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第69話 憎悪・3(苑)~こうしてやりたかった~

 

 紅葉は夕飯を食べて、ひとしきり話すと帰っていく。

 大抵の場合、苑と縁は散歩がてら敷地内を途中まで送る。

 屋敷が見えるところで別れ、帰りは敷地内の夜の光景や星を見ながら帰ってくる。

 縁は屋敷の近くに行くことを、余り好まなかった。


「縁」


 苑は、手を繋いで隣りを歩く縁に尋ねる。


「本家に帰らなくて大丈夫なの?」


 縁は苑と再会してから一ヶ月近く、ずっと側にいる。

 この現象がどういう仕組みなのかは分からないが、こんなに長い間「本体」から抜け出していて大丈夫なのか、という漠然とした不安があった。


「『屋敷の縁さま』は、ずっと部屋に引きこもっているらしいです。脱け殻か幽霊みたいだって、秘書の家森さんが心配しているみたいです」


 二人きりになったとき、紅葉は心配そうに苑にそう囁いた。


 家森は、苑が生まれる前から九伊家にいて、苑の父親の秘書を長く勤めている。

 口数が少なく、公私の区別を明確に守る実直な男だ。

 その家森が他の人間に主の様子を漏らすということは、そうとう様子が不審なのではないか。


 苑の言葉に、縁は事も無げな様子で言った。


「あの体はもういいんだ」

「もういい?」


 縁は楽しそうに星を見上げながら、大して興味がなさそうな口調で続けた。


「汚いから捨てた」

「捨てた?」


 苑が繰り返すと、縁は苑のほうに視線を向け、まるで製品の説明をする開発者のような口ぶりで答える。


「俺はずっと、あの体に閉じ込められていたんだ。だからお前の側にいられなかった。やっと抜け出せたんだ、あの禍室から。本当に嫌な場所だった。あの女が復讐のために作って、色々な奴が入ってきて好き放題荒らして穢れを詰めこんで」


 縁はいかにも嫌な思い出を振り払うように、秀麗な顔をしかめた。


「あそこにいると、自分がどんどん腐っていくような気がして、気持ちまでおかしくなっていくんだ。……俺がこんな風なのは、全部お前のせいみたいな気がしてきて、変な気持ちになるんだ。お前が俺をここに置き去りにした、みたいな……」


 縁はその考えを振り払うように軽く頭を振り、甘えるように苑の腕を抱き締める。


「あそこにいると、頭がおかしくなる。俺の母親みたいにな。だからあの体はもういい。俺はこうやって、お前の側にずっといるんだから」


 苑は絶句して、自分の腕にすがりついて笑う縁の顔を見つめる。

 それからやっとの思いで言った。


「縁……そんなの駄目よ」


 縁の顔から笑いが消えた。

 怪訝そうな眼差しで、苑の顔を見上げる。


「何でだ?」

「だって……」


 苑は必死で言葉を探す。

 何故かはわからない。

 この現象が、何故起こっているのかさえわからない。


 だが。

 肉体を捨てる。


 事も無げにそうすることが、不自然で間違っていることだけは分かる。


 それに。


「縁の体は『禍室』じゃないわ」


 苑ははっきりと言った。

 縁は形のいい眉を寄せて、圧し殺した声を吐き出した。


「俺の母親は、そのために俺を産んだんだ。『禍室』にするために。産まれたときからそうだし、他の奴らも俺が『禍室』だと思っている」

「違うわ、縁」


 苑はもどかしげに言った。

 それから俯きがちになった縁の顔を覗き込む。


「縁、元の体に戻って会えないかしら?」


 縁は、自分に向けられる苑の視線を避けるように横を向いている。頑なに苑と目を合わそうとしない。

 自分の手を握る力が少し弱まったように感じられて、苑は努めて穏やかに言葉を続けた。


「こういう状態じゃなく、今の縁と一緒に暮らせないかしら?」

「あの体に閉じ込められていたから、ずっとお前に会えなかった。だから捨ててきた、そう言っただろう」


「話を聞いていなかったのか?」という苛立ちを込めて、縁は言った。

 苑は困惑して言葉を返す。


「でも……縁は、九伊家を継いで……今は自由になったんでしょう?」


 苑は思い切って言った。


「九伊家を出て、一緒に暮らすことだって出来るでしょう?」


 不意に。

 すさまじく乱暴な手つきで、縁は苑の手を振り払った。

 苑は反射的に手を引っ込める。

 苑に向き直った縁の顔は、歪んだ嘲笑が浮かんでいた。


「あの体に戻って、九伊家を出て一緒に暮らす? 無理に決まっているだろう。そんなことはお前が一番、よくわかっているはずだ、苑」


 縁の青みがかった黒い瞳は、闇の中で異常な輝きを帯びていた。

 瞳を底光りさせたまま、縁は憎悪を込もった叫びを苑に叩きつける。


「わかっているから、八年前、俺を置き去りにしたんだろう!」


 縁の言葉に、苑の体は凍りついたように固まった。

 小刻みに震え出す苑の姿を、縁は表情のない眼差しで眺める。


「だから、その後も置き去りにしたまま会いに来なかった、そうだろう? 苑」

「……違う……」


 苑の唇から、苑の乾いた呟きが落ちる。

 縁は無表情のまま続けた。


「お前も、あの肉体を忌まわしいと思っているんだ。あの肉体がどれだけの人間に穢されたか知った後、どう思った? 俺に抱かれたことを後悔しただろう? 気持ち悪い、とんでもないことをしてしまった、ってそう思っただろう?」


