第82話 魂恋・13(苑)~迎えに来れた~
1.
二十四歳、大学卒業を来春に控えた夏、苑は六年ぶりに故郷に戻った。
生まれ育った屋敷の最寄りのターミナル駅の外に出ると、辺りを見回した。
苑が頭を動かすたびに、髪を束ねている金色の鎖で繊細に編まれた花形の髪飾りが微かに揺れる。
「苑さん!」
待ち合わせの相手は、すぐに見つかった。
苑の名前を呼ぶと、頭上で大きく両手を振り駆け寄ってくる。
「紅葉!」
苑が荷物を持って走り寄るより先に、紅葉が苑の手を取った。
「苑さん、会いたかったあ!」
「久し振り」
二人は両掌を合わせ、喜びの笑顔をかわす。
会うのは、昨年の夏以来だ。
2.
紅葉が乗ってきた車の助手席に、苑は乗り込む。
車が走り出すと、懐かしそうに窓の外の風景に視線を向ける苑に、紅葉は声をかけた。
「苑さん、緊張しています?」
紅葉の言葉に、苑は窓から目を離して微笑んだ。
「……少しね。縁に会うのは、凄く久しぶりだから」
車内に沈黙が流れた後、紅葉が口を開いた。
「今だから言いますけれど、最初に苑さんに縁さまを紹介された時、羨ましかったです」
紅葉は、遠い昔のことを話すかのような、ひどく懐かしげな声で打ち明けた。
「あの夏休みに苑さんのところに毎日、行っていたのも、半分は縁さまに会いたいっていう気持ちがあったからなんです」
微笑みながら聞いている苑に、紅葉は照れたように笑いかけた。
「縁さまって、ずっと苑さんのことを見ているんですよね。そのくせ、苑さんが近くにいるときは、大して興味ない、見ていないっていう振りをして。苑さんがいない時、私にいっつも『苑は学校でどうなんだ』『ちょっかいかけている男とかいるんじゃないか』とか『お前、ちゃんと見ているのか』とか言うんですよ。私のことは苑さんが持っているカボチャくらいにしか思っていないんですよ、ほんと失礼しちゃう」
「そんなことを言っていたの?」
紅葉の思い出を見守るように、苑は優しく目を細めた。
紅葉は窓の外を真っ直ぐに見つめながら、頷く。
苑がいない時、縁は紅葉と額を突き合わせて内緒話でもするかのように囁いた。
不本意だが、お前しかいないから仕方ない。
俺のぶんまで、苑のことをちゃんと見ていろよ。
息がかかるほど近くにいたのに、縁は紅葉の伏せられた顔が赤くなっていたことにまったく気が付いていなかった。
苑のことで頭がいっぱいで、目の前のことすらろくに見ていないのだ。
側にいる時もいない時も、縁はただ苑のことだけを見ていた。
縁のことをいつも見ていたから分かる。
「私、苑さんのことを見ている縁さまを見ているのが、好きだったんです。すごく好きなんだなあって、伝わってくるから……苑さんが羨ましかったです」
苑は目の前の風景を見つめて、懐かしそうに目元を緩ませた。
「縁にとって、紅葉は生まれて初めて出来た一番の友達だと思うわ。紅葉と話しているとき、本当に楽しそうだったもの」
紅葉はハンドルを持つ手に力を込めて笑った。
「やだなあ、苑さん。そういうの、牽制って言うんですよ」
「そうなの?」
苑は軽く目を見開いて笑った。
釣られて笑う紅葉の心の中に、思い詰めた顔をした十五歳の縁の顔が浮かぶ。
苑のこと、任せたぞ、紅葉。
縁が自分のことを真っ直ぐに見つめて言った言葉は、あれから八年経った今も、心の一番奥にある宝箱に大切に仕舞われている。
この思い出は、たぶん一生色褪せず、箱を開くたびに輝きを放ち続けるだろう。
(それくらい持っていてもいいよね、初恋の思い出として)
紅葉は胸の前で僅かに掌を握りしめてから、顔を上げた。
3.
