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第49話 揺籃・7(苑)~幸運~

 1.


 縁は少し離れたしばらく黙って立っていたが、苑が縁に気付き顔を上げると、不意に言った。


「家に帰らなかったんだな」


 苑は頷いて微笑んだ。


「畑の世話があるから」


 言われて縁は、何とはなしに辺りを見回して独り言のように言った。


「こんなところに畑があるなんて知らなかった。お前が一人で面倒を見ているのか?」

「たまに友達が手伝ってくれるけれど」

「ふうん」


 話が途切れたが、縁はその場を去ろうとはしなかった。

 苑が日陰に敷いたレジャーシートの上に腰を下ろすと、何の気もなさそうに呟いた。


「何か落ち着く」


 苑のほうへ一瞬だけ視線を向けたあと、思い切ったように続けた。


「お前がいるなら、明日も来ようかな」


 苑は笑った。


「毎日いるわ」


 苑は畑の作業をする手を止め、縁のほうへ顔を向け、眩しそうに眼を細めた。


「縁と話すの久しぶりね」


 縁は視線をそらし、どこか言い訳するように呟いた。


「お前だって……話しかけてこなかったじゃないか」

「そうね」


 実際は苑が話しかけようとしても、縁がわざと気付かないふりをしたり「寄って来るな」という雰囲気を醸し出し寄せ付けなかったのだが、苑はそこには触れずに微笑んで頷いた。


「休みの間は、誰もいなくて暇だからな。手伝ってやるよ」


 縁は苑の反応を恐れるように早口でそう言い、苑が笑って礼を言うとまるで今までもらえなかった許可をやっともらったかのように、ホッとしたような表情を浮かべた。



 2.


 それから縁は、毎日のように苑が作業する畑に来るようになった。


 最初のうちは、話さなかった長い期間が意識に引っかかっていたせいか、縁の態度は苑にどう接していいかわからないかような微妙な戸惑いがあった。

 だが苑の態度が縁のそんなぎこちなさに影響されることがなく昔とほとんど変わらないものだったため、縁の態度も、いつの間にか昔屋敷で一日中一緒にいたころのものに戻っていた。

 理不尽で我が儘な自分の言動を苑が受け入れてくれることを期待し、苑がそういう自分を自然に受け入れてくれることが分かると安堵し、側を離れなくなった。


 苑は縁のために二人分の弁当を作り、畑に向かうようになった。


「お前の料理、けっこう美味い。すごく美味い、ってわけじゃないが、毎日食っても飽きなさそうな味がする」


 縁は苑と並んで腰かけて弁当を食べながら呟くように言う。

 それから慌てて付け加えた。


「別に毎日食べたいという意味じゃない。あくまで飽きなさそうだ、と思っただけだ」


 苑は嬉しそうに笑った。


「夜ごはんも作ってこようか? 夏だと傷んじゃうかしら」


 縁は苑の顔をちらりと一瞥してから、口の中で独り言のように言った。


「今度、俺が夕飯を作ってやるよ。キッチンを借りて」


 苑は驚いたように言った。


「縁、料理が出来るの?」


 縁はブスっとした声で言う。


「当たり前だろ。チビの頃からけっこう作っていた。お前よりたぶん美味いものが作れる」

「縁の料理、食べてみたい」


 苑の言葉に、縁は目元を赤く染めて呟いた。


「今度食わせてやる」



 3.


