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第57話 揺籃・15(縁)~嘘つき~

1.


 以前は苑と話をしたくても出来ず、その気配を追ったり、同じ空間にいて見ることはなしに見ていることが多かった。

 だが今は、同じ空間にいることすら耐え難く、苑のほうを向くことすら出来なかった。

 近くにいると、何か自分の変化に気付かれるのではないか、そんな気がした。

 それは苑に対してだけではなかった。


「元気ないな、何かあったのか?」


 一颯にそう聞かれても、「何もない」と言って顔を背けてしまう。

 一颯の物静かで聡明な眼差しで見られると、何か勘づかれるのではないかと心に怯えが走った。


 学校が始まってからも、週末ごとに里海に呼び出され、車に乗せられた。

 結局のところ選択の余地はなかった。

 蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のようにもがいても逃れられない、ということを思い知らされた。

 本家の人間が自分を里海に差し出したなら、逃げ場などどこにもない。

 首輪をつけられた家畜のように、自分を繋ぐ鎖を持つ里海に引かれるまま後に従うより他になかった。



 2.


 時間がある時は、よく裏庭に面した二階の廊下から、畑仕事をする苑の姿を見ていた。

 陽射し除けの麦わら帽子をかぶり、首にタオルを巻いて軍手をはめ、泥だらけになりがら水をまいたり、雑草を抜いたり、真剣な眼差しで野菜の育ち具合を観察する。

 雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、まるで世界の果てに一人で住む農夫のように、苑は畑仕事を続けた。


 その姿を見ていると、束の間、心が安らぐのを感じた。


 里海は、長い間愛情を捧げ続けた相手に振り向いてもらった男のように、縁に献身的に尽くした。

 縁の愛情深いとは言い難い、明らかに面倒臭げで投げやりな態度にも文句を言わず、縁の望みは大抵のことは受け入れた。

 対して縁は、里海の前では常に横柄で気儘だった。


 里海が自分に向ける感情は恋や愛情ではなく欲望に過ぎないと決めつけ、「ベッドの中で相手をすれば文句はないだろう」という態度を露骨に取った。

 そうした自分の態度に里海が傷つくことに、暗い喜びを覚える。


 不思議なもので里海と出会ってから、今まで焦がれるように遠巻きに見ているだけだった人間が、何かの匂いを感じとるように近寄ってくるようになった。

 縁は同性であれ異性であれ、近寄ってきた相手に誘われれば断らず関係を持つようになった。


(君は結局は、本家に引き取られて普通に生活をしたって『禍室』なんだよ)

(君がいる場所が『禍室』になるんだ)


 なるほど、里海の言った通りだ。

 自分はあの瞬間から「禍室」になったのだ。


 縁は里海の言葉を思い出して嗤った。

 何を嗤っているのか、自分でもよくわからなかった。 



 縁は自分の行動を里海に、特に隠さなかった。

 里海は縁が誰かと関係を持った話というを耳にするたびに、止めるよう懇願したが、聞き入れられないとわかると諦めたように何も言わなくなった。

 だが縁が関係を持った人間の中に、自分を通して知り合った人間がいると聞いたときはさすがに激昂した。


「君から誘ったのか?」


 縁は馬鹿にしたように嗤った。


「向こうからだよ。お前、人望がないんじゃないか?」


 里海はカッとしたように手を上げたが、かろうじて自分を抑える。

 縁は怒りに染まった里海の顔を見て、薄笑いを浮かべた。


「殴りたいんだろう? 好きにしろよ」

「縁……」


 里海は震える拳を握り締める。


「君は僕の物にはなってくれないのか? これほど尽くしても?」


 懇願するような眼差しを自分に向ける里海を見て、縁は今にも笑い出しそうな顔で言った。


「俺はお前の物になっている。俺は誰の物にでもなる。俺の体は、誰でも好きに出来る。誰でも好きなだけ弄び、好きに穢していい。俺はそういう『物』だと、お前が言ったんじゃないか。俺は俺に与えられた務めを果たしているだけだ」


