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第86話 魂恋・17(苑)~一緒に行こう~


 縁は昼間会った時と同じ、感情の映らない硝子玉のような瞳を苑に向けた。

 無表情のまま口を開く。


「何をしに来た」


 苑は胸の前で握りしめていた手を、縁に向かって差し出す。


「縁、行こう。外に」


 縁は何の関心も浮かばない眼差しで、苑が差し出した手を一瞥し、すぐに目を逸らした。


「お前は勘違いをしている」


 縁は冷ややかな声で言った。


「俺は、ここを出たいだなんて思っちゃいない。俺を……俺たちを苦しめたこの家を禍室に出来て、満足している。

 ここでお前らが築いてきたものを食い散らかして、好きに生きていくつもりだ。慰謝料代わりにな」


 縁は皮肉な笑いで、鮮やかに彩られた唇を歪めて言った。


「それくらいしてもいいだろう? 苑。俺はお前らが安穏と暮らすために、さんざん踏みつけられてきたんだ。お前らの汚れた根性を押し付けられてな」


 苑は視線を動かさず、一歩前に出た。

 縁は腰を浮かし、僅かに後退る。


「俺は」


 微かに震えを帯びた声で、縁は言った。


「お前のことなんか、何とも思っていない。むしろ憎んでいる。当たり前だろう、お前の家のせいで、俺がどれだけ……!」


 縁は人形のように美しい顔を蒼白にさせて叫んだ。声が凄まじい怒りと憎悪で歪む。


「どんな目に会わされたか! 俺の体も人生も滅茶苦茶にされた! 俺はこの先、外の世界で人として生きることは出来ない! お前らの馬鹿げた風習や、お前ら自身も信じていないクソほども役に立たない神のせいで!」


 縁の見開かれた深い闇のような瞳には、ただ怒りと絶望だけが宿っていた。その瞳から放つ視線で、苑の姿を食い入るように見つめる。


「何が神だ……。嗤わせるな。人のことを……今までの禍室を踏みにじり、その上でのうのうと生きやがって! お前はそのことをどう思っているんだ。

 お前らが俺にしたことこそ、鬼畜のすることじゃないか! 魔物は……腐った化物はお前らのほうだ!」


 禍室の姿を縁の身体から、黒い瘴気が立ち上る。縁の身体や周囲の闇を侵食する黒い靄は、すさまじい臭気を放ち、世界を腐らせていく。


(俺はお前のことが嫌いだった、苑)


 耐えがたい臭いを放つ黒々とした塊の中から、声が世界に響く。


(お前が正しいみたいな顔が出来るのは、お前が真っすぐに生きられるのは、お前がそういう人間だからじゃない。たまたまそういう風に生きられる環境に生まれたからだ。

 お前だってその場所に生まれなければ、俺みたいな人間になる。自分が不幸なのは何もかもお前のせいだ、お前の澄まし返った面が憎い、叩きつぶしてやりたい、そう思う人間にな)


 毒気が滴り落ちるような笑いが、縁の声に混じった。


(俺は頭の中でお前を、何度も何度も犯している。数え切れないくらい殺してやった。お前が俺の前に這いつくばって、惨めに哀願する様を想像すると胸がスッとした)


 縁の声に含まれる笑いが、徐々に大きくなっていく。それはやがて、獣の咆哮のような辺りに響き渡る狂ったような哄笑になった。


(お前は俺がそんな風に思っていたなんて、知らなかっただろう? 俺がお前のことを好きで好きで堪らない、だからお前のためにいつも献身的な愛情を捧げているとでも思っていただろう? とんだ自惚れだな? 苑)


 おかしくてたまらないという風に、縁は嗤い続ける。


(お前がそんなに俺のことを好きだと言うなら、ここで俺の禍室にしてやるよ。俺がやられたことを全部味合わせてやる! 俺が今まで経験してきたことを全部、お前にやってやる! お前のその汚れたことは何も自分には関係ありませんみたいな面がどこまで保つか、見ていてやるよ。

 いいだろう? 苑。お前は俺が好きなんだから。お前だって、俺がお前にそうする権利があると思うだろう?)


 げらげら笑いながら放たれる縁の言葉を、苑は黙って聞いていた。

 だがやがて意を決したように、黒々とした瘴気の渦の中に手を差し伸べる。

 その瞬間、苑は苦痛で顔を歪めた。

 瘴気の塊の中に入った腕を伝って、血が闇色の地面に滴り落ちた。自分の肉を喰らわれる激痛と耐えがたい感触が、神経を走り全身を貫く。


(痛むだろう? 苑。でも、俺が味わってきた苦痛はこんなものじゃない。こんなもので泣いたり叫んだりするなよ? この先がつまらないからな)


