第73話 魂恋・4(縁)~また、会いに来る~
1.
「禍室」の務めが始まると、徐々に苑の姿が見えなくなることが多くなった。
苑は懸命に縁の気を引き立て、側にいてくれようとするのは伝わってくる。
しかしそんな苑の労りや気遣いでさえ、惨めに感じられた。
苑は、自分が「禍室の務め」を果たしていることをどう思っているのか。
その答えを言葉として聞くことはおろか、苑の表情の中に見出だしてしまうことさえ怖かった。
その癖、そのことに一切触れない不自然さに耐えることも出来なかった。
2.
最初は、苑にだけは知られたくないと思っていた。
だが一度、耐えきれず感情を爆発させた後は、むしろ自分が何をされたか何をしたか、事細かに苑に話すようになった。
自分の中に詰め込まれた汚物を苑にそっくりぶちまけ、苑が内心ではそんなことを聞きたくないと思いながら耐えている様子を見たり、そのことを執拗に指摘することに暗い喜びを見出だすようなった。
「昨日は泊まりだったから、長かったな。あいつ、しつこいんだ、いつも。おかしなことを、いっぱいされるし……」
苑は縁が「客」のことを話し出すと、黙って耳を傾ける。
話が進むとその表情がひどく辛そうな、まるで肉体の苦痛に耐えているようなものになっていく様子を、縁は意地の悪い気持ちで見守る。
「客」に味合わされる屈辱や恐怖、怒りを苑にぶつけると少しだけ心が晴れる気がした。
「聞いているか? 苑」
「聞いているわ、縁」
苑が内心で感じているだろうおぞましさに耐えて穏やかに答えるたびに、どこまで耐えられるのか見てみたい、という残酷な気持ちがわく。
その心境が、苦しみに耐えかねて同じ苦しみを自分に背負わせた母親と同じことに、縁は気付いていた。
体が穢れていくと、心まで腐っていくのだろうか?
「苑、お前も俺の体が汚いと思うだろう? 色々な奴らに好き放題されているんだからな」
縁がそう言って笑うと、苑は無言で俯く。
苑が答えられないことは、縁の心を残酷な喜びで満たした。
いくら綺麗事を言っても、そのことは否定できないのだと思うと笑い出したい気持ちになった。
心の奥底に閉じ込められていた暗い衝動が一度解き放たれると、止められなくなるのを感じる。
「お前、俺がこんなに色々なことを経験していた、って知らなかったんだろう? 俺と付き合ったことを後悔しているんじゃないか? 気持ち悪い、とんでもないことをしてしまった、ってそう思っているだろう?」
苑は顔を上げた。必死になって首を振る。
「思っていないわ」
縁は笑った。
今はしていなくても、この先、するようになる。
自分は、これからもずっと禍室なのだから。
この穢れた「室」から出ることは出来ず、こうやってずっと苑を苦しめ続けるのだから。
母親が自分を苦しめたように。
「本当はもう、俺から逃げ出したいんだろう? 外には、もっとまともな人間がいくらでもいるもんな? 俺みたいな、男と寝る以外に能がない奴を選ぶ必要はないよな?」
「縁、もうやめて」
苑は弱々しく呟き、縁の手を取った。
縁はビクリと震える。
「お願い」
(やっぱりお前は、俺の穢れに耐えられない……)
そんな縁の思いを見透かしたように、苑は言った。
「私は縁が話したいことなら、どんな話でも聞きたいわ。でも……縁の悪口だけは聞きたくない。私はあなたのどんな部分も好き。全部好きなの。付き合って後悔したことなんか一度もないわ」
苑は縁の細く白い手を握り締め、何か遠くにあるものに祈りを捧げるように、額に当てる。
「これからもずっと一緒にいたい」
「俺は」
縁は呟くように言った。
「……お前とは一緒にいたくない」
暗く腐った禍室で苑を虐げる喜びに浸っている自分よりももっと奥に、怯えている自分がいる。
このままでは自分の中の穢れで、苑を窒息させてしまう。
身体の中に澱むこの憎悪から生まれた魔物が、苑のことを喰い殺してしまう。
早く早く。
苑をどこかに逃さないと。
この禍室の外の世界に。
苑は顔を上げようとしない縁のことを、長い間見つめていたが、やがて縁の長い黒髪に手を伸ばした。
僅かに体を震わせた縁を労るように優しく髪を撫でて、囁きかける。
「縁、少しだけ離れるけれど……また戻ってくるわ」
「もう来なくていい、元の世界へ戻ってくれ」そう言いたいのに、喉に何かが詰まっているかのように、声を出すことが出来ない。
無理に声を出すと、目から涙が溢れそうだった。
拳を握り締めたまま俯いている縁を、苑は優しく抱きしめる。
「十五歳の夏、また会いに来るわ。縁。あなたを迎えに来るから」
苑は、その形を記憶に刻み込むように縁の全身を撫でる。
「待っていてね」
(来なくていい……)
そう言わなければ。
そう思ったが、どうしても言うことが出来なかった。
やがて優しい温もりを残して、苑の気配が消えた。
★次回
神さまを信じるルート
「第73話 魂恋・5(縁)~また会えた~」




