34# 腹の中
血染帽は、物語第三章の錬金帝国編で登場した敵である。
帝国が殺し屋として雇い、三章の序盤から中盤に掛けて主人公勢力の前に立ち塞がった。
主人公勢力の魔法使い——王国第一王女アリア、大魔導メイリン、聖女フランは戦闘開始前に血染帽の手により戦闘不能に陥り、主人公側は魔法無しでの戦闘を強いられる事となる。
主人公勢力の残りの面々も魔法は使えるが、血染帽には躱されるか無力化されて意味をなさず、結果的に武器か徒手空拳により攻撃するしか無かった。
物語では主人公アベル、ファラティアナ、リルカの三人掛かりで袋叩きにし、何とか倒す事が出来た。
主人公勢力からして、血染帽は何ともやり難い相手だった事だろう。
物語を知るローファスは、血染帽の存在を知っている。
第三章に帝国で出現する敵が、まさか物語が始まる三年前である現在に、王国の北方であるステリア領で遭遇するなど、ローファスからしても予想だにしなかった事。
そして、血染帽の存在を知っているからと言って、不意の遭遇で対策など出来る訳もない。
典型的な魔法使いであるローファスにとって、血染帽は相性最悪の天敵であった。
*
——暗黒壁。
ローファスは暗黒壁を無詠唱にて展開し、迫るナイフを弾き飛ばした。
その上で、小型の影の使い魔——剣魚の群れが血染帽を襲う。
血染帽は、暗黒の壁に弾かれたナイフを見て目を細める。
「今のに間に合うなんて、魔法の展開速度が随分と早いね。良い腕だ」
話しながらも、迫る黒い剣魚を最小限の動きで躱しながら、聳える暗黒の壁に近寄り、ナイフの刃先で斬りつけた。
直後、暗黒壁はまるで風船が割れる様に破裂し、霧散した。
魔法を容易く破壊するナイフ。
その絡繰りを、ローファスは知っている。
秘密はナイフと、血染帽の眼にある。
血染帽の持つナイフは全て、この世で最も魔力の通りが良い金属——魔銀で作られた特注品。
そして、魔力を持たぬ身でありながら、生まれながらに持った特殊な魔眼。
それは魔力を直接視る事が出来る眼だ。
人が魔力を感じたり、ローファスが術式を見て情報を読み取るのとは訳が違う。
血染帽の目には、人の体内に巡る魔力や、魔法の準備、構築、展開、魔法の骨組みとなる術式、その全てが鮮明に見えている。
それ故、魔法障壁の術式の隙間からナイフを通したり、展開された魔法の術式の僅かな隙間に傷を入れ、術式を破綻させる事で魔法そのものを破壊する事が出来る。
魔力を視る眼と、魔力に干渉が出来る魔銀のナイフ、そして術式の隙に刃を差し込むと言う神業とも呼べる繊細なナイフ捌き。
それらが揃い、魔法破壊は実現してる。
それを容易く成し得る血染帽だからこそ、魔法使いに対して無類の強さを誇るまでに至ったのである。
剣魚が足止めにならない事も、暗黒壁が破壊される事も、ローファスからすれば想定内。
ローファスの狙いは、血染帽を暗黒壁の元まで誘き寄せる事。
血染帽の足元の暗黒から、待ち構えていた黒い海洋竜が大口を開けて現れた。
即座に丸呑みにされる血染帽。
が、次の瞬間には丸呑みにした海洋竜は内部から術式を切り裂かれ、破裂して霧散する。
「見えてるよ。影の下に潜んでたのも、全部ね。躱すのも面倒だから避けなかったけど」
まるで散歩でもする様に、破裂した海洋竜の中から現れる血染帽。
それに対し、ローファスは暗黒鎌を生み出し、ナイフが刺さったままの右手に持って振り上げる。
切り裂かれたローファスの喉は、傷口を暗黒が覆い、溢れ出る血を塞き止めている。
これにより、一時的にだが手を使う事が出来る。
そして暗黒鎌は振り下ろされ、巨大な黒い斬撃が血染帽を襲った。
「暗黒魔法で止血…? 器用だね。でもその傷の深さでは、焼石に水だろう」
迫る斬撃に驚きもせず、感心した様に、そして呆れた様にも呟く血染帽。
黒い斬撃に対し、血染帽はナイフを構えて応じた。
黒い斬撃はナイフに触れた瞬間、破壊され霧散する。
「…」