 腕を食われる苦痛を通して、縁が今まで経験してきたことが伝わってくる。


 母親の狂気じみた憎しみと怨嗟と悪意を一心に受けて生まれ、人の欲望に容易く組み伏されながらその支配に苦しむ気性に育てられた。

 何もわからない子供の時に歪んだ価値観を叩きこまれ、その価値観に沿った運命を生きるように強いられた。

 運命に逆らえるような武器を身に着けないように、心を鉄鎖で縛られ閉じ込められて生きてきた。

 縁を愛している里海でさえ、どこかその存在を蔑んでいた。


 自分は人に蔑まれ、いいように扱われて当然の存在だと思いこまされて生きてきた。

 身体は辱められ、心には自分を支える要素が何ひとつない。

 自分自身でさえ、自分は汚物ではないと信じることが出来ない。


「神さま」を殺したこともあった。

「神さま」に恋をしたこともあった。

「神さま」を閉じ込めたこともあった。

「神さま」と付き合ったこともあった。

「神さま」と一緒に育ったこともあった。

「神さま」を殺したいほど憎んで、渇望するほど愛した。


 でもいつも同じだ。


 生まれた時から……否、母親の腹の中にいた時から閉じ込められたこの禍室という牢獄から出ることは出来ない。

 永遠にこの腐臭に満ちた暗い牢獄から、苑の姿を見るだけの存在なのだ。


 もう来ないで欲しい。

 苑のほうから去られたら、この牢獄の中から見える唯一の光を自分は失ってしまうから。 


 そう思って、牢獄から見える遥か頭上の光が見えるだけでいいと思っていても、その光がいつか自分に降り注ぐのではないかと、いつもいつも願ってしまう。


 お前のことが嫌いだった。

 お前なんかいなくなればいいと思っていた。

 でもいなくなって欲しくなかった。


 お前は、このどこまでも続く暗い牢獄に灯った唯一の光だった。

 それを失ったら、生きていくことさえ出来なくなる。


 苑。

 何で俺はいつも、こんなにお前のことが好きなんだ。

 無理なのに。

 叶うはずがないのに。

 なぜお前とずっと一緒にいたいと願ってしまうんだ。


 教えてくれ。

 俺の「神さま」



「縁」


 苑は痛みに耐えながら、黒い塊に向かって微笑んだ。


「遅くなってごめんね、縁」


 苑は瞳から涙を溢れさせながら、黒い塊を抱きしめる。


「やっとここに来れた。あなたを迎えに来たの、ここまで」


 瘴気の先が苑の手を這い、身体のほうへ進んでいく。すさまじい腐臭が苑の身体を覆っていく。

 僅かにもがいた黒い塊に、苑は愛しそうに頬を寄せた。

 瘴気の渦が僅かに晴れ、その中から縁の黒い瞳が覗く。


「……駄目だ……苑、お前まで穢れる……」


 苑は縁の身体を抱きしめたまま、目を閉じた。


「この穢れはあなたのものじゃないわ。私自身のものなの」


 瘴気の塊を抱きしめる苑の手は黒く腐り、皮がずるりと向け、腐臭のする肉が崩れ落ちる。


 凄まじい臭いが、辺りに漂う。

 白い骨が肉の隙間から見えた。


「苑。お前が死んでしまう……!」


 いつの間にか、黒い塊の中から縁の姿が表れた。

 苑の同い年の姿をした縁は、瘴気が立ち上る自分の身体を抱きしめる苑の身体を押しのけようとする。


 苑は瞳を閉じたまま、縁の身体を固く抱きしめた。


「私はあなたをずっと愛していた。無限に広がる空間の、どの地点でもあなたのことだけを愛していた。今も愛している。

 ずっと一緒にいたい。この先も、ここではないどこに行くとしても」


 苑は涙に濡れた瞳で、縁の顔を真っすぐに見つめた。


「行こう、縁。一緒に」


 外の世界で二人で生きよう。


 苑の言葉を聞いた瞬間。

 縁の黒い瞳からも涙がこぼれた。

 こぼれた涙が苑の顔を濡らした瞬間、そこに黒く穴が開く。

 縁はハッとして、身体を引く。


「苑……、駄目だ。俺は……俺と一緒にいると……お前の人生が滅茶苦茶になる……! 俺はお前の人生の汚れにしかならない……!」


 焼け焦げたような黒い跡は、苑の顔を侵食するように広がり、その形を溶かしていく。

 苑は微笑んだまま首を振った。


「あなたがいない人生は、私の人生じゃない。あなたがいるから、私がいるの」

「苑……」


 苑は縁の手を取り、渾身の力を込めて瘴気の中から引き出そうとする。

 手は腐り、崩れ落ちそうになっている。顔の半面が崩れ落ち、眼窩から眼球がこぼれそうになっているのが自分で分かる。


(もう少し)

 あと少しで、ここから縁を救い出せる。


 ずっとずっと、それだけを願ってきたのだ。

 縁と何度も出会い、出会った全ての世界でそれだけを願ってきた。


(私は縁と一緒にいたい)


 苑が腕に力をこめ強く体を引いた瞬間。

 腐った腕が根元から崩れ落ちた。


「苑!」


 苑の体は反動で後ろに倒れこみ、その下には巨大な穴が空いていた。

 縁は苑の残っている腕を掴む。

 その腐りかけた体を引き寄せ、守るように固く抱き締めた。


 二人はひとつの塊のようになり、深い穴の底に落ちて行った。


★次回

あなたを迎えに行くルート

「第87話 魂恋・18(苑)~連れて行って~」

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