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第51話 揺籃・9(縁)~嫉妬~

 1.


 青井一颯と苑の仲について周りの人間が感じていたのは、この年頃の子供たちが面白半分に弄ぶ「噂」ではなく、名前をつけるなら「公認」と呼ばれる空気だった。

 それは二人が同じ小学校に六年間一緒に通っていたという事実から生まれ、二人が話すときの様子や、二人が持つ子供たちからは異世界の物のように見える大人びた物静かな雰囲気から形成されていた。

「あの二人は自分たちとは違う」というある種の畏敬が、二人を取り囲む空気に成長していった。


「付き合っているのでは」という子供じみた露骨で明け透けな好奇心からすら、二人は遠ざけられていた。

 誰に対しても親切であるものの、自分からは滅多に人に関わらない一颯が苑にはよく話しかけ、男子とはほとんど接点を持たない苑が笑顔でそれに答えている。

 それだけで十分条件は揃っている。


 この二人ならばお似合いだ、という観察と、付き合っているのではないか、という推測と、どちらにしろいずれは付き合うのだろうという予測が不明瞭に絡み合い、何となく二人は「組み合わせ」として考えられるようになった。

 二人が三年生でも同じクラスになったことで、そこには新たに「運命」という要素が加わり、よりはっきりとした空気を作っていった。



 2.


 そんな空気の中で、縁はずっと苑の姿を見つめていた。

 苑の存在など空気と同じくらいしか思っていない風を装うことは、昔から得意だった。

 そうしながら苑が話す声に耳を澄まし、たまに視界の端に入る姿を記憶に留め、その気配を感じるために全身の神経を集中させていた。


 中学一年生の夏休み、十谷に追い払われてから、苑とは一度も話していない。

 ひと言でいいから何か話せないかと思ったが、話しかける勇気が出なかった。

 中学一年生の時も、それまで苑の様子を伺い、夏休みならばほとんどの時間を一人で過ごすことを確認してから、何度も躊躇ったあげく、ありたけの勇気をかき集めて話しかけた。

 苑が振り返り答えてくれたとき、信じられないくらい幸福感に心が満たされた。

 何かから赦され、やっと自分の居場所に戻れた気がした。


 それなのに。

 縁の視線ではない視線は、苑に向けられている。

 十谷が、一颯が、苑に話しかけるのを見るたびに、胸が焼けつくような心地がした。

 苑の周りにいる人間に自分の居場所を不当に奪われているような怒りがわき、その怒りは時に苑にまで向けられることがあった。


(私、大人になっても縁の側にいるからね。ずっと……いるから)


 耳の奥に幼い苑の言葉が、いま言われているかのように鮮やかに響く。


 お前は嘘つきだ。


 縁は体を丸めたまま、背中から響くその声に向かって言う。


 だから言ったんだ、お前だっていつか俺のことが嫌になるって。

 お前は、絶対にならないって言った。

 それなのに。

 苑は縁のことなどすっかり忘れたかのように、笑顔で一颯と話している。

 苑のために生きている自分がここにいるのに。


 自分という存在がひどく馬鹿にされ、理不尽に傷つけられたかのような感覚になる。その感覚が体内で膨張し、どこかに吐き出さなければ気が狂いそうだった。


 縁は自分の内部で煮えたぎるエネルギーを爆発させるかのように、目の前の机を蹴り倒した。

 教室の中が、一瞬でシンと静まり返る。

 縁は向かい合って話していた苑と一颯を睨んだ。


「うざい。いちゃつくなら外でやれ」


 一颯は呆気に取られたように、眼鏡の奥から縁の顔を伺った。

 教室の中の空気は、最初は「そのことに触れていいのか」というぎこちないものだった。だが縁の取り巻きたちが一瞬の沈黙の後、騒ぎ出した。

「お前ら、やっぱり付き合っていたのかよ」「ガリ勉同士、お似合いだ」「子供もやっぱり頭がいいのかねえ」という、騒ぐこと以外は何も意味がない空疎で猥雑な冷やかしが教室の中に満ちた。


