第52話 揺籃・10(縁)~一颯~
強い興味を持って追ってくるクラスメイトたちの視線を振り切って、縁と一颯は人気のない空き教室の中に入った。
辺りには人気がなく、遠くから部活動に励む生徒たちの声が木霊のように聞こえてくる。
一颯は机の上に腰をかけて口を開いた。
「俺は苑のことは何とも思っちゃいないよ。他の奴よりは話しやすいけれど」
沈黙が二人の間を流れた後、縁が低い声で言った。
「……何で、そんなことを俺に言うんだ」
一颯は、既に証明された定理に疑問をぶつけられた数学者のような表情を浮かべた。
考えてから、ゆっくりとした口調で答えた。
「苑と話すたびに机を蹴られちゃ堪らないから、かな」
「余裕ぶりやがって」
反感をこめて、縁は口の中で呟く。
「いけ好かねえ」
一颯は僅かに肩をすくめた。
「俺はいいよ。お前みたいなタイプに好かれないのは慣れているからな。でも苑は可哀想だろ」
聞いた瞬間、強い反発の感情がわいた。
それは正確には一颯に対してではなく、唐突に心に浮かんだ母親の狂気じみた笑いだったり、苑の父親の嫌悪を圧し殺した眼差しだったり、「苑に近付くな」と言った玖住や十谷に対してだった。
他人が知った風な口をきくな。
そう言いたかったが、言いたい相手はここにはいなかった。
「お前が初めて小学校に来たときさ」
黙り込んだ縁に対して、一颯は再び言った。
「苑がお前にぴったり張りついていただろう? 子猫を守る親猫みたいに。お前を傷つける敵がどこからかやって来るんじゃないか、ってピリピリしていた。
苑がああいう風になるところ、初めて見たんだ。大抵のことは無関心にやり過ごすから。それが他の人間には、『大人しい』っていう風に見えるらしいけれど」
一颯はひとつひとつの記憶を確かめるような口調で、話を続ける。
「お前に無視されるようになって、可哀想だなって思ったよ。でも、苑は縁が楽しそうならそれでいい、って言っていてさ。まあ本人がそう言うならそれでいいのか、と思っていたけれど」
「お前から見たら、俺は馬鹿なガキに見えるんだろうな」
縁の敵意に満ちた声音に特に臆する様子もなく、一颯は肩をすくめる。
「まあな」
縁は怒りを瞳にみなぎらせて反射的に何か言おうとしたが、その前に一颯が付け加えた。
「俺だったら、もっと巧くやるよ」
「巧く?」
つい反応した縁に、一颯は淡々とした声音で言った。
「いつも傍にいて相手がどういう人間を必要とするか見極めて、必要とされる人間になる」
縁は一瞬状況を忘れ、呆気にとられた無防備な顔になった。
「就職みたいな言い方だな」
一颯は特に何も言わなかった。
反抗的な風を装いながらも、縁は好奇心を抑えきれず尋ねる。
「巧く、ってどういう風にだ?」
「俺の計画は長期なんだ」
縁の様子を気にする風もなく、一颯は問われたことを平静な口調で答えた。
「高校を卒業する頃に、告白にオーケーの返事をもらえる地点に到達できることを目標にしている」
縁は反抗的な姿勢を装うことも忘れ、驚いたような眼差しを一颯に向けた。
「その時、好きな奴に相手がいたらどうするんだよ?」
「だから、いつも傍にいるんだろう。そういう奴が出来そうになったら牽制できる。それでも出来たら、別れるのを待つよ」
「お前……」
縁は初めて見た人間のように、一颯の全身を眺めた。
自分の内心を表す言葉が見つからず、考えたあげくに最終的に口から出たのは余り適切とは言えない表現だった。
「頭おかしいな……」
頭いいのに、と小声で付け加える。
大学の合格実績のために全国から優秀な成績の子供を集めているこの学園の中で、一颯は一年のころから首位を譲ったことがなかった。
一颯は気を悪くした風もなく、縁の言葉を受け止めた。興味深そうな眼差しで縁の顔を見返す。
「寡室は普通だよな」
縁が顔を上げると、一颯は自分の中の感覚を言い表す言葉を探すように視線を逸らした。
「いや……悪い意味じゃなく。外見はすごく目立つのに……話すとびっくりするくらい普通だなって。こっちが、外見で勝手に判断しているんだろうけど」
縁はひどく驚いたように、一颯の顔を凝視した。
「お前には俺が、普通に見えるのか?」
「さっきも言ったけれど、悪い意味じゃない」
一颯はゆっくりと言葉を続ける。
「お前、さっき俺から見たら、お前が馬鹿なガキに見えるんじゃないかって言ったよな? 見えるよ。当たり前だろう? 俺たちは馬鹿なガキなんだから」
縁はジッと一颯の顔を見つめた。
自分の中にある、苑の父親や玖住を始めとする九伊の大人たちの眼差し、常に耳に響く母親の哄笑が一瞬消えたような心地がした。
唐突にこみ上げきた強い感情を振り払うように、縁は目をそらして呟いた。
「お前……やっぱり頭がおかしいな」
一颯は縁の言葉を聞くと、初めて楽しそうに唇の端を吊り上げて笑った。
「よく言われる」
★次回
神さまと育つルート
「第52話 揺籃・11(縁)~だから話したんだ~」