目を見開き、唖然とするローファス。
放たれた斬撃、その速度にすら対応し、斬撃に込められた術式を切り裂いて魔法破壊をして見せた血染帽。
まさかここまでとは、ローファスも思わなかった。
ローファスの頬を、再び嫌な汗が伝って流れた。
血染帽はにやりと笑う。
「焦りが見えるね。手詰まりかい」
「…」
ローファスに睨み付けられるが、しかし血染帽は涼しい顔でナイフを投げた。
場所は、ローファスの足元。
「…!」
ナイフはローファスの足元に突き刺さり、構築していた術式が断ち切られ、魔法は発動せずに不発に終わる。
破壊された魔法は、影渡り。
ローファスは逃げ道すら閉ざされた。
「言ったろう、見えてるって。まだまだやる気満々って顔して、隙を見て転移で逃げようだなんて強かな子だ。しかし転移魔法を無詠唱とは、その歳ながらに恐れ入るよ」
楽しげに笑う血染帽に、ローファスは自棄になった様に、背後に大量の魔法陣を展開する。
発動するのは無数の暗黒槍。
しかし、その魔法陣は血染帽が投げた一本のナイフが術式の一部を傷付ける。
たったそれだけで、展開された大量の魔法陣はひび割れて砕け散った。
「魔法陣は沢山あっても、君から伸びるパスは一つ。僕はそれを断ち切るだけで良い。簡単な事だよ」
そうこうしている内にも、ローファスの首からは滲む様に血が流れ落ちる。
暗黒で傷口を塞いでいるとは言え、傷が深過ぎる為、この程度では流れ出る血を完全に止める事は出来ない。
少しずつだが、確実に血は失われていく。
血が流れ落ちる毎に、ローファスの意識は薄れ、視界も朧げになっていく。
最早碌に反応を示さなくなったローファスを見た血染帽は、首を傾ける。
「さて、もう良いかな。転移まで使おうとしたんだ、もう奥の手も無いだろう?」
血染帽は、左右の手に四本ずつ、計八本のナイフを構え、ローファスに向けてその全てを投げ放つ。
高速で飛来する八本のナイフ。
防御不能、回避不可。
血を流し過ぎ、霞の掛かった様な視界の中、ローファスは諦めに近い境地で目を瞑った。
その刹那、ローファスはその身に衝撃を受け、そのまま床を転がる。
その衝撃は、ナイフによるものではなかった。
目を開ける。
ローファスの眼前には、リルカ・スカイフィールドの顔があった。
リルカは、まるで庇う様にローファスに覆い被さっていた。
ぽたり、とローファスの頬に血が落ちる。
その血は、ローファスのものではなく、リルカのもの。
リルカは、口より血を流していた。
見ると、リルカの背にはナイフが深々と刺さっており、その内の一本は脇腹を貫通している。
——何故。
何故ここに居る、何故助けた、何故傷を負ってまで自分を庇った。
喉を裂かれたローファスは、その疑問すら口に出来ない。
しかしその表情からローファスが言わんとする事を悟ったのか、リルカは苦悶に顔を歪めながらも、微笑んで見せる。
「もっとスマートに避ける手筈だったんだけど…ミスったね」
力無く笑うリルカ。
そしてリルカは上体を起こし、口から流れる血をぐいっと拭って血染帽を見据える。
血染帽は目を細めた。
「…何もしないから放置してたんだけど、まさか庇うとはね。意味あるかい、その行為」
死に掛けのローファスを命懸けで救う、その行為を血染帽は理解出来ず首を傾げる。
ローファスの傷は致命傷、直ぐに高位の治療魔法を施すか、高級ポーションでも飲まない限り、間も無くその命は尽きる。
無論そのどちらも、血染帽はさせる気は無い。
そんなローファスを身を挺して庇うリルカの行為は、死体を一つ増やすだけだ。
血染帽からすれば理解の外である。
戦いの途中から部屋に潜んでいたリルカの存在に、血染帽は気付いていた。
リルカが用いていたのは、不可視化に、魔力遮断の魔法による非常に高度な隠密。
それは飛空挺に搭載された隠密の結界に近い術式。
魔力感知頼りのローファスでは気付けなかったが、魔力を直接視認する血染帽には、その隠密の術式すら意味を成さない。
