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第84話 魂恋・15(苑)~いなくならないで~

 1.


 部屋に戻ったあとは人と会う気にはなれず、夕飯も部屋に運んでもらった。


 苑は月明かりが射し込む部屋の中で灯りもつけずに、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 心の中には、先ほど会った縁の姿だけが存った。

 感情も関心も浮かばない、ガラス玉のように冷たく深い闇のような瞳が、苑の上をただ通り過ぎて行く。


 何もかも遅すぎたのだ、きっと。

 自分のほうを見ようとしない、縁の冷たい横顔を思い出しながら苑は唇を噛んだ。

 当然だ、あれから八年も経っているのだから。

 縁は生まれてから二十年近い歳月を、閉じ込められ虐げられて生きてきたのだ。人生を歩むための土台を作る大事な時期に、心身を滅茶苦茶にされている。

 九伊の当主の座を奪い、その最後の一人だった苑を冷たくあしらうのが当たり前ではないか。


 何度自分にそう言い聞かせても、胸の中から自分のことをジッと見つめる十代のころの縁の姿が消えてなくならない。


(約束する)

(お前が……いなくならないで欲しい、って言ったらいる。ずっと側に)


「……いなくならないで」


 苑は月明かりの中で呟く。

 瞳から涙が溢れ出す。


「お願い……いなくならないで、縁」


 祈るように胸の前で両手を握りしめた瞬間、微かなノックの音が静かな空間の中に響いた。

 苑は顔を上げる。

 枕元の時計を見ると、時刻は十二時を過ぎていた。


「……誰?」


 苑は呟いたが、その瞬間何かに思い当たったかのように、ハッとしてドアに駆け寄る。


「縁!」


 叫んでドアを開けた。

 部屋の外に立っている人物を見て、苑は驚愕で大きく目を見開いた。


「……十谷?」


 微笑みを浮かべている十谷の中性的な美貌を、苑は幽霊でも見るような眼差しで眺めた。


「何で……? 何で、十谷がここに……?」


 十谷は、苑の身体を優しく押すようにして部屋の中に入る。

 静かに扉を閉めると言った。


「お前が呼んだから」


 余りに強い驚愕と衝撃のために言葉すら出せない苑の頬に、十谷は手を当てて囁いた。


「俺だよ、苑。やっと会えたな」


 十谷は苑の頬を優しく撫でた。


「この身体ならお前の側にいて、お前に触れられる」

「十谷……」

「十谷じゃない」


 十谷は軽く首を振り、苑の顔に顔を近づけた。


「これからは、ずっと側にいられる。苑……俺の苑……」


 苑は、乱暴に十谷の手を振り払った。


「やめて、十谷」


 十谷は優しい口調で言った。


「だから、十谷じゃないって」

「十谷だわ」


 苑は確信に満ちた口調で言った。


「縁は……縁はそんな風じゃないもの」

「それは、あの忌々しい身体のせいだ」


 十谷は言った。


「あの禍室にいると、頭がおかしくなってくるんだ。お前のことが好きなのに憎くなったり、お前があんなに一生懸命信じてくれって言っているのに、離れた途端信じられなくなる。こんなにお前のことを求めているのに、他の奴と寝たくなる。

 お前のことが凄く好きで、お前だけがいれば良くて、いつも側にいて、優しくしてやりたい、何でもしてやりたいってそう思っているのにそれが出来ない。お前のことを苦しめたり傷つけたり遠ざけたり、そんなことばかりする。

 全部、あの身体のせいだ。あの身体にいると俺はおかしくなる。あの身体は俺の心とつながっていない、牢獄なんだ」


 十谷は優しく笑いながら、苑に向かって一歩踏み出す。


「この身体なら、こんなに素直になれる。お前に優しくして、好きだ、愛している、一緒にいて欲しいって言える。この身体は、お前に助け出してもらわきゃいけない、すがりつくだけのお荷物の穢れた禍室とは違う。お前と一緒に外の世界に行って、お前を守って生きられる」


