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第68話 憎悪・2(苑)~あの頃のまま~

1.


 苑を乗せた車は本家の表玄関には向かわず、さらに奥へと進んでいく。

 十分ほど走ると、鬱蒼とした木立と高い塀に幾重にも囲まれた裏門に出た。

 表口の明るさと解放感とは逆に、辺りの風景に溶け込むようにひっそりと隠れるように存在している。


 紅葉は裏門の前に車をつけると、苑の荷物を下ろした。


「苑さん、何かあったらすぐに連絡して下さい」

 

 紅葉は苑の顔を心配そうに見つめ、そう言った。

 苑は紅葉の肩に手を置き、安心させるように笑った。



 2.


 紅葉がいなくなると苑は、裏門から「禍室」の中に入る。

 表玄関に回ると、懐かしそうに建物を見つめた。

 高校一年生の夏休みの間、一か月半、縁と一緒に暮らした場所だ。

 何ひとつ変わっていない。


 連絡で指示された通り、荷物を持って二階に上がった。

 二階は、一階の陽が入らない暗い和風の雰囲気とは違い、近代的なリビングとダイニングキッチン、広く風通しのいいテラスと二つの広めの洋間、浴室からなっている。

 苑は八年前の夏休み、ほとんどの時間をこの場所で縁と過ごした。

 まったく変わらない二階の風景を見た途端、幸福感が胸に溢れて瞳から涙が零れそうになる。


 その時、テラスに出る大きな窓際に置かれた籐の椅子に、誰かが座っていることに気付いた。

 大きめの籐の椅子に横座りし、足をひじ掛けにかけてブラブラさせている。

 その足は白く細く小さく、子供のもののように見えた。

 苑は大きく瞳を見開いて、目の前の椅子を凝視した。


「えにし……?」


 背もたれから僅かに覗いている黒い髪を見て、苑は呟く。


「縁……なの?」


 返事をするかのように足がひじ掛けから引っ込められたのを見て、苑は荷物をその場に置いて、椅子のほうへ駆け寄った。

 苑は不貞腐れたような顔をして椅子に座っている縁の顔を、涙の溜まった目で見つめる。

 少女のような繊細な顔の作り、その端整な容貌に似合わない気難しく険のある表情は縁のものだ。


「やっと来たのか」


 縁は苑と目を合わそうとしないまま、素っ気ない口調で呟く。

 そうしていないと漏れ出てしまう、別の感情を押さえ付けようとしているようだった。


 苑はまるで、見つめ続けていないと縁が消えてしまうとでも思っているかのように、瞬きもせずにその姿を見つめ続ける。

 縁は苑と同い年だから、本来であれば今年で二十四歳になるはずだ。

 だが目の前の縁は、十二、三歳の少女のような姿をしている。

 夏休みの後に、自分に会うために学校にやって来たあの「生霊」の縁だ。


(お前が言うから、来てやったんだぞ、苑。俺は、こう見えてけっこう忙しいんだがな)

(俺も……お前のこと、けっこう好き……だ。そこまでじゃないけれど、まあまあそれなりには好きだ……)

(だから……ここにも来たんだ。何か月も会えないのは、さすがにちょっと長い、って……お前が寂しがるんじゃないか、と思って)

(お前は俺の彼女……ってことだな? そうなるけれど、いいんだな?)


 照れたようでいながら喜びで弾んだ声が、まるで目の前で言われているかのように鮮明に心に響く。


 何から話していいか、どうしていいか分からないというようにあちこちを見回している縁のほうへ、苑は駆け寄り抱きしめた。


「縁……会いたかった……! ずっと会いたかった」

「そ、苑、お前」


「あんまりくっつくな」と口の中で焦ったように呟きつつ、縁は苑の体に手を回した。

 苑は全身を縁の体に溶け込ませたいと思っているかのように、腕に力を込めてしがみつく。

 自分の胸に顔を埋め体を震わせて泣く苑の肩を、縁も強く抱き返した。


 テラスから入ってくる心地いい風が、縁が苑に贈った花の形をした髪飾りを優しく揺らした。



 3.