 苑の顔色は、青いのを通り越して真っ白になっていた。

 血の気というものが一切なくなった仮面のような顔で、ただじっと縁の顔だけを食い入るように見つめている。

 苑の動かない大きな瞳に捉えられると、周りの風景や音、現実が全て消えていき、恍惚とした感情と甘い痺れに似た感覚に全身を支配され動けなくなった。


 その時初めて縁は、母親が繰り返し語っていたことの意味を理解した。


(私たちは、あなたを崇め讃え畏れる奴隷ですもの)

(私たちは、『神さま』を存在させるためにいるのですもの)


 自分を動かない瞳で捕らえ続ける苑の足下に、体を投げ出したい衝動に駆られる。


 苑。

 苑、俺の神さま。

 お前のことを傷つけた俺を罰して欲しい。

 お前のことを汚した罰を、俺の体に刻んで欲しい。

 俺がお前のものだ、ということが誰の目にもわかるように。


 縁は苑のほうへ近付こうと、我知らず足を一歩踏み出そうとした。

 瞬間、強烈な殴打を頬に受けて、目の前に火花が飛んだ。

 その衝撃で視界に現実が戻ってくる。

 取り巻きたちの囃し立てる声が消え、教室の中は再び、時間が止まったかのように静まり返っていた。


 目の前には、怒りを両眼にみなぎらせた十谷が立っていた。

 左の頬が強い熱を帯び、口の中に広がる血の味が他人のもののように思える。

 十谷は縁の顔を間近で睨んだまま、剣呑な響きを帯びた低い声で言った。


「彼女を侮辱するな」


 縁は、自分を叩いた十谷に視線を向けていたが、十谷のことを見てはいなかった。

 ただひたすら、その後ろにいる苑のことを見つめていた。

 苑の瞳は縁の姿だけを捕らえており、縁の視線は苑にだけ向けられていた。


 何かひと言でいい。

 苑から言葉が欲しかった。

 怒りに満ちた罵声でも、痛烈な非難でもいい。軽蔑に満ちた反論でも、何なら主人に逆らった犬のように打擲されるのでもいい。

 渇きに苦しむ砂漠の旅人が雨を求めて天に手を差し伸べるように、縁は祈るような気持ちで苑からの反応を待った。


 だが。

 苑は縁の顔から、無言で視線を剥がした。

 そうして教室の外に駆け出した。


「ノイ」


 十谷は縁に興味を失ったかのように、苑の名前を叫び後を追った。

 呆然としたように立ちすくむ縁の前に、紅葉が飛び出てきた。


「最っ低!」


 それだけ叫ぶと、若鹿のような素早い動きで苑と十谷の後を追いかけた。


 静まり返った教室の中で何か音がする。

 一颯が、机の上の教科書やノートを何事もなかったかのように整理して、カバンに入れていた。

 どこか怯えたように自分のことを見守るクラスメイトたちの前で、一颯は近くにいる女子に話しかける。苑たちのカバンを持っていったほうがいいか聞きに行ってはどうか、ということを言っているようだった。

 話しかけられた女子は、突然見えないスイッチを押されたかのように、慌てて首を何度も頷かせる。


 一颯は特に急ぐ風もなく、立ちすくんでいる縁のほうに近寄った。

 縁の周りにいた取り巻きたちは、反射のように一歩後ろへ下がり、息を詰めて二人のことを見守る。


「寡室、ちょっと」

「……何だよ」


 反抗的な響きを帯びた声で縁は呟いたが、自分に向けられる一颯の眼差しを見返すことが出来ず、すぐにまた下を向いた。

 一颯はそんな縁を、まるで興味深い新種の生物を観察する学者のような視線で眺めた。


「話がしたい」


 一颯が目顔で促すと、縁はその後ろに従うように一緒に教室から出た。



★次回

神さまと育つルート

「第51話 揺籃・10(縁)~一颯~」

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