血染帽からの意味があるのかと言う問いに対し、リルカは答えず、爆発的に魔力を増幅させる。
「——《拗れ狂う大気》」
リルカが口にしたそれは、詠唱破棄による風系統上級魔法。
「…!?」
その魔法の発動に、血染帽は初めて、驚きと動揺を見せた。
凄まじい速度の術式構築と、発動までのインターバルの短さ。
その魔法の構築速度は、血染帽の想定を遥かに超えたものであり、発動の阻害すら出来なかった。
そして間も無く、無数の空の刃と荒れ狂う風に部屋は満たされる。
広範囲殲滅魔法である《拗れ狂う大気》。
それが室内と言う狭い空間で凝縮され、高密度の大気と夥しい数の空の刃が室内を駆け巡る。
「——チッ」
血染帽は苛立たしげに舌を打ち、無数に迫る空の刃を、ナイフ一本で払う様に打ち消していく。
この魔法の特徴は、無数に飛び交う空の刃一つ一つに独立した術式がある事だ。
大元の魔法陣は、魔法の術者であるリルカの身体に刻まれている。
しかしその周囲には、術者であるリルカとローファスを守る様に、膨大な量の空の刃が飛び交っている。
大元の魔法陣を断とうとリルカに近付けば、より多くの空の刃を相手にする事になる。
血染帽にとって、非常に面倒なタイプの魔法だった。
しかし、それでも血染帽は仕留められない。
それ所か、恐らく傷一つ負わせる事は出来ないだろう。
この魔法は、足止めが精々。
リルカはローファスに向き直る。
「ローファス君、今直ぐ逃げて。あの男は、私が相手するから」
「…」
リルカの言葉に、喉を潰されたローファスは当然だが返答出来ない。
ローファスは、ただ納得出来ない様にリルカを睨む。
ローファスの傷は十分致命傷と言えるが、リルカの傷もかなりの深傷だった。
背に何本ものナイフを受け、内一本は貫通し、脇腹を切先が貫いている。
多量の血が流れ、リルカとローファスの下には、どちらのものかも分からぬ程の血溜まりが出来ている。
リルカは、ローファスを庇う形で重傷を負った。
その上で、血染帽の相手をするからローファスには逃げろと言う。
そんなもの、ローファスからすれば容認出来る筈が無い。
何よりリルカ・スカイフィールドは、物語にてローファスを幾千幾万と殺した主人公勢力の一人だ。
そんなリルカに命を救われる事を、ローファスは決して認めない。
主人公勢力に借りを作る位なら、ローファスは迷わず死を選ぶ。
ローファスに根付く闇は深く、ともすればそれは、他人から見れば意地を張っているだけの様にも見える。
心の奥底よりどす黒い感情が溢れ、ローファスは殺気の籠った目でリルカを睨んだ。
リルカは呆れた様に息を吐く。
「恐い顔…ローファス君のその眼は、あんまり好きじゃないかな」
リルカはそう呟くと、更に言葉を続ける。
「勿論、ただでとは言わないよ。命を助けるんだから、ローファス君には私のお願いを聞いてもらう」
リルカの言葉に、ローファスは目を細めた。
リルカは続ける。
「甲板でも言ったけど、イズ姉の病を治して欲しいんだ。ローファス君は無理って言ってたけど、そんな筈無いんだよ。方法は…ごめんけど、私にも分からないんだ。でもそれはローファス君だから…いや、ローファス君にしか出来ない事——」
確信を持った様に言うリルカに、ローファスは怪訝に眉を顰める。
リルカは「ついでに…」と、ローファスの肩に寄り掛かる様に頭を預ける。
「シギル兄達も助けてあげて欲しい。勝手ばかり言ってごめん。でも、私はもう助けに行けないから」
リルカは腹部を貫くナイフに触れながら、寂しげに呟いた。
それは懇願。
リルカにとって、命を賭してでも叶えたい願い。
それは、他でも無い《緋の風》の安寧。
ローファスはそれを聞き、静かに息を吐く。
現状、リルカには不審な点が数多くある。
まずはイズの病の治療を、ローファスならば出来ると謎の確信を持っている点。
そして、ローファスの目から見ても、卓越した魔法の技能を持つ点だ。
