第64話 罪悪・4(苑)~罪~
1.
その夜、苑は誘われるままに縁の部屋に行き、そこで過ごした。
「夢みたいだ、お前がこうやって俺の腕の中にいるなんて」
縁は苑の焦茶色の柔らかい髪を手に取り、月明かりに透かして見つめ頬を寄せる。
縁は苑の存在自体を確かめ、自分の中に染み込ませるように、飽かずにその体に触れ全身を撫で続けた。
そうやって苑が実在することにやっと納得し、安堵すると縁は口を開いた。
「大学を卒業したらここに戻って来い。今度は俺が『神』で、お前が『禍室』になるんだ」
「かむろ……?」
縁の腕の中でまどろんでいた苑は、目をうっすらと開ける。
「お前、本当に何も知らないんだな」
縁が、薄く笑って苑の顔を見た。
「お前の親父は九伊の風習を、特に禍室のことを嫌って、徹底して遠ざけていたみたいだからな」
縁は嗤った。
「お前の親父が俺のことを見たあの目つき、忘れられない。まるでごみ溜めから出てきた化物でも見るみたいな目で、人を見やがって。大切に九伊から遠ざけていた娘が禍室になるって聞いたら、あいつ、何て言うかな」
縁はこみあげてくる笑いが抑えきれないかのように、体を丸めて笑う。
「お前を外に出すために、汚物みたいに思っていた俺を、自分の養子にまでして本家を継がせたのにな。そのお前が結局ここに戻ってきて、俺の禍室になるだなんて、こんな傑作な話があるか?
あいつに見せてやれなくて残念だよ。墓場で歯噛みでもしてやがるかな、ざまあみろ」
苑はぼんやりとした意識の中で、縁の嘲笑を聞きながら過去の記憶を思い出す。
あれはもう七、八年も前のことだ。
九伊家から出るために婚約した六星里海から、「禍室」について初めて聞いた。
(禍室は『神』のために穢れを払う人であり、穢れを収める場でもある)
(つまり『禍室』が在り、しかも『神』から離れていることによって、『神は成立している』)
(その……禍室、のかたが今もいる、ということですか?)
(いる)
(君が存在しているのが、その何よりの証だよ)
「禍室」がいるから、「神」である九伊は……自分は存在できる。
里海はそう言っていた。
(今の禍室は男なんだ。かなり珍しいらしいけれどね)
苑は瞳を開けて、目の前の縁の顔を見た。
「縁、あなたが私の『禍室』だったの?」
縁は大きく瞳を見開き、苑の顔を凝視した。
縁は苑の頬を撫で、髪を撫でた。何かを確かめるように体の線をなぞり、その肩を抱き寄せる。
それから微かに吐息するかのように囁いた。
「そうだ、苑。俺がお前の穢れを全部、引き受けてきたんだ。お前が生きられるように。ずっとずっと。お前の穢れを引き受けるためだけに、俺は生きていたんだ」
縁の声は小さかったが、万感の思いがこもっていた。
「そう……だったの」
縁は、自分の中の空白を埋めるかのように苑の体を優しくなで続けた。
「だから、俺はお前をずっと憎んで恨んできた。なんで俺がこんな目に遭わなくてはならないのか、なんでお前を生かすために俺が犠牲にならなきゃいけないのかわからなかった。何で俺ばかりが、ってずっとそう思っていた。
お前にそれを聞きたかった。聞いていたんだ、ずっとお前に。それなのに、応えてくれなかった。俺のことを無視して気付きもしないお前を、殺してやりたいと思っていた」
縁は、苑の頬に唇をつけた。
「だから、お前にも同じ思いをして欲しいんだ。お前を閉じ込めて、俺のことをずっと憎んで欲しい。俺のことだけを、ずっと考えて欲しい」
縁は囁きながら苑の唇の柔らかさを貪るように味わっていたが、ふと何かに気付いたように顔を離した。
何事かを恐れるような視線を苑の顔に向け、躊躇いがちに口を開く。
「……お前、誰か付き合っている奴とか……好きな男とか、いるのか?」
瞳には恐怖に似た固い光を浮かび、緊張で目元が強張っている。
息を飲む音すら響きそうな沈黙の中、苑は首を振った。
縁はホッと息をつく。
目に浮かんだ固い光が、安堵で雪のように溶けていった。
次の瞬間、そんな自分に腹を立てたかのように縁は声を強めた。
「お前は俺に償うためにここに来なきゃいけないから、関係ないけどな。俺のほうがそんな奴らより、ずっと長い間お前のために色々としてきたんだ。俺のほうが、お前に対して権利がある。優先されて当然だ」
自分に言い聞かすように声を上げている縁の様子を、苑は優しい眼差しで見つめる。
そして微笑みかけた。
「縁はいるんでしょう?」
怪訝そうな顔になった縁に、苑は言う。
「里海さん」
苑の頭の中で、話が全て明快につながった。