 苑は十谷の手を拒絶するように、激しく首を振った。


「縁はお荷物なんかじゃないわ」

「別にいいよ、そんな綺麗ごとは」

「綺麗ごとじゃない」


 言い募る苑に、十谷は僅かに皮肉な眼差しを向けた。


「綺麗ごとじゃなければ何なんだ? 子供のころから閉じ込められて、ろくすっぽ外に出たこともない。男と寝ること以外何も知らなくて、それに関してだけはありとあらゆることを経験している。そのことに対するコンプレックスまみれで、その反動で誰に対しても傲慢な態度を取って、君に甘えて当たり散らす。

 君は、そんな男がいいってこと? 随分、変わった趣味だね?」


 苑はジッと十谷の顔を見つめてから、静かな表情で口を開いた。そこからは今まであった必死さが消えていた。


「十谷から見ると、縁はそういう人なのね」


 十谷は肩をすくめて、皮肉な顔つきで答えた。


「僕から見て、というより、彼は『実際に』そういう人間なんだよ。君が認められないのは分かるけれど」


 苑は言った。


「私にとっては違うわ」

「君だけだよ。そんな風に思っているのは」


 十谷は言った。


「君の父親も里海とかいう奴も、九伊の人間もみんなそう思っている。何より縁自身が、自分がそういう人間だって分かっている。彼の母親が、彼をそういう風に『作った』んだから」


 苑は十谷の言葉を黙って聞いていた。

 少し沈黙が流れたあと、先ほどとまったく変わらない調子で苑は繰り返した。


「私にとっては違うわ」


 十谷は苑の顔を見つめて、おもむろに口を開く。


「君にとって、彼はどういう人間なんだ?」


 苑は少し考えてから首を振った。


「そんなことは説明できない。したくない」


 苑は、ひと言ひと言言葉を区切るようにして言う。


「十谷、あなたことは説明出来るわ。あなたのことは愛していないから」


 苑は十谷に瞳を向けた。


「説明して欲しい?」


 十谷は、強い苦痛に耐えるように顔を歪めた。そういう顔をすると、透明感のある雰囲気が消え、別人のように見えた。


「ひどいことを……言う」


 苦痛に耐えかねたように言葉を絞り出した十谷から身体を離すように、苑は身を引いた。

 そうして視界が広がると、十谷が閉めたはずのドアが、わずかに開いていることに気付いた。


 誰かが……ドアの隙間からジッと自分のことを見ている。

 ひどく寂しそうな光が揺れる青みがかった黒の瞳は、苑のことだけを真っすぐに見ていた。

 自分のことだけを求めるこの瞳に、永い間ずっと見守られてきた。


「縁……?」


 苑は十谷の身体の陰から顔を覗かすようにして、ドアのほうへ目をやった。

 呼んだ瞬間に、フッとドアの外の気配が消えた。


「縁!」


 叫んでドアのほうに駆け寄ろうとした苑の腕を、十谷が掴んだ。

 苑の鋭い眼差しで射抜かれて、十谷は苦痛で顔を歪める。


「ノイ、行っては駄目だ。君は外の世界で生きるんだ。そこで幸せになるんだ」


 十谷は真剣な表情で続けた。


「彼だってそう思っている」


 苑は十谷の顔をジッと見つめた。

 その眼差しからは、最初に浮かんでいた怒りが消えていき、とても静かなものになった。


「私はここから出て外の世界に行くわ。縁と一緒に」


 苑は自分に切実な光が宿った瞳を向ける十谷の顔を、真っすぐに見つめ返した。


「十谷、離して。行かないと。縁が待っているの」


 苑の視線を受けて、十谷は不意に力を失ったかのように苑の手を離した。その手が力なく身体の脇に垂れる。


 自分を戒めるものがなくなると、苑は前を向き、ドアの外へ飛び出した。


★次回

あなたを迎えに行くルート

「第85話 魂恋・16(苑)~あなたを見つけた~」

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