第83話 魂恋・14(苑)~せっかく会えたのに~
1.
応接室に入ると、広いテーブルの奥に三人の男が座っていた。
一人は苑には見覚えのない男で、恐らく里海が雇った顧問弁護士だろう。
もう一人は六星里海だ。
苑よりも五歳年上なので今は三十歳近いはずだが、出会った頃とほとんど印象が変わらない。不自然なほど親しげな微笑で、苑に座るように促す。
苑は里海に言われるがままに、機械的な仕草で勧められた椅子に腰を下ろした。
その瞳は部屋に入ってからずっと、ただ目の前にいる人間の姿だけを捉えていた。
苑の目の前に、苑と同い年……二十三歳の縁が座っていた。
相変わらず線の細い、女性と見まがうような美貌だ。落ち着いた物腰と翳りがある雰囲気のせいで色香が増したように見える。
人を寄せ付けない冷たい空気を纏っており、顔にほとんど表情らしきものが浮かんでいない。
まるで精巧に出来た美しい人形のようだ。
苑のほうに向けられた瞳は何も映しておらず、動きもなく、生命のないガラス玉のように何ひとつ読み取ることが出来ない。
里海の形式的な明るさを装った挨拶も、続く弁護士からの事務的な説明も、苑はほとんど上の空で聞いていた。
苑の瞳はただ、縁のことだけを捉えていた。
縁も視線は苑のほうに向けることがあった。見ることを避けているわけではない。
ただ縁にとって、苑の姿は周りの風景と何ら変わりがないようだった。
(縁さまって、ずっと苑さんのことを見ているんですよね)
(私、苑さんのことを見ている縁さまを見ているのが、好きだったんです)
(すごく好きなんだなあって、伝わってくるから……)
(苑さんが羨ましかったです)
つい二、三時間前に車の中で聞いた紅葉の言葉が、耳の中に響いて幻のように消えて行く。
今、目の前にいる縁は、苑のことを「見ていない」。
縁の瞳には好意や懐かしさどころか、怒りや恨みや憎しみや嫌悪も浮かんでいない。僅かな興味の色すらなかった。
何も浮かばない、ガラス玉のような瞳。
全身から血の気が引いたかのように、苑は寒さを感じ微かに震える。
縁は「ここにいない」
いなくなってしまった。
苑が迎えに来ることを待つことなく、どこかに消えてしまった。
2.
いくつかの事務手続きの話が済んだ後、広げた書類をしまい、弁護士が立ち上がった。
続いて無言で立ち上がろうとした縁に、里海が声をかける。
「縁、久しぶりなんだから、苑さんと話して行ったら? 色々積もる話もあるだろうし」
わざとらしいまでに決まりきった言葉を紡ぐ里海を、縁は感情のこもらない眼差しで一瞥する。
「いや、いい」
ひと言だけ呟くと苑のほうには視線を向けず、部屋から出て行った。
里海は仕方がない、と言いたげに少し笑い、凍りついたように動かない苑に視線を向ける。
「ごめんね、苑さん。愛想の無い奴でさ」
隠しきれない優越感を瞳に浮かべながら、里海は言った。
「でもまあ、無理もないかもね。八年も会っていなかったんだし。よく考えたら、苑さんと縁ってそんなに親しいわけじゃないよね。一か月? 二か月? 一緒に過ごしたのってそんなものか。
この年になると、中高生のときの恋愛なんておままごとみたいに感じるよね。懐かしいけれど気恥ずかしいっていうか、ある意味、黒歴史? っていうかさ。特に男は、未熟だったころの自分を知っている人間に会うのは抵抗があるからね、許してやってよ」
震えながら俯く苑のことを、里海は満足そうに眺めた。
絞り出すような掠れた声が、苑の唇から洩れた。
「里海さんは……ずっと、縁の側にいたの……?」
「うん。苑さんが東京で楽しく大学生活を送っている間、ずっとね」
里海は皮肉がこもった眼差しで、項垂れている苑の姿を眺めた。
「色々と大変だったよ、縁を本家に引き取ったあと、先代の当主……君のお父さんと話し合って、縁を養子にする件を勧めたりね。分家の人たちがあっさり納得してくれたのは意外だったけれど。まあ本家は神さま、血筋が一番、っていう価値観の人たちだから。
苑さんはそういうの、全部放ったらかして、自分一人でさっさと出て行ったわけだけだから、縁が多少冷たいのも大目に見てくれるよね?」
放ったらかしたわけじゃない。
縁のことを忘れたことは、一時もなかった。
そう言いたかったが、声が出なかった。
それを伝えたい……わかって欲しい相手は、目の前の人間ではない。
「縁と僕は、まあ事実上の夫婦みたいなものとしてずっと一緒にやって来た。僕はずっと縁を愛して大切にしてきたし、縁も僕を受け入れてくれた。今日、苑さんが来ることだって、縁は何の興味も示していなかったよ。この八年間、苑さんのことなんてひと言だって、僕に話さなかったしね」
里海は笑いながら言った。
「ごめんごめん、言い方がキツくて。苑さんを責めるつもりはないんだ。それが普通だと思う。君は九伊家から出たかったわけだしね」
「だからね」と、里海は続けた。
「これで縁切り、っていうことでいいかな? 九伊家とも縁とも、明日から君は関係なしって言うことで。苑さん自身がそう望んだんだよね?」
苑は微かに首を振った。
だがそれはひどく弱々しい仕草で、端から見ると髪の毛が僅かに揺れたようにしか見えなかった。
里海は鷹揚な労りの表情を作り、苑に微笑みかけた。
「まあゆっくりしていってよ。元々は君の家なんだから、遠慮しないでさ」
そう言うと里海は動かない苑を残して、部屋から出て行った。
★次回
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