物語において、リルカは魔法が然程得意な訳では無かった。
それが、まだ物語は始まってすらいないのに、詠唱破棄で上級魔法を操っている。
しかし、不審な点はあれど、その目的はどうやら《緋の風》の安寧であるらしい。
ローファスは少し考えるが…やはり全てを飲み込んだ上でも、リルカの願いを素直に聞き入れてやる気にはなれなかった。
それどころか、敵の攻撃から身を挺して庇い、挙句逃がそうとまでするリルカに、ローファスは沸々と怒りが込み上げてくる。
まるで格下扱いされた様な、そんな気にさせられ、それはローファスの癪に障った。
ローファスは床の暗黒より、複数の暗黒腕を伸ばす。
その内の一本は床に転がるポーションを拾い上げ、ローファスに投げ渡す。
そして残りの暗黒腕が、即座にリルカの手足を拘束した。
「えっ…は?」
訳が分からないと言った調子で惚けるリルカ。
ローファスは掴み取ったポーションの蓋を片手でこじ開け、リルカの口に強引に捩じ込む。
「むっ!? んー!?」
突然のローファスの狼藉に、リルカは当初こそ驚き目を見開くが、徐々に身体の傷が癒え、刺さっていたナイフも傷の再生に応じて抜け落ちる。
同時に暗黒腕による拘束も解かれる。
傷が癒えたリルカを見たローファスは口角を上げ、してやったりと好戦的に笑う。
口の中に入れられたのがポーションであると理解したリルカは…剣呑を帯びた目でローファスを睨んだ。
そして解放されて自由になった手でローファスの胸倉を掴むと、そのまま一気に引き寄せ、口の中に残ったポーションを口移しでローファスに返す。
「…!?」
咄嗟に離れようとするローファスだが、リルカにより強く抱き付かれ、離れられない。
ローファスは暫し抵抗するが、遂には諦めてポーションを飲み込んだ。
それを確認したリルカは、漸くローファスから口を離す。
口移しで返されたポーションは僅かだが、最高級品である為、その回復性能は絶大。
ローファスの喉の傷は、完治とまではいかないまでも、声が出せるまでに回復した。
口を離したリルカは、変わらず鋭い目でローファスを睨む。
「馬鹿じゃないの」
リルカが発する声は、恐ろしく冷たい。
初めてとも言える、リルカが見せるローファスに対しての明確な怒り。
「拾ってまで使ったって事は、ポーションはこの一本しか無かったって事でしょ? 自分で使いなよ。何で私なんかに使ってんの。ちょっと飲んじゃったじゃん。私の話、聞いて無かったの? ローファス君には、皆を助けて欲しいって言ったんだけど?」
一つ一つがナイフの様に鋭く、責める様なリルカの言葉。
ローファスは、対抗する様に冷たい目で睨む。
「…先程から、人が喋れないのを良い事に勝手な事をべらべらと。何があの男は私が相手するから逃げろだ。奴は俺が殺す、貴様こそ下がっていろ」
「はあ? やっぱりローファス君、馬鹿なの? 今までの戦いで君じゃ勝てないの分からない? それとも、私が助けなかったら死んでたの忘れてるの?」
ピキッとローファスの額に青筋が立つ。
「俺を助けただと? 随分と恩着せがましい奴だ。遺跡で助けてやったよな。それで貸し借りは無しだ」
「今それ持ち出すの? 貴族の癖にせこくない? って言うか、論点ずらさないでよ。ローファス君じゃ血染帽に勝てないって話だよね?」
「舐めるなよ。魔法の制限が無ければ、あんな奴——」
と、言い合いがエスカレートする中で、ローファスは吐血する。
「ほら。そんな調子でどうやって——」
言い掛けたリルカも吐血した。
ローファスは、ポーションを飲んだとは言え、未だ喉の傷は完治に至っておらず、暗黒が傷口を保護している。
リルカも飲んだポーションの量が少なく、表面上の傷は塞がったものの、内臓の傷は完全には癒えていない。
両者共に、無理を押して喋り続けたが故の吐血。
そしてここで、展開されていた《拗れ狂う大気》が終わりを迎える。