 しばらく経ってから。

 二人はテラス際の籐の長椅子に寄り添うようにして、並んで座っていた。

「明日には、ここに引っ越してくる準備をする」苑は縁の手を握り締めながら、ごく当たり前のことのように話し、縁も元から決まっていた事柄を聞いたかのように頷いた。


 出会う前は、色々な可能性を考えていた。

 もしかしたら会えば、気持ちがもう思い出の中のものに過ぎないとわかるかもしれない。

 そんな可能性も頭を掠めた。

 だが会った瞬間に、そんな考えは全て消え去った。

 代わりに生じたのは、もう決して離れたくない……否、離れることは不可能だ、という確信だった。


 一度つなげれば、そして握り返してもらえれば。

 その先は何があっても、二度と離さないのに。

 二度と。


 高校一年生の夏休み、縁に初めて会った時もそう思ったのだ。

 これからはずっと縁の側にいる、と。

 それなのに自分は、縁の手を離してしまった。

 暗い「禍室」に、縁を置き去りにした。

 その無知と愚かさの罰として、縁は離れて行ってしまった。


 苑は自分の手の中に、縁の手があることを確認するように握りしめる。

 縁がもう一度差し伸べてくれたこの手を、今度は決して離さない。

 今度こそ、ずっと側にい続ける。


 そう心に誓った。



 4.


 苑は次の日には、東京で独り暮らしをしていた家を引き払うための準備を始め、とりあえず必要なものだけをまとめ禍室に引っ越してきた。

 大学を卒業するために必要な単位は、東京に住んでいなくても何とか取れそうだった。

 大学時代ずっと独り暮らしをしていた家だったが、持ち物が少なかったため、思ったよりも簡単に整理することが出来た。


 十二、三歳の姿のままの縁は、家にいる時は苑の側を離れようとしなかった。

 高校一年生の夏休みのときは色々な理由を並べて常に側にいたが、姿が年若くなると行動まで幼くなるのか、今は露骨にべったりと張りつき、苑の後をついて回った。


「そう言えば」と、毎日のように様子を見に来る紅葉が言った。


「苑さんと縁さまが夏休みに一緒にいた後、縁さまがよく学校に来たじゃないですか。あの時にそっくりですよね」


 籐の長椅子の上で、苑に甘えて膝枕をさせている縁を横目で見ながら紅葉は言った。

 本人は皮肉っぽい口振りで言ったつもりだったが、紅葉の声には抑えても抑えきれない弾むような懐かしさが含まれている。


「ずうっーと、苑さんにべったりで」

「俺は苑の彼氏だからいいんだ」


 縁は、苑の膝に頬を擦り寄せながら言った。


「苑が喜ぶから、こうやってイチャイチャしているだけだ。別に俺の趣味じゃない」

「趣味じゃないのに、ずっとそうしていて大変ですね。お風呂にまで着いていきそう」


 紅葉はわざと作ったような、嫌みな口振りで言った。

 縁は上半身を起こして、紅葉の顔を睨む。


「紅葉、お前、うるさいことを言うなら帰れ。第一何で毎日来るんだ」

「仕事が在宅だから時間があるんです。私は苑さんに会いに来ているんですから、縁さまにとやかく言われる筋合いはありませんっ」


 紅葉は、ここぞとばかりに声を大きくする。


 他愛のないことで延々と言い争う二人を、苑は微笑みながら見つめた。

 何もかも八年前と変わらない

 いつも苑にくっついている縁に紅葉が何かと絡み、言い合いになる。

 二人は何だかんだ言いながら、いつもの言い合いを楽しんでいる。

 苑はそんな二人を、楽しそうに見守っている。


 こんな時間がずっと続けばいい。

 八年前と同じように、苑は心の中でそう願っていた。



★次回

あなたに憎まれるルート

「第69話 憎悪・3(苑)~こうしてやりたかった~」

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