第80話 魂恋・11(縁)~贖罪~
1.
その日の放課後、十谷は畑がある裏庭にやって来て、苑に話しかけた。
「僕は、縁と連絡を取ることが出来るんだ」
苑は最初、何を言われたのか分からず、十谷の顔を見返した。
十谷は、うっすらと微笑んで言った。
「縁だよ。禍室の縁。『神さま』である君の片割れ。そうして君の恋人……でいいのかな?」
「……何で?」
苑は呆然として、十谷の顔を凝視する。
「何で、縁のことを知っているの?」
苑の唇から洩れた問いに、十谷は笑った。
「彼のことはよくわかる。自分のことみたいに。たぶん、苑よりもよく知っていると思うよ」
十谷は、少し首を傾げてから付け加えた。
「と言うより、苑は彼のことをほとんど何も知らないよね?」
「そんなことない、と思うけれど……」
抗議するように小さな呟きを漏らした苑に、十谷はなだめるように微笑みかけた。
「それはともかくさ、僕が彼だと思って過ごしてよ。禍室には行かずに、ここで」
十谷は何でもないことのように付け加えた。
「君が、縁を外の世界に連れ出す力を身に着けて、迎えに行けるようになるまでは、彼に会わないで欲しいんだ」
苑は大きく瞳を見開いた。
(私、縁と外の世界で一緒に暮らせるように頑張るわ)
(私はまだ子供で、縁をここから連れ出すには力が足りないから)
(その力を身に着けて迎えに来るから)
何故、自分が縁に言った言葉まで知っているのか。
余りに強い驚愕と衝撃のために言葉すら出せない苑の心中を読み取ったように、十谷は言った。
「わかるだろう? 僕と縁は別人だけれど、ある部分は共有しているんだ、同一人物みたいにね」
「縁が十谷に……私が言ったことを話したの?」
「話したんじゃない。共有しているんだ」
苑の問いに、十谷は繰り返した。
不安そうな眼差しで自分を見る苑に、十谷は安心させるように微笑みかけた。
「君を僕に任せるくらい縁と僕は近い存在だ、ってことさ。縁は君の側にはいられないから、代わりを僕に託したんだ」
「どういう……意味?」
十谷は、苑を真っ直ぐに見つめて言った。
「縁は禍室で、君に会いたくないんだ。お互いのために良くないって考えている」
「縁が……そう言ったの?」
戸惑ったように苑が尋ねると、十谷は頷く。
「言っただろう? 僕と縁は、ある種の考えを共有している」
苑は黙って、しばらく考え込んだ。
十谷は薄く笑いながら、その姿を見つめている。
やがて、苑は俯いたまま微かな声で囁いた。
「縁は……私のことを、まだ待っていてくれている?」
「それは分からない。でもまあ、僕に君のことを頼んだ、というところに、彼の気持ちが表れていると考えていいんじゃないの?」
十谷は手を伸ばし、苑の頬に手を当てた。
「僕だったら、君の側にいつもいられる」
苑は驚いたように十谷の顔を見た。
自分にとっては見慣れているが、そこにあるはずがない者を見たかのように瞳をしばたかせた。
「私は……縁と外に出るために頑張っている」
苑は目の前の十谷のもっと先に、声を届かせるように言った。
「縁のことを忘れない、……そう伝えて」
十谷は苑の顔を眩しそうに見つめ、やがてひどく優しい微笑みを浮かべた。
「もちろん」
十谷は頷いた。
「もちろん、伝えるよ。苑」
2.
その後、苑は長期休みになっても家に戻らなくなった。
苑から「事情があって、縁とは会わないことにした」と口数少なく説明されたあと、紅葉は一度だけ苑に、「縁さまもそれでいいんでしょうか」と聞いたことがある。
苑は少し考えた後、「それが縁にとって一番いいと思う」と答えた。
3.