 艶然とした笑みを浮かべている縁を、里海は感情が抑圧された瞳で凝視した。

 不自然なほどの長さでそうした後、おもむろに口を開く。


「苑さんに、僕たちの関係について聞かれた」


 瞳を大きく見開いた縁の顔を直視して、里海は続けた。


「恋人、って答えたよ」


 言われた瞬間、全身が冷たい水に沈められたかのようにゆっくりと冷えていく。

 まるで生物が死に絶えた惑星の湖面のように、体の中がシンと静まり返った。


「苑さんに頼んだんだ。僕と縁が仲良く本家で暮らせるように、隠れ蓑になって欲しいって。わかった、って言っていたよ」


 不思議なほど、心が動かなかった。厚い氷に覆われているかのように。


「僕に君を幸せにして欲しいってさ。自分が邪魔なら、高校を卒業したら出て行くって。そうして欲しいって伝えておいた」


 縁は視線を足元に向ける。


(縁……、私、大人になっても縁の側にいるからね)


 幼い苑の声が聞こえる。

 あの頃の苑は、小さな腕を精一杯伸ばして、縁の体を抱きしめてくれた。


(ずっと……いるから)


 もう苑の心は、とっくに遠くへ行ってしまっていたのだ。世界に二人きりみたいに感じられた、布団の中から出て。

 多くの人間に抱かれている自分には、嘘つきと言う資格すらない。



 3.


 畑にいる苑を見守るために二階の廊下にいた時、不意に声をかけられた。


「君はいつもここにいるな」


 縁は驚いたように、声の主である十谷の中性的で端整な容貌を見つめる。

 声をかけられるまで、まったく気配を感じなかった。

 十谷は窓の外に目を向けた。


「彼女を見ているのか」


 どことなく後ろめたそうに顔を背けている縁に、十谷は言った。


「そのままそこで見守っていればいい。《《いつも通り》》。そうすれば彼女は九伊家から、外へ出て行ける」


 縁は顔を上げて呟いた。


「苑がそう言ったのか? 九伊から出て行きたいって」


 十谷はうっすらと笑った。


「そんなこと、彼女をずっと見ていればわかる」


 十谷の言葉に、縁はカッとしたように僅かに眉を寄せた。

 何か言いかけて、しかし口を閉ざす。

 十谷は、そんな縁を満足そうに眺めた。


「そうだ、それでいい。君が余計なことをせず黙って行かせれば、彼女は外へ出ることが出来る」

「余計なこと?」


 縁の問いには答えず、十谷はゆっくりと言葉を続けた。


「ご苦労だった、縁。君の役目はここまでだ。後のことは僕に任せておけ。僕の体は君とは違い、穢れていない。外の世界でも彼女を見守ることが出来る」

「何……だと?」


 縁の声を震わせる怒りを気にも留めず、十谷は縁に微笑みかけた。

 そういう顔をすると、不意に女性らしい雰囲気がにじみ出る。


「君があの里海とかいう男を愛していて幸せになれる、と信じられれば、彼女は君のことを気にせずとも済む」


 縁、と十谷は、息がかかるほど顔を近づけて囁く。


 僕たちの「神さま」が「神さま」じゃなくなるまで、もう少しだ。

 彼女はこれからは、自分の穢れを自分で引き受けて生きていく。

 それまで、もう少しだ。

 僕の俺の「神さま」が外へ出て行くまで。


 心に十谷の声が直接響く。

 気が付くと、唇に触れていた冷たく柔らかい感触が離れたところだった。

 十谷は唇を離すと、縁に艶やかな笑いを向けた。


「じゃあな、相棒。最後までしっかり頼むぞ」


 縁は呆然として、去っていく十谷の細身の背中を見送った。


 しばらく経った後、窓の外へ目を向けると、畑で作業をしている苑に十谷が声をかけていた。

 十谷は優しく労わるような笑顔で苑に話しかけ、畑に立てる棒を支えてやっていた。


 月日が経ち、苑と縁は高校三年生になった。



★次回

神さまと育つルート

「第58話 揺籃・16(縁)~絆~」

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