように、ドスの効いた声で言う。
同時にさっきまで燃え上がっていた怒りを再熱させ、ポキポキと拳を鳴らしながら実の兄の下へと歩み寄っていく。
「うっ……! ま、待てよマティアス! 俺たちは血の繋がった兄弟だろ!? だから――」
「兄貴――いやナルシス、歯ァ食いしばれ」
見下すような、侮蔑するような目でマティアスはナルシスを睨み――顔面に思い切り拳をお見舞いする。
実の弟にぶっ飛ばされた兄は、華麗に宙を舞うのだった。
祝100話!