血染帽が空の刃を打ち消し続け、術式が削られ続けた結果、《拗れ狂う大気》の発動時間は通常よりもかなり短くなった。
吹き荒れた風は止み、飛び交う空の刃も無くなった。
傷だらけの半壊した寝室に、血染帽は無傷で佇んでいた。
「おや、てっきり逃げたものと思ったけど。二人ともそんなに死にたいのかい?」
呆れた様子の血染帽。
そもそも血染帽の仕事はギランの護衛であり、殺人では無い。
当然降り掛かる火の粉は払うし、逃す気も毛頭無いが、逃げられたら逃げられたで仕方ないかと割り切っていた。
護衛の任を受けている以上、護衛対象のギランさえ無事であれば何の問題も無い。
しかし、ローファスとリルカは、血染帽がこれまで戦って来た中でも中々に骨のある獲物であった。
戦闘狂では決して無いが、血染帽は思いの外この戦いを楽しんでいた。
「久しぶりに骨のある魔法使いと戦えて嬉しいよ。僕、血が嫌いなんだ、弱者の血はね。でも、君達の血は美味しそうだ」
血染帽の真っ赤な瞳が、まるで猫の様に細く絞られる。
それは正しく、捕食者の目。
そんな目を向けられるローファスもリルカも、大して動じない。
「あーあ…出て来ちゃった」
「今の魔法、もう一度発動すれば良いだろう」
「うわ出たよ、ローファス君の魔力おばけ発言。上級魔法だよ? 普通は連発できないからね?」
「そうか。貴様の魔力は矮小だったな」
「…え、喧嘩売ってる?」
額に青筋を立てるリルカを、ローファスは無視した。
普通に喋るローファスに、血染帽は目を細める。
「ああ、ポーションを飲んだのか。こんな事なら、割っておくべきだったかな。まあ、詠唱出来たから何だって話なんだけど」
血染帽は余裕の面持ちでナイフを片手に、二人の元へ歩いて近付く。
距離を詰められる前に、ローファスは口を開く。
「——《光無き世界》」
ローファスが詠唱破棄で発動したそれは、攻撃力の無い上級魔法。
その展開速度は常軌を逸しており、術式を直接見る血染帽の目ですら、構築から発動までの行程を目で追えなかった。
それはつまり、発動前に術式を潰して不発に出来ないと言う事。
ローファスはこの程度の展開速度ならば無力化されないのか、と当たりをつける。
血染帽は構える事すら許されず、暗黒の濃霧に包まれた。
「…目眩し? 僕には意味無いと思うけど」
血染帽の目には魔力が直接見えている。
それは暗黒の中でも視界に囚われる事なく、ローファスの内に流れる魔力を鮮明に見る事が出来ると言う事。
血染帽に、暗黒での目眩しは効果が無い。
しかしローファスは、目眩しの為に《光無き世界》を発動した訳では無い。
床は暗黒で満たされ、大気は暗黒の濃霧で満たされている。
それは即ち、活性化した影の使い魔の狩場と言う事。
「やれ」
ローファスの号令の元、多種多様の海洋の影の使い魔が、黒い濃霧の中で血染帽を襲う。
ついでに濃霧の全方位に展開した大量の暗黒球が、血染帽目掛けて放たれた。
が、放った全ての暗黒球は躱されるか破壊され、影の使い魔は、片っ端から術式を切られ破壊されていくのをローファスは感じ取る。
寧ろ、そんな猛攻の中でも血染帽は足を止めず、ローファスに近づいて来ていた。
ここまでやっても、リルカが用いた《拗れ狂う大気》程の足止めには至らない。
「…これでも足りんか」
「…無理だよ、今のローファス君じゃ勝てない。意地張って無いで逃げなって」
ローファスの外套の裾を引くリルカ。
ローファスはリルカに疑惑の目を向ける。
「今の俺では勝てぬ…か。妙な言い回しだ。まるで俺が知らぬ事情を色々と知っているかの様だ」
「…」
リルカは沈黙で返す。
ローファスはそんなリルカを見据える。
「後で全て話してもらうぞ——リルカ・スカイフィールド」
リルカは観念した様に微笑む。
「いいよ、後でね——ローファス・レイ・ライトレス」
そうこうしていると、暗黒の濃霧から飛び出る様に抜けて現れた血染帽が、ナイフを構えてローファスに飛び掛かる。
