第65話 罪悪・5(苑)~何もわかっていない~
1.
それから半年以上経った春。
苑は、九伊の本家の敷地の中で、本家の屋敷から離れた場所にある「禍室」と呼ばれる小さな家屋に住んでいた。
縁に初めて会った夏の日以降、苑は縁に求められるままに東京で一人暮らしをしていた家を引き払い、内定していた就職を断り、「禍室」に引っ越してきた。
「禍室」は瀟洒な作りの二階立ての建物で、一階は和風の作りになっていて、表玄関を入るとリビングとキッチンがあり、奥にいくつか和風の続き間がある。
縁はこの和風の続き間には、決して入らないように苑に言った。
二階は一階とはまるで雰囲気が違い、近代的なリビングとダイニングキッチン、広く風通しのいいテラスと二つの広めの洋間、浴室からなっている。
苑はほとんどの時間を二階で過ごすことが多かった。
欲しい物は世話係に伝えれば、どんなものでも調達して来てくれる。
縁は苑のために、豪華な調度家具や家電なども入れようとしたが、苑は元からあるもので十分だ、と言って断った。
引っ越してきてからだいぶ経ち生活も落ち着いてきたころ、苑が庭の小さな畑で作業をしていると、誰かが近づいてきた。
「苑さん」
声をかけられて、苑は立ち上がりそちらを振り向く。
長身で整った、だが決して目立ちすぎないそつのない雰囲気を纏った青年の姿を見て、苑は微かな驚きで目を見張った。
「里海さん?」
「苑さん、久しぶりだね。前の当主の葬式以来だから、五年? 六年ぶりか」
里海の口調はそう言いながらも、大して懐かしそうではなかった。
畑仕事をするための恰好をしている苑の姿を一瞥してから、里海は言った。
「もうすっかり馴染んだんだね、ここの暮らしに」
里海の声には、微かな敵意と皮肉が含まれていた。苑の落ち着いた雰囲気が気に食わないように、里海は遠慮のない視線でジロジロと苑の姿を眺めた。
苑はそんな里海の様子には反応せず、静かな口調で言った。
「縁なら中にいます。里海さんが来たって、伝えてきましょうか?」
「縁に会いに来たんじゃない」
里海は怒りと反感がこもった眼差しで、苑の顔を睨んだ。
「僕はあなたに会いに来たんだ、苑さん」
苑は顔を上げて、里海の顔を見た。
そこには特に意外そうな表情はなかった。
「中に入ります?」
苑の言葉に、里海は激しい口調で言った。
「いや、いいよ。あなたと縁の愛の巣になんか、足を踏み入れたくないからね」
苑は特に何も言わず、黙って里海の次の言葉を待った。
「まったく、縁はあなたみたいな可愛げのない女性のどこがいいんだろうね」
里海は、苑の静かな瞳をひどく苛立ったように眺めた。
「まるで岩みたいだ。いっつも、自分が正しいみたいな顔でそこにいて、言わなくとも『正しいこと』に他人が気付くのを待っている。僕は会った時から、あなたのそういうところが気に食わなかった。僕があなたのことを嫌っていたのを知っていた?」
苑は黙っていた。
興味がないことは、昔からこういう風にやり過ごすことに慣れていた。
そうしてそういう態度を取ると、今の里海のように相手の感情がさらに高ぶってくることは知っていた。
「苑さん、君は九伊家から出て行きたかったんだよね? 僕と結婚をしてでも、どんな手を使ってでも」
里海は無遠慮な眼差しで、動くのに適した服装をした苑の姿を貫いた。
「でもじゃあ、一体、今の君は何だい? 結局、九伊家に戻っている……どころか、その中のさらに奥に引きこもろうとしている。外に出て行きたい、なんて嘘っぱちじゃないか。君に当主の座をちらつかされて喰いついて婚約して、婚約を破棄されて放り出されて、恋人まで奪われる。僕こそいい面の皮だよ」
里海は声を震わせてそう言ってから、強いて気持ちを落ち着かせるかのように、感情を抑えた声を出した。
「君から言わせれば、最初から取引のつもりだった、状況が変われば条件がいい方に手を変えるのは当然だ、ということだろう。
僕が甘かった。婚約期間なんておかないで、さっさと結婚して、さっさと当主の座について、さっさと縁をどこかに閉じ込めて、さっさと君を遠くに追いやって、二度とこの屋敷の敷居をまたがせなければこんなことにはならなかった」
里海は刺すような目で、苑を睨んだ。
「君相手には、それくらいやってしかるべきだった。君の岩みたいな無慈悲さを、もっと考えるべきだった」
