第53話 揺籃・11(縁)~だから話したんだ~
その後、縁は苑は話す機会もないまま、月日が経っていた。
対照的に一颯とは、たまに話すようになった。
一颯が「長期計画」を立てている相手は誰なのか、縁が聞くと一颯は特に躊躇うことなくあっさり答えた。
「入瀬だよ」
「い、入瀬?」
余りの意外さに、縁は手に持っていたコーラのペットボトルを落としそうになる。
入瀬七海はよく言えば底抜けに明るく、悪く言えば果てしなくうるさい。縁の感覚から言えば、恋愛という言葉からは最も縁遠い存在だ。
「……どこがいいんだ?」
縁の問いの遠慮のなさを、一颯はいつも通り気に留めなかった。
風のない日の湖面のように常に穏やかな一颯の内心が、僅かに嬉しさに波立っていることを縁は敏感に感じ取る。
「俺、自分の名前が余り好きじゃないんだ。男と逃げた母親がつけた名前だからさ」
一颯の母親は一颯が物心がつく前に恋人を作り、蒸発している。
狭い地域のことなので、噂はあっと言う間に広がった。
一颯の父親はこの地で生まれ育った人間で、公私において地方の発展に力を尽くしているため、地元の人間にとっては「身内」だ。
必然的に、外からやってきた若く身寄りがない一颯の母親に非難が集中し、一颯の父親は「真面目で優しいがゆえにろくでもない女に引っかかった、気の毒な被害者」になった。
「今思えば、相手の男が好きとかじゃなくて、そういう空気から逃げたかったんだろうな。だとしても、急にいなくなられた側としてはそんな風には割りきれないけど」
大人たちは影に日向に一颯の母親の悪口を言い、置いていかれた一颯に同情を寄せた。
一颯はそういった大人たちの勝手な感情を寄せ付けないための方策として、勉学に励み、大人顔負けの物腰を身に着けてきた。
その話を聞いたとき、縁は感心し、それから一颯のことを見る目が変わった。
同じように「ろくでもない母親」を持った連帯のようなものも感じた。
「親父はもう少し読みやすい名前のほうがいいんじゃないかって言ったらしいけれど、『何かカッコいいから』って押し切られたらしい。由来も何もあったもんじゃない」
一颯は少し考えてから言った。
「入瀬に初めて会ったときに、『名前、何かカッコいいね。なんて読むの?』って聞かれたんだ。答えたら『いぶきかあ。いいね』って言われたんだよな」
信徒にだけ打ち明けられる宗教の教義を明かすような言い方で言われ、縁は続きを待った。
しかし一颯の話は、それ以上続かなかった。
「ちょっと待てよ」
縁は拍子抜けして叫ぶ。
「……それだけか?」
「それだけと言えば……それだけなんだけど」
一颯は指で眼鏡のフレームの位置を調節しながら言った。
「意味を感じてさ」
「意味?」
「入瀬は、何で俺の名前に目を止めたんだろう、とかさ」
ただの偶然に決まっているだろう、と縁は思ったが、口には出さなかった。
「入瀬がさ、俺の名前をカッコいいって言った瞬間、母親のことが許せるような気持ちになったんだよ。急に」
「お前、それ、マザコンじゃないのか?」
一颯は少し考えたあと、「そうかもしれない」と事もなげに言った。
「ユングが言うシンクロニシティって言う奴かもな」
「シンクロ……?」
「意味のある偶然の一致。俺が母親を恨むことを疲れていたタイミングで、入瀬が俺に母親と同じ言葉をかけてきた。俺の心と入瀬の言動に因果はないけれど、意味が生成された」
「……お前、何を言っているんだ」
半ば本気で、一颯の正気を疑う表情で縁は言った。
周りの人間とは違う一颯の考え方や言動にだいぶ慣れたつもりだったが、こういう話を聞くと未だに内心引いてしまう。
いわゆる中二病かとも思うが、一颯の場合は、むしろ今の時点で大人まで続く内面が形成されているように思える。
こんな「ヤバい奴」が、落ち着いた物腰の優等生として大人たちから信頼を受けているのを見ると、社会というのはやはり信用ならない。
「お前、その話は他の奴には言わないほうがいいぞ」
半ば本気で忠告する縁の言葉に、一颯は笑った。
「苑にはしたよ」
縁は一瞬にして表情を変え、一颯の顔を凝視した。
「何となくわかる、って言っていた」
何気なく言った言葉から記憶が想起される。
経験したことのない記憶が頭に甦り、感情が生まれる。
そしてその感情が何気なく言った言葉に、思いもよらない意味を与える。
経験したことのない状況から生まれた想いが、心の中に奔流のように湧きおこり感情を激しく揺さぶる。
苑、俺はここにいる。
待っているんだ、お前の側で、お前が来るのをずっと……。
一颯は、縁の青みがかった黒い瞳を見返しながら言った。
「だからお前にも話したんだ、縁」
★次回
神さまと育つルート
「第54話 揺籃・12(縁)~六星里海の登場~」