「二人でおしゃべりかい? 寂しいじゃないか、僕も混ぜてよ」
それにローファスは好戦的に笑って返す。
「若人の話に割って入ろうとは、無粋な老害だな——血染帽…否、ストロア・エンドウォーカー」
ストロア・エンドウォーカー。
それは、ローファスが物語を通して知った血染帽の名前。
ここ数世紀、血染帽が他者から呼ばれた事の無かった本名。
それは血染帽の心を揺さぶるには十分なものだった。
「その名を、何処で…」
突然名を呼ばれた血染帽は、目を見開いて動揺する。
それは血染帽が見せた、初めての隙。
その隙を突くように、ローファスの足元から現れたストラーフの巨大な触腕が血染帽を襲う。
それをまともに食らった血染帽は吹き飛ばされた。
しかし接触した瞬間、術式を切り裂いたのか、触腕は疎か影の中に潜むストラーフ自体が破壊され、霧散する。
影の使い魔は、術式を破壊されようと、魔力により修復可能だ。
だが、術式が傷付いている以上、即座に復活は出来ない。
血染帽により、ローファスの保有する影の使い魔は大分その数を減らされた。
この戦いの中で再利用は出来ない。
ローファスはリルカと話してから、ある言葉の意味をずっと思案していた。
今のローファスには勝てない。
今のとはどう言う意味なのか。
未来のローファスならば勝てると言う事なのか、それとも今のままでは勝てないと言う意味なのか。
それとも、もっと別の意味が含まれているのか。
ローファスはこれまでの血染帽との戦いを振り返りながら、血を多く失い、鈍った思考に鞭を打って考えた。
術式を破壊される以上、既存の魔法で、血染帽を殺せるものは存在しない。
しかし、手数が多ければ、殺せはしないが足止め程度ならば可能だ。
リルカが使用した広範囲殲滅魔法。
あの常軌を逸した手数の魔法は、暗黒魔法には無い。
確かにこれでは、ローファスは血染帽には勝てない。
そこでローファスは、一つの結論を出す。
「喜べストロア。貴様専用の魔法だ」
それは新たな魔法の創造。
既存の魔法で殺せないなら、殺せる魔法を創れば良い。
ローファスのそんな、無茶苦茶でありながらシンプルな発想。
突発的な新たな魔法の創造、それは常人ではとても真似出来ない行為。
しかし、ローファスの無尽蔵の魔力と、卓越した魔法センス、そしてこれまで積み重ねて来た魔法の修練がそれを可能にした。
それは血染帽を殺す為だけに生み出された魔法。
ローファスの身から、高密度の暗黒の魔力が溢れ出す。
「僕専用の魔法…?」
目を細める血染帽を前に、ローファスは魔法を発動する。
「——《闇より暗い腹の中》」
発動された魔法。
しかし、何も起こらない。
魔法発動の為の術式構築は疎か、魔法陣の展開も無い。
血染帽が魔力を視る眼で見渡すも、見える範囲で術式の発現は見られない。
ローファスの付近にも、リルカの付近にも、勿論血染帽の周囲にも。
どれだけ視ても、魔法の発動も、その気配も感じられない。
はったりか、と血染帽はローファスを見る。
ローファスは笑った。
「なんだ、律儀に死ぬのを待つのか? 今のうちに俺を殺さねば、最早貴様に勝ち目は無いぞ」
「何を…」
「ああ残念、時間切れだ」
大袈裟に肩を竦めて見せるローファス。
ふと、血染帽は何かに気付いた様に下を見た。
そして見る見る内に顔を引き攣らせていく。
「なんだ、これは…」
床、屋敷の地下室の更に下、地の底より、巨大な何かが凄まじい速度で向かって来るのを、血染帽の魔力視の眼が捉えた。
「…ッ」
血染帽はばっと顔を上げ、ナイフを手にローファスの元へ駆けた。
それは、ローファスの目で追えぬ程の人を超えた速度。
ローファスが瞬間的に発動した、何重もの暗黒壁。
血染帽はそれら術式を切り裂きながら、ローファスの命を刈り取るべく突き進む。
そのナイフがローファスの喉に届くその瞬間——地下より地上に現れた黒く巨大な何かが、血染帽ごと屋敷の半分を飲み込んだ。