高校一年生のときに婚約した里海は、「九伊家を出たい」という苑の望み協力する代わりに、「自分の恋人を本家に引き取って保護したい」と持ちかけてきた。
その恋人は「禍室」であり、九伊家での奇妙な風習を押し付けられ、虐げられていると言っていた。
それが縁だったのだ。
紅葉の話によれば、苑との婚約を解消した後に屋敷を出て行った里海は、未だに足しげくここの顔を見せると言う。
縁が当主になった後も、付き合いが続いていることは想像がつく。
苑の言葉に縁は一瞬顔を赤く染め、何か言おうとした。
だがすぐに唇を噛み締め、苑の顔に伺うような視線を向けたあと、目線を無理に引きはがして言った。
「そうだ、だけどそれについてお前に文句を言われる筋合いはない」
文句を言うに違いない、と決め込んでいるような口調で縁は言って、苑の顔を反抗的な目付きで睨んだ。
苑は笑っただけだった。
「……お前はつまり……つまり愛人……みたいなものだ。たまに空いた時間、お前に会いに行ってやる」
縁は思いきったように言ってから、苑の顔をおそるおそる見た。
「何か言いたいことがあるなら言え」
苑は首を振った。
「特にないわ」
縁は一瞬黙ってから、苛立ったように言った。
「俺はお前のことなんか、すぐに忘れる。お前だって俺のことを知らなくて、忘れていたんだからな。そうなったとしてもお互いさまだ。お前なんか、あの禍室で、一人で寂しく生きていけばいいんだ」
苑は手を伸ばして、縁の頬に触れた。
縁は苑の手が触れた瞬間、電流でも走ったかのように体を震わせ口をつぐんだ。
苑は縁の顔を覗きこんだ。
「縁、寂しかったの?」
縁は顔を背けた。口の中で「別に」と呟いたが、その言葉は音になる前にどこかへ消えていった。
それから、顔を背けたまま呟いた。
「苑……、俺が何で九伊の当主になれたか、知っているか?」
苑は黙ったまま、自分の腕を掴む縁の手の震えをただ感じていた。
「俺……お前の父親の弟なんだよ」
苑は目を閉じた。
恐らくそうだろう、と思っていた。
今までどこに存在していたかもわからない……もしくは縁が「禍室」であったことを知っていた者でさえ反対しなかったのは、直系の「神」の血を引く者であったから以外理由は考えられない。
苑の父親は、苑を九伊から外へ逃すために、「禍室」だった異母弟を自分の養子にしたのだ。
苑と縁が十一歳だった時に、一度はその考えを断念したことを考えれば、その身勝手さに縁の怒りや憎悪が抑えきれないほど高まるのは当たり前だ。
自分たち親子は、どこまで身勝手に縁を利用し、踏みつけるのだろう。
苑は縁の体を労わるように、優しく撫でた。
一体、どうすればこの罪を償えるのだろう。
縁は苑の白い胸に顔を埋めて呟いた。
その声は、手と同じように僅かに震えていた。
「俺とお前は叔父と姪だから、一緒になれないんだ」
縁は苑の胸に顔を埋めたまま、呟き続ける。
「何なんだよ。本当に。何なんだよ。じゃあ何で、俺、こんなにお前のことばっかり考えるんだ?
会ったこともないのに、お前は俺のことなんか知りもしないのに、お前のことばっかり考えて、明日には明後日にはお前が来るんじゃないか、そうしたらこう言ってやろう、ああ言ってやろうってそんなことばかり考えていた。お前のことをずっと待っていたのに。一緒にはなれないなんて、馬鹿みたいじゃないか、俺」
「縁」
苑は縁の体を抱きしめて、その黒く滑らかな髪に顔を埋めて囁いた。
「大丈夫よ、私はずっといるわ。これからはずっとあなたの側にいる」
縁は、苑の腕の中で僅かに身じろぎした。
苑は言葉を続ける。
「あなたが私の人生を支えてくれたように、今度は私があなたの人生を支える。あなたがこれまで踏みつけられてきたものを、少しでも取り戻せるように」
縁は呟くような微かな声で言った。
「何で……何で、そんなことをするんだ?」
苑は言った。
「あなたのことが好きだから。たぶん、ずっと好きだったと思うから。あなたのことを知らないときから」
その言葉を聞いた瞬間、縁はしがみつくように苑の体を強く抱きしめた。
「俺は……お前のことなんか嫌いだ。ずっと憎んできたんだ。ずっとずっと。お前に会う前から」
縁は涙に染まった声で呟いた。
「大嫌いだったんだ、お前が」
縁は祈るように、苑の体を掴む手に力を込めて囁いた。
「苑、俺はお前のことを憎んでいるんだ。今も、これからもずっと」
「うん、わかっているわ」
苑は微笑んで、縁の髪を優しく撫でた。
★次回
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「第65話 罪悪・5(苑)~何もわかっていない~」