屋敷の門扉から中に入り、整然と整えられた前庭を徐行でしばらく走り、車は表玄関の前に横づけされた。
玄関の前には、苑にとって懐かしい顔がいくつも並んでいた。
車から荷物を降ろした苑の側へ、背の高い初老の女性が歩み寄ってきた。
まるで影が近づいてきたかのように音も気配もしないのに、その場に静止すると不思議と存在感と威厳がにじみ出る。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
「玖住」
母親代わりを務めた使用人頭の玖住を見て、苑は嬉しそうに声を上げる。
玖住の顔には表情は浮かばないものの、声は抑えきれない感情で僅かに震えていた。「玖住の声が震える」などということは、苑にとっては信じ難いことだった。
自分を長年厳しく育ててくれた女性に、苑は労わるような微笑みを向けた。
「もう『お嬢さま』じゃないわ」
玖住は「そのことについて特に自分が言うべきことはない」というように、顔の筋を一本たりとも動かさなかった。
「お嬢さま、まずはお部屋にご案内します」
玖住は無駄のないてきぱきとした様子で、苑には見覚えのない若い女性に声をかける。
女性は緊張で上ずった声で返事をし、ぎこちない動きで苑の荷物に駆け寄った。
苑はクスリと笑いを漏らす。
玖住は新しく入って来る雇用人を厳しく躾ける。
苑に対してでさえ、躾は厳しかった。
幼いころから自分に向けられていた、玖住の厳しく強い愛情を思い出して苑は微笑んだ。
「お嬢さま、ご無沙汰しております」
「家森」
四十前後くらいに見える実直そうな背の高い男に、苑は笑顔を向ける。
「元気だった?」
「おかげさまを持ちまして」
家森は九伊家の遠い親戚だが、幼いころに両親を亡くしている。九伊の援助で苑と同じ学園で大学まで学んだあと、苑の父親……仄の個人秘書になった。
実務的な物事に興味がなかった仄に代わって、九伊家の実質的な管理は全て請け負っていたが、その立場を利用することが一切ない誠実さを、仄も苑も信頼していた。
仄が死んだ後も九伊家に残り、今も当主の秘書を勤めている。
「よろしければ、二、三時間くつろがれた後、夕方にはお会いしたいと旦那さまと六星さまから言付かっております」
「旦那さま」という呼称を聞いて、苑は僅かに目を伏せた。苑を見る家森の眼差しに、心配そうな光が宿る。
「お嬢さま、今日は一晩休まれて、明日になさいますか? そうであれば旦那さまにそのようにお伝えしますが」
家森の言葉に、苑は首を振った。
「ううん、今日で大丈夫よ、家森。ごめんなさい、気を遣わせて」
苑は家森の顔を見上げた。
「家森、今の当主はどんな様子なの?」
苑の言葉に家森は答えた。
「実は……私も余りお会いする機会がないのです。お話は全て、六星さまのほうからあるものですから」
「そう……」
縁と最後に会ったのは、高校一年生十六歳の冬休みだ。
それから八年近く会っていない。
十六歳だった自分は二十四歳になった。
来春には大学を卒業し、試験に受かれば薬剤師の免許が取れる。就職先も既に決まっている。
(私、縁と外の世界で一緒に暮らせるように頑張る)
(私はまだ子供で、縁をここから連れ出すには力が足りないから)
(その力を身に着けて迎えに来るから)
十六歳の夏に別れたときにした約束を、ようやく果たせるようになったのだ。
縁は、あの時の約束を信じて待っていてくれているだろうか?
(私のことが嫌になって、いなくなったりしない?)
(辛くなったら私のことを憎んで)
(でも……いなくならないで)
自分のことを嫌いになっていてもいい。
恨んでも憎んでいてもいい。
「いなくならないで」そこにいてくれれれば、縁を連れ出すことが出来る。
夕方、苑は祈るような思いで家森の案内に従い、応接室の中に入った。
★次回
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「第83話 魂恋・14(苑)~せっかく会えたのに~」