 苑は必死に首を振る。

 心に映像が浮かんでくる。


 縁が自分に背中を向け、着物を体から滑り落とす。

 闇の中に浮かび上がった細く白い背中に走る、赤く擦れ腫れ上がった傷跡。

 まるで、重罪を犯した罪人か、市場に引かれて行く奴隷に押された刻印のような。


 その映像をかき消すように、苑は叫んだ。


「違う……! 後悔なんてしていないわ!」


 縁は歪んだ嗤いを浮かべる。


「俺が何をしてきたか、何をされたか聞けば、する。あんなものは、俺が経験してきたことの中じゃほんのお遊びみたいなものだ。それを見せただけで、お前は逃げ出した」

「違う……、違うの、縁。逃げたんじゃない……!」


 いつの間にか空から月と星が消え、夜の闇がひどく深くなっていた。

 目の前の風景が闇によって塗り込められ、目の前にいる縁の姿さえよく見えなくなる。


(駄目だ、苑。もう俺のところには来るな)

(もう来ないでくれ。あそこでお前に会いたくないんだ)

(これからも、お前に普通に外の世界で生きて欲しい)

(お前が元気で幸せに生きている……と思うと、俺の人生にも灯りが点るような気がするんだ……)

(それが俺の支えで誇りなんだ)


 何ひとつ見えない、全てを塗りつぶす黒々とした闇の中に、自分に外の世界で生きて欲しい、その世界での自分の生が明るいものであることを祈ってくれた縁の、優しい笑顔が胸に浮かぶ。


 あの時、手を離さなければ。

 縁に何を言われても、それでも一緒に外の世界に出ようと、縁に手を差し伸べ続ければ。

 そうすれば一緒にいられたのではないか。


 ずっとそう思ってきた。


 周りの世界を全て閉ざす暗い闇の中で、苑は必死に縁の声がする方へ手を伸ばした。

 闇の中で、夢中で縁の細い手を掴む。


「縁、私はあなたとずっと一緒にいたい。あなたの全部と一緒にいたいの!」


 不意に、縁の腕を掴んでいた手を、強い力で引っ張られた。

 強く引かれてよろめいた苑の体を、誰かが抱きとめる。

 苑は自分の肩を抱く相手の顔を、闇の中で見上げた。


「えに……し?」


 縁は暗闇の中で一層その青みが映える黒の瞳で苑の顔を見下ろし、形のいい唇を嘲笑で歪めていた。

 その姿は十二、三歳の子供ではなく、苑と同じ二十歳を過ぎた大人のものだった。


「一緒にいたい? ()()()()()?」


 縁はおかしくてたまらない、という風に顔をそらし声を上げて笑い出した。その声は徐々に大きくなり、哄笑となり深い闇の中に響き渡る。

 縁は何とか笑いを収めると、自分の腕の中で呆然としている苑の姿を皮肉な目つきで眺めた。


「この何もない黒い世界、これが『禍室』だ。お前は、ここにいたいのか? 本当に?」


 答えない苑を見て、縁は薄く笑った。


「苑、この世界は永遠に続く。それでも、お前はここにいたいのか? 俺の《《全部と》》一緒に?」


 縁は苑の首に両手をかけた。

 苑は瞬きすることすら出来ず、魅せられたように縁の黒い瞳を見つめたままだ。その瞳には、苑への暗い憎悪が映っている。

 縁は、苑の首を掴んだ両手に、ゆっくりと力を込めていく。

 わずかにもがいた苑に、縁は優しいとさえ言えそうな声で囁きかけた。


「ずっとこうしてやりたかった、お前のことを」


 喉を締め上げられもがく苑を、縁はうっとりとした眼差しで見つめる。


「お前も同じ気持ちだったなんて……嬉しいよ、苑」


 この何もない暗黒の中で、こうやって一緒に生きて行こう。


 遠のく意識の中で、縁が嗤いながらそう言うのが聞こえた。

 その青みがかった美しい黒の瞳には、星のように涙が光っていた。



(BAD END6 あなたに憎まれる/条件⑤入手)


 周回する→

「第一章 原型(縁)~神さまを殺すルート~」


 条件①②③④⑤が揃った。→

「第十一章 魂恋(縁)~神さまを信じるルート~」



***


「憎悪ルート」を読んでいただいてありがとうございます。

 ここまでで「魂恋」のための全ての条件が揃いました。

 二人が迎える真エンドをお楽しみいただければ幸いです。


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