第72話 魂恋・3(縁)~約束~
1.
苑はそれからも縁の側にずっといた。
年齢が上がるにつれて、縁も苑が何者なのか、一体なぜこんな風に自分の側にいるのか疑問に思うようになった。
苑は縁にとっては実体のある人間と変わらない存在だが、他の人間には見えない。
最初は母親は正気を失っているから見えないのかと思ったが、母親以外の人間……「禍室」の世話係にも苑は見えていないようだった。
苑の姿は、何年経っても変わらなかった。縁が成長しても、苑が歳を重ねている様子はない。
また縁が側にいて欲しくないとき……例えば「稽古」のときなどは側から消えるし、縁が側にいて欲しいと思うときはいつの間にか側にいた。
この辺りにとり憑いている幽霊なのか、と冗談めかして聞いたことがある。
そうすると苑は不思議なことを言った。
「縁もよくこうやって、私の側に来て見守ってくれていたのよ」
「俺が? お前の側に?」
怪訝そうな縁の言葉に、苑は微笑んで頷いた。
「肉体から脱け出して。だから今度は、私が縁の側にいようと思ったの」
「肉体から脱け出す?」
縁は、苑の姿をジロジロと眺めた。
「そんなことが出来るのか?」
縁は少し黙ってから、なるべくさりげない動きで苑の手を取る。
「こ、こうやって触れられるじゃないか」
言葉を噛んでしまい、縁は顔を赤らめ、慌てて顔を背けた。
歳を取るにつれて、幼いころのように気軽に苑に抱きついたり、甘えたりすることが出来なくなっていた。
それどころか距離が近いとどうしても顔が赤らみ、緊張で声が震えたり、胸の鼓動がうるさくなるので、少し距離を空けたり、視線をそらしてしまう。
側にいると苦しいのに、離れるともっと苦しくなる。
「苑」
縁は苑の手を握ったまま、呟いた。
「お前、いくつなんだ?」
苑は少し笑ってから言った。
「二十四、かな」
「へ、へえ、お前小さいから、もっと若いのかと思っていた」
縁は苑の手を握る手に力を込める。自分の手がやたら汗ばんでいることを指摘されないか、内心ではびくびくしていた。
「俺は今、十二だから……十二歳違いか」
「そうね」
「でも」
縁は横を向いたまま、何でもない風を装いながら思いきって言った。
「お、お前は歳を取らないから、あと十年くらいで追いつくな」
苑は十年後の縁の姿を想像したのか、嬉しそうに笑う。
「……じゅ、十年も立たなくて、たぶんあと五年くらいでお前より大きくなるし、お、俺もそのころには十分大人、だしな。十八とか九くらいなら、そんなに変わらないし」
「縁が私のところに来るとき、今の縁くらいの歳の外見で来たのよ」
苑は頬を染めて俯いている縁の姿を見つめながら、眩しそうに瞳を細めた。
話を続けるタイミングを見計らっていた縁は、何とはなしに不機嫌そうに黙り込む。
「俺は何で、そんなしょっちゅうお前のところに行っていたんだ?」
縁の苛立った素っ気ない口調を気にする様子もなく、苑は懐かしそうに言った。
「付き合っていたから。私と縁は」
縁は電流が走ったかのように身を震わせ、驚愕に目を見開いて苑のほうへ顔を向けた。
少女のように可憐な容貌が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
「つ……つ、付き合って、いた? お、俺とお前が?」
喜びで跳ね上がりそうになる気持ちを何とか押さえ付けながら、縁は続けた。
「こ……恋人、だった、っていうことか……?」
苑は縁のほうに瞳を向けて、優しく頬を緩ませる。
「そうよ、彼氏と彼女だったの」
「へ、へえ」
何とかそれだけ呟いて、縁は急いで顔を逸らす。引き締めようとしても、知らず知らずのうちに笑いが浮かんできてしまう。
「な、何だ……。そうか、お前は俺のこ、恋人で……だから俺の子供の時を見に来たのか……」
縁は俯いたまま、苑の細い手を強く握る。
自分にはこの手を握る権利があったのか、と思うと、嬉しさで心がはち切れそうだった。
「俺とお前は、いつ会うんだ?」
早くその未来にたどり着きたい、という気持ちを抑えきれず、縁は頬を紅潮させて尋ねた。
「縁が十五歳の夏よ。学校が夏休みで……二人でここでずっと一緒に過ごしたの。今みたいに」
苑は懐かしそうに、二階の広いリビングを見回す。
「ここで……ふ、二人で過ごす?」
一体、なぜそんなことになったのか?
動揺を抑えきれず、あちこちに視線をさ迷わせる縁の横で、苑は自分の中の思い出を辿るように呟いた。
「懐かしいな、昼間は紅葉が毎日来て……縁といつも言い合いをして」
「紅葉?」
訝しげに眉を寄せる縁に、苑は笑いかける。
「友達よ。縁とも仲がいいの」
「ふうん、そうか」
縁は苑の顔から目を逸らして、弾む声で言った。
「じゃあ……今も俺はお前の側にいるのか? 大人になった俺が」
しばらく待ったが、返事は返ってこなかった。
怪訝に思い、縁は顔を上げる。
目の前に自分を見つめる苑の茶色の瞳があった。苑の顔からは笑顔が消え、瞳の中には切実な光が宿っていた。
その瞳の光はひどく強く美しく見え、縁は言葉を失い、ただただ吸い寄せられるように、その光を見つめた。
苑は両手で縁の手を取った。
反射的に顔を背けた縁の横顔を、見つめながら言う。
「縁、もし、私が縁のことをよくわかっていないと思っても……少し我慢して、私が縁のことをわかるまで待っていてくれる? どこにも行ったりしないで」
「な、何だ……急に」
縁は慌てたように、顔を背けたまま言った。
「……お前が俺の言っていることがわからないことがあっても……今だっているだろう」
「これからも? 私のことが嫌になって、いなくなったりしない?」
苑は真剣な顔で、縁を見つめる。
縁はチラリと苑のほうへ視線を向け、すぐに目元を赤くして俯く。
「お、お前がそんなに言うなら……いる、側に」
「約束……してくれる?」
苑は囁くように言った。
縁は不思議そうな顔で一瞬、苑の顔を見た。苑の顔はひどく真剣で切実な思いが込められていた。
「約束する」
縁は苑の手を握り締めて言った。
「お前が……いなくならないで欲しい、って言ったらいる。ずっと側に」
苑はやっと安心したように、微笑んだ。
それから口調を変えて言った。
「これから縁が会う『私』は、きっと縁のことを知らない。まだ縁と会っていないから」
苑は縁の顔を覗き込む。
「でも、私であることに変わりはないから。私はいつも縁のことが大好きだから」
苑の言葉に、縁は頷いた。
苑が語る未来によって、心に希望が灯るような気がした。
だがその時灯った希望の光は、十三歳になって「務め」が始まると、陰鬱な腐臭が漂う「禍室」の暗闇の中で、少しずつその輝きを失っていった。
★次回
神さまを信じるルート
「第72話 魂恋・4(縁)~また会いに来る~」