苑は静かな口調で言った。
「里海さんには、申し訳なく思っています。振り回してしまって」
苑の言葉に、里海は皮肉な笑いを浮かべた。
今にも笑い出しそうな顔になったが、かろうじて感情を抑えつけた。
「いやいや、君はそんなことは思っていないよ。そういう風に言うのが一番面倒臭くなく事が治まるから、口を動かしているだけだ。そうだろう? 苑さん」
里海は苑の返事を待たずに、言葉を続けた。
「そうじゃない、本当に僕に申し訳なく思っている、と言うなら、縁を僕に返してよ。僕がそもそも君みたいないけ好かない女の子と結婚までしようと思ったのは、縁を守りたかったからなんだ。縁を守り一緒にいるために、本家の当主の座が欲しかっただけなんだから」
里海を見る苑の瞳に、初めて固い敵意に似たものが瞬いた。
苑はそれまでよりも、はっきりとした口調で言った。
「返すも返さないも、縁は『物』じゃないわ。縁が私よりもあなたの下にいたい、と思えば、ここから出て行ってあなたのところへ行くでしょう。
縁はもう閉じこめられてはいないのだから、自分がいたいと思う場所にいて行きたいと思う場所に行くわ」
自分を見つめる苑の顔を里海は見ていたが、やがて笑い出した。
「苑さん、前から思っていたけれど、君は自分の見たいものが現実だと信じる人だよね」
里海は苑が黙っていることを見越したかのように、言葉を続けた。
「『縁は自分がいたいと思う場所にいて、行きたいと思う場所に行ける』って、君、本当にそう思っているの? 例えば、これから縁が外の世界に出て、どこかで普通に働いて生きていけるとかさ? そういうことを信じているわけ?」
里海はひどく馬鹿にしたように、苑の顔を見つめた。
「賭けてもいいけれど、縁にはそんなことは出来やしないよ。もう『禍室』じゃなくなったのだから、どこでも好きなところに行けるはずだ。好きなことが出来るはずだ。そんなことを信じている間抜けは、苑さん、あなたくらいなものだよ。
だって、実際、縁はここであなたと二人で閉じこもっているわけだろ? 同じじゃないか。『禍室』だったころと。やっぱり九伊の……『神さま』である、あなたに『禍室』に閉じ込められている。そりゃあ今は幸せかもしれないけれどね。でもね苑さん、君はたぶん、縁のことを何もわかっていないんだよ」
里海は笑いながら続けた。
「苑さんがここに戻ってくる前、僕や親族の男たちが本家の屋敷に出入りしていたのは知っているだろう? 何のために通っていたと思う?」
苑が黙っていると、里海は何か強い苦痛を耐えるかのように顔を歪めた。
そして再び笑い出した。
「縁はね、僕とだけ関係を続けていたわけじゃないんだよ。本家の当主になった後も、ずっと他の『客』と関係を続けていた。『禍室』になるというのは、そういうことなんだ。ここから出れば、自由で普通に生きられて、誰かを愛せて幸せになってめでたしめでたし、そんな簡単な話じゃない」
苑は笑っている里海の顔をジッと見つめた。その瞳に、僅かに相手を悼むような光が浮かんだ。
「里海さんのことは、気の毒に思います。あなたは心の底から縁を愛しているから……そういうのは傷つくだろうし、きっと辛いでしょうね」
言われた瞬間、里海の顔に雷光のように怒りが走った。
里海は一瞬、苑を殴ろうかとするかのように手を振り上げようとしたが、寸前で思いとどまり手を握りしめた。
瘧にかかったかのように震える拳を、どうにか下ろす。
それから先ほどまでとは違い、敵意以外の何かが含まれた視線を苑に向けた。
「……あなたはそうじゃないの? こういう話を聞いても心が痛まないの? 傷つかないの?」
苑は瞳を伏せた。
「私は……縁をずっと傷つけてきたんだから、縁が何をしても傷つく資格なんてないわ。私に許されているのは、縁の今までの憎しみや恨みを受け入れることだけだもの」
里海は苑の顔を、ひどく胡散臭げな懐疑的な眼差しで眺めた。
「ねえ苑さん、僕は前から不思議だったんだけれど聞いていいかな?」
里海は半ば好奇心がにじんだ、半ば奇妙な嫌悪に染まった口調で尋ねた。
「あなたはそういう自分の言葉を、どこまで信じているの? 本当にそういうことを信じて喋っているの? 縁が自分のことを恨んで憎んでいるって心から?」
★次回
あなたに会いに行くルート
「第66話 罪悪・6(苑)~償い~」




