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第1章(その1)

 ハリエッタ・クリムにとって、それはまさに失意の旅路であった。

 まだ見ぬ新天地へ向かう旅であり、彼女にとっては途上の旅のさまざまな事柄が、初めて見聞きするものばかりであったはずだが、だからと言ってそれが必ずしも慰めとなるわけではなかった。

 そんな鬱蒼とした思いをまるで代弁するかのように彼方の空には重い雲が垂れ込めていた。雲行き次第ではそのうち雨になるやも知れず、それがまた、彼女の心を鬱々とさせるのだった。

 馬上にまたがったままそうやってぼんやりしていると、まるで彼女を促すかのように、馬がぶるりと身を震わせる。

「ごめんね、ミューゼル。先を急ぎましょう」

 むずかる愛馬をなだめつつ、彼女は街道の続く先へと視線をやった。同行している馬車からいつの間にか幾分距離が開いてしまったのに気づいて、彼女は慌てて馬を走らせる。

 先を行くのは中古で買い求めた、二頭立ての古びた馬車だった。御者台に座るのは父グスタフで、あとは姉のリリーベルと妹のエヴェンジェリンが乗り込んでいた。一人馬上にあるハリエッタも含めて家族四人の長旅であった。

 一人だけ騎馬での随伴であり、その上で旅装姿の腰に剣など下げていては、いつまでも未練がましいと妹にからかわれても仕方のないところではあった。

 女だてらに騎士になりたいと言えば、大抵の人には笑われた。笑わないまでも、物珍しい目で見られることも少なくはなかった。

 だが実際のところ、正騎士団の入団試験の要綱には性別に関する規定など一行だって記述がありはしないのだった。

 事実、女性の騎士団員も何名かはいて、要人警護などの任に当たっているのをハリエッタも見かけた事がある。……その事実を知らなければそもそも自分も騎士になれるかも、などという憧れを抱いたりはしなかった。

 そしてハリエッタはただ漫然と憧れを語るばかりではなかった。何はなくとも剣と馬の実技が伴わなければ入団試験に合格することは難しい。父に頼み込んで剣の先生のところに通わせてもらっていたし、やはり父にねだって乗馬を修練するために買い求めた馬が、今またがっているミューゼルであった。クリム家のような貧乏貴族にしてみれば必ずしも娘にそれを許す経済的余裕があったわけではないことも承知してはいたが、だからこそハリエッタは日々の修練を怠らなかった。

 昨年初めて受けた入団試験には合格することはかなわなかったが、男子の志望者であっても一度で合格するものは多くはなかったし、ハリエッタとしては充分な手ごたえを感じ、今年こそはと再試験に意欲を燃やしていた。

 そんな矢先の事だった。父グスタフがある日突然このようなことを言い出したせいで、状況は一変してしまった。

「わしらはこの屋敷を、立ち退かなくてはならなくなってしまった」

 すまぬ、と言って父は三人の娘たちに、深々と頭を下げた。

 大事な話がある、とあらたまった前置きをされた上に、切り出された話がそのような内容であったから、三者三様に面食らったまま二の句が継げなかった。

 ……いや、実際に間抜けのように口をぽかんと開けたのは次女のハリエッタだけで、あとの二人は態度だけを見れば実に冷静そのものだった。

 長女のリリーベルは器量良しのしっかり者、亡き母に代わって父とともにクリム家を支えてきたのであるから、その財政事情からこのような成り行きになりうることも重々覚悟の上だったのかも知れない。三女のエヴァンジェリンに至っては彼女が生まれた頃には一家はすでに今の小さな家屋敷に移ったあとで、それ以前の暮らし向きなど知る由もなかったから、貧乏貴族の末路としてはいかにもありそうなことだ、とばかりに涼しげな表情をまったく崩しもしなかった。そのように悠然と構えていられるのがハリエッタには不思議だったし、羨ましくもあった。

 話の経緯はこうだった。

 クリム家は由緒ある名門貴族ではあったが、そのような栄光は遠い過去の話だった。本当に深刻な貧困に直面していたわけでは無いが、一般の庶民とさして違いのないその暮らしぶりは、残念ながら貧乏貴族、没落貴族と言われても仕方のないところだった。

 次男であった父グスタフ・クリムが長兄の病没により予定外に家督を相続してまず直面したのは、まさに火の車というべき惨憺たる財政の実態であった。もはや家名の由緒正しさなどにずるずるとこだわるような状況ではない、と彼はまず大ナタを振るうべく、生まれ育った生家を手放すことにした。大きな家屋敷や広大な庭園だの、何人も使用人を雇わないと手入れしていくことすらままならない。にも拘わらず彼らに支払う給金にすら事欠くありさまだったのだ。

 古くからの使用人たちも、未払いの給金を受け取ったあとはさしたる未練も忠義も見せず、躊躇なくクリム家を去っていった。さらに残された莫大な負債を返済するために、所有する土地などの不動産もいくつも手放すこととなり、どうにか手元に残ったのは自分と妻と娘達がひととおり暮らしていけるだけの古い小さな邸宅ぐらいで、一家はそこに移り住むこととなった。

 そのほかに残ったいくつかの不動産については、土地を人に貸したり、あるいはそれらを担保に金を借りて何かしらの事業に投資してみたり、といったことで多少なりとも利益が出ればと試行錯誤してみたものの、残念ながらグスタフはそういった商才には恵まれてはいなかった。知人のつてで紹介を受けたとある事業に多数の出資人の一人として連座していたところ、逆に多額の負債を何故か一人で抱えることになってしまい、その返済のために今現在一家が住む邸宅までもを手放すことになってしまった……というのが、唐突に突き付けられた立ち退き話の成り行きであった。

 唖然とするハリエッタと、話半分に聞き流すばかりのエヴァンジェリンに代わって、長女のリリーベルが父に問うた。

「ではお父様、私たちはこれからどうすればいいのです? どこかの邸宅に、使用人として奉公にでも出ればよいのかしら?」

「いや、いくら何でもお前たちにそのようなことをさせるわけにはいかぬ」

「では、どのようになさると?」

「王都を出ようと思う。クリム家の父祖の地である、クレムルフトにわれら一家で引っ越しをするのだ」

「クレムルフト」

 リリーベルがさも困ったといった口調でおうむ返しにその名をつぶやいて、三人姉妹は思い思いにお互いの顔を見合わせた。

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