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第62話 罪悪・2(苑)~会えなかったあの子~

1.


 屋敷の門扉から中に入ると、車は本館の正面玄関ではなく、そこからさらに先に進んだ客室が集まっている別棟の入口に向かった。

 この屋敷は、苑にとっては今は他人の家だ。

 別棟の客室に迎えられるのは当然だが、紅葉を始め雇用人たちはそうは思っていないようだった。


「お嬢さま、お帰りなさいませ」


 別棟の前では、苑が生まれる前から九伊家に仕えている使用人頭の玖住くずみが待っていた。

 六十歳に手が届く背が高い厳格な雰囲気の女性で、屋敷内の雇用人全員から畏怖される存在だ。

 郁美のときとは違い、苑は玖住の言葉は訂正することなく受け入れた。


「玖住、変わらないわね。元気だった?」

「お陰さまを持ちまして」


 玖住は丁寧な口調で答え、きっちりと髪がまとめられた頭を下げる。


「まさか、お嬢さまを別棟にお迎えに上がる日が来るとは思いませんでしたが」


 淡々とした平板な口調の底に、強烈な毒気を感じて苑は苦笑した。


「私は、玖住がここに残ってくれて嬉しいわ」


 苑が労るようにそう言うと、玖住は僅かに目を伏せた。心に湧いた感情を振り払うかのように後ろを振り返り、控えていた家の者に苑の荷物を運ぶように伝えた。



 2.


 用意された部屋に入り、荷物をほどくと苑は人心地ついた。

 紅葉は荷物を入れるのを手伝ってくれた後、夕飯まで少し休んではどうかと言い去って行った。


 苑はベッドに腰掛け、今後の予定を確認する。

 明日、九伊家の弁護士と主だった親族たちに会い、自分の考えを改めて伝え、今後のことを話し合うつもりだ。

 現在の当主への挨拶も一応申し出たが、遠回しに断られた。


「挨拶など必要はございません。ここは元々はお嬢さまが住まう場所です。後から来た当主が入るときに、お嬢さまにご挨拶するのが本来の筋だったのですから」


 当主の「挨拶は不要」という言伝てを伝えるとき、玖住は固い声でそう付け加えた。

 苑も極力、九伊家には関わりたくないと思っていたので、どんな意図から出た言葉であれ、現在の当主と顔を合わせずに済むのはありがたかった。



 3.


 時刻は夕暮れになりかかっていた。

 日が落ち、外は爽やかな風が吹き、涼しげな気配がした。

 心地いい空気に誘われるように、苑は外に出た。


 九伊家の敷地は、整備されていない私有地も含めると広大だ。

 苑は思い出に誘われるように、幼いころよく一人で空想しながら歩いた場所を回った。

 五年ぶりだが庭の風景は何ひとつ変わっていない。遠くのほうには山が見え、暗くなりかけた空には星が見え始めていた。


 灯りがないと歩くのが難しくなってきたため、そろそろ戻ろうかと思ったとき、視線の先に誰かが立っているのを見つけた。

 苑は何かに惹きつけられるかのように、その人影のほうへ向かった。


(あの子は私のことを待っているんだ)


 苑の胸に、唐突にそんな想いが去来する。

 その想いの余りの強さに、胸が締め上げられ息が苦しくなり、瞳から涙が溢れそうになる。


 私はあの子が来るのをずっと待っていた。

 あの子の話を聞いてから、ずっと。

 だが結局は来なかった。


(苑、その話は無くなった)


 会えなかった、あの子と。

 私はずっと待っていた。

 あの子もずっと待っていた。

 それなのに会えなかった。


 苑の目の前に、広い野原で一人で星空を眺める男の子の姿が浮かぶ。


 そう、このイメージ。

 ふとした拍子に頭の中に浮かぶ。


 あの子はいつも強がっているが、本当は寂しがり屋で傷つきすい繊細な子なのだ。

 だから私が行ってあげなきゃ。

 あの子は、ずっと私のことを待っているのだから。

 今すぐあの子が一人でいる場所に行って、隣りに座って手を握ってあげなきゃ。


 待たせてごめんね。

 ごめんね、「……」。


 苑は、薄暗い闇の中で立ち止まった。

 人影は気配に気付いたのか、ゆっくりと苑のほうを向く。

 黒く光沢を帯びた癖のない長い髪が、風で微かに揺れている。長い睫毛に縁取られた瞳は、薄暗い闇の中だと僅かに青みをおびて見える。

 女性のように繊細で、美しく整った容貌は、無表情のためひどく冷たく見えた。


 間違いない、あの子だ。

 十一歳のときに、父親が家に引き取ることを止めたため、「会えなかった」あの子。


 その瞬間、苑は気付いた。


「縁……」


 闇の中で、苑は青年の美しい顔を凝視して呟いた。


「あなたが……あなたが『縁』なの……?」


「縁」は首を僅かに傾け、表情が浮かばない瞳で、ジッと苑を見つめた。



 4.


 縁はしばらく驚愕する苑の顔を観察したあと、薄い笑いを唇に浮かべた。


「お前は……『苑』か。九伊苑」


 縁の言葉に、苑は夢から覚めたように顔を伏せた。


「ご、ごめんなさい、急に」


 苑は慌てて、心の中の幻想を振り払う。


「十一歳の時に、家に引き取られなかったあの子」は、ずっと自分を待っている。

 それは全て自分の夢想……頭の中で作り上げた空想の話にすぎない。


 現実には、自分は目の前の相手と初対面なのだ。

 苑は自分にそう強く言い聞かせ、顔を上げた。


「家に滞在させていただいて、ありがとうございます。挨拶が出来なくて、ごめんなさい。」


 縁は、ジッと苑の顔を見つめていた。

 余りに長いこと見られるので、苑が顔を伏せた瞬間、縁が口を開いた。


「俺は待っていた。お前が来るのを」


 苑は思わず顔を上げた。

 縁は苑に一歩近づく。

 二人の距離は手を伸ばせば届くほどの距離になり、薄暗い中でもはっきりと表情が見えるようになった。


「俺は子供のころから、ずっとお前の話を聞かされていた。俺は本家の『神さま』を存在させるために生き、そのためにこの体を一生捧げ続けるのだと。俺がそうすることで、九伊の『神さま』は存在することが出来る」


 縁は独り言のように呟き、苑の姿を隅々まで頭の中に刻み込むように見つめた。


 九伊の親族の中には、そういった一族特有の考えを真剣に信じている者が多い。

 九伊の本家はご神体であり、分家は現世で事を成すための神の四肢、九伊の名前を持たない分家は神に仕える民、時代錯誤な世界観を自分の物として生きている人間は大勢いる。

 苑は大勢の人間が作り出す、自分を「神」にしようとするその世界から逃げ出したかったのだ。


 苑の考えを見透かしたかのように、縁は皮肉な笑いを漏らした。


「だがまさか、その『神』が神であることを止めて逃げ出すとは思わなかった。そのうえ、俺が『神さま』になる羽目になろうとは、な」


 苑はわずかに怯えを含んだ眼差しで、縁の端整な顔を見上げた。


「……あなたは、九伊の分家の人なの?」


 縁は黙って、苑の目を見返した。

 それからごく自然な仕草で、苑の手を取った。


「お前を案内したい場所があるんだ」

「……え?」

「来い」


 苑は戸惑いながらも、手を引かれるがままに縁の後を着いて行った。



★次回

あなたに会いに行くルート

「第63話 罪悪・3(苑)~ごめんね、一人にして~」

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