高校三年生になってからしばらくして、苑は病床にある父親……仄から、将来のことについて切り出された。
「お前が本当にここを出たいなら、結婚せずともそう出来るように手を尽くそう。どうだ? 苑。九伊から……この屋敷から出たいのか?」
「お父さん」
しばらく考えたあと、苑は口を開いた。
「私はこの家から出たいわ」
苑は静かな声で続けた。
「というより、必ず出ていくつもり」
娘の気性を誰よりも熟知している仄は、黙認の印に僅かに瞳を細めた。
それから話題を変えた。
「勉強を頑張っているようだな」
「薬剤師になって、漢方薬とか薬膳の勉強をしたいの」
「お前は昔から草木が好きだったからな」
父親は愛情に満ちた眼差しで、苑に向けた。
「大学までは学費と生活費は出そう。大学を出たら、後は自分の力でやってみなさい。この家のことは気にせずに」
「お父さん」
話を終えようとした仄に向かって、苑は声をかけた。
「私がこの家を出て行ったあと、本家は誰が継ぐの? 萌伯母様のところの誰か?」
部屋の中にしばらく沈黙が流れた。
仄は少し考えたあと、かすれた声で言った。
「それについては少し聞き苦しい話がある。九伊を出て行くと決めているのならば、お前が聞いても仕方がない話だ。聞けば、ますます一族のことに囚われる」
父親の言葉が終わるとすぐに、苑は尋ねた。
「縁には、お父さんから話を持っていったの?」
仄はハッとしたように瞳を見開き、苑のことをまじまじと見つめた。
「お前……知って……」
「知っているわ」
苑ははっきりとした声で言った。
「私が里海さんとの婚約を破棄して九伊の家を出たら、お父さんは縁にこの家を継がせるつもりなのよね?」
苑は鋭い眼差しで、病でやつれた仄の顔を見つめた。
「縁にそうしろ、って言ったの? それともそうしないと禍室に戻すって脅したの?」
仄は目を閉じ、力なくため息をついた。
「……そんなことはしていない」
黙って続きを待つと、仄はひどく骨が折れる様子で話を続けた。
「向こうから言ってきたんだ。里海くんを通して。養子になって、九伊家を継いでもいいと」
「……どうして?」
縁が九伊家を継ぎたがるとは思えない。
禍室の務めを果たさなくていい。
裕福な生活と社会的な立場が得られる。
そんな皮相的なこととは関係なく、この家は縁にとって自分を喰らう魔物が閉じ込められている暗い牢獄でしかない。
九伊本家という牢獄は、一見豪奢に見えて禍室よりも暗く深い。苑と同じように、縁にもそれが分かっているはずだ。
「分からない。本人の意思とは関係なく、『神』と『禍室』はひとつに戻るという本能が働くのかもしれない」
「……本能」
苑が口の中に苦いものでも含んだかのように呟くと、仄はさらに言葉を続けた。
「……復讐、なのかもしれない」
「復讐……?」
「自分が継ぐことで、九伊の本家を禍室にすることが、あの子の母親が望んだ復讐で、それを叶えるつもりなのかもしれない」
仄は、独り言のように話を続けた。
「ここに禍室がやって来たことで、この屋敷が禍室になった。私は禍室の穢れには耐えられない。近いうちに死ぬだろう。お前はこの家から出て行く。私たちには、関係のない話だ」
苑は唇を噛み締めて、父親に強い眼差しを向けた。
「縁をここに残して? また彼を禍室に置き去りにして、私たちの穢れを押し付けるの?」
仄は薄く瞳を開き、娘の顔を見つめた。
「苑……禍室に置き去りにするのではない。禍室がいる場所が、禍室になるのだ。あの子がどこに行こうと、その場所が禍室になる」
「違うわ」
苑は激しく首を振って、父親の言葉を否定した。
憐憫が揺れる眼差しで、仄は苑を見つめた。
「苑、お前があの子を憐れんでいるのは分かる。私もあの子には申し訳ないことをしたと思っている、可哀相だとも思っている。だからこそ、あの子がもしここを禍室にしたい、というなら、それもいいと思った。あの子と……あの子の母親の恨みと憎しみは……穢れは私が受ける。それで結もあの子も満足するだろう。お前は、ここから出なさい。私もあの子の母親も、あの子もここから出られなかった、その代わりに」
仄は今までとはまったく違う、病身とは思えないはっきりとした声で言った。
「お前は生きなさい、外の世界で」
苑は瞳を伏せて、膝の上にのった自分の手を見つめる。
「私は……自分の穢れは、自分で引き受けたい」
小さな声で、何かに祈るように囁く。
「人に戻りたいの……」
仄は頷いた。
「ここから出れば、お前は自分の穢れを自分で背負うことになる。だから行きなさい。人として生きなさい。外の世界で」
仄は苑ではない、別の誰かに向けるような虚ろな眼差しで言った。
「それで……赦してくれるか、結……」
3.
十八歳の春、苑が高校を卒業し、東京の大学へ進学すると同時に仄は死んだ。
結局最後まで病名は分からず、本人も病院へ行くことを拒み、九伊の屋敷で息を引き取った。
縁は十八歳で、九伊家の本家の当主の座についた。
★次回
神さまを信じるルート
「第81話 魂恋・12(縁)~幸せを願う~」