 二人が昼食を食べた後もそうして話しているところに、人影がやって来た。


「ノイ」

「十谷」


 名前を呼ばれて、苑は明るい声で答えて立ち上がる。


 対照的に、縁の雰囲気は一転して警戒するような余所余所しいものになった。


「十谷、あのね」

「知っている」


 十谷と縁に代わる代わる視線を向けながら口を開こうとした苑を、十谷は制した。


寡室かむろ縁だろう。有名人だからな」


 明らかに棘を含んだ口調で、十谷は言った。

 縁の視線が一瞬にして険しくなり、十谷の中性的な容貌を睨んだ。


「お前こそ大した有名人だよな? 男女」

「え、縁! そんな言い方……」


 咎めるように声を上げた苑のことを、十谷は再び制した。


「こんなところで何をやっているんだ? 今までさんざんノイのことを邪険に扱っておいて、自分の都合のいい時だけ甘えに来る。ノイの優しさにつけこんで、恥ずかしくないのか?」

「何……だと?」


 縁は立ち上がった。顔からは血の気が引き、怒りで蒼白だった。

 十谷は縁の強烈な怒りにさらされても、落ち着きを払ったままだった。


「図星だろ? ノイは家のことで君に引け目があるから、強くは出られないんだろう。ノイの周りの人間から見るとね、君の態度はひどく不愉快だよ。いくら君が『可哀想な子供』でもね」


 十谷はひどく皮肉な眼差しで、縁の少女めいた繊細な顔を眺めた。


「『君』は幸運なのにね。『神さま』を遠くから仰ぐのではなく、こうして隣りにいて話すことが出来る。『神さま』を憎んでいる、と自分を偽る必要もない。でも、結局は同じだ。『神さま』と一緒の揺りかごに入れられる幸運を授かったって、君はそれをガラクタみたいに投げ捨てるんだから」


 十谷がそう言った瞬間、縁は目の前の現実が揺れるような感覚に襲われた。

 経験したことのないはずの記憶が、まるで本当にあったことかのように頭の中に甦る。


 そうだ、『いつも』はもっと遠くからしか視ることが出来ない。

 そうしていつも願っている。

 一度でいい。

 苑が俺に気付いてくれたら。

 振り返って、笑ってくれたら。

 声をかけてくれたら。


 苑、俺はここにいる。

 待っているんだ。お前の側で、お前が来るのをずっと……。


「縁!」


 苑の声が響き、縁は我に返った。

 苑が縁の肩に手をかけ、心配そうに顔を覗きこんでいる。

 頬に液体の感触を感じて、縁は反射的に手をやる。

 いつの間にか、両方の瞳から涙が溢れていた。

 縁は乱暴な仕草で涙をぬぐいながら、強い眼差しで十谷の細い体を貫いた。


「お前、俺に何をした……」


 十谷は首を振る。


「何も」

「今の妙な記憶は、お前が見せたのか?」


 怒りに満ちた縁の言葉に、十谷は静かな声で答えた。


「違う。僕にはそんなことは出来ない。それは君の中に、元々在るものだ」

「ふざけるな」


 縁は怒鳴った。

 突然涙を流したことによる羞恥に胸が焼きつくような心地がして、気遣うように差し出された苑の手を乱暴に払った。


「そんなにこいつと俺が一緒にいることが気に食わないなら、消えてやるよ。女同士で仲良くつるんでいろ」

「……縁!」


 捨て台詞を吐いて背中を向けた縁を、苑は慌てて追おうとした。

 苑の肩を十谷が掴んで引き止める。


「ノイ、彼を余り甘やかさないほうがいい」

「甘やかす、って……そんな」


 苑は一瞬言葉に詰まったが、すぐに強い口調で言った。


「甘やかしているんでもいいわ。他のみんなが縁に冷たいんだもの。私だけは、縁がそのままの縁でいられる居場所になりたいの」


 十谷は苑の顔を見つめていたが、やがて微かに首を振った。


「『彼』は、君と同じ揺りかごに入る幸運を授かった。でもノイがそういう態度でいると、『彼』はいつまでもそれが『今の自分』に与えられたかけがえのない好機だ、と気付くことが出来ない。僕はそのほうがいいけれど」

「……どういうこと?」


 不安そうな表情になった苑に、十谷は笑いかけた。


「彼のことは、彼に任せたほうがいい、ということだ。僕も彼のことは気の毒だとは思うけれど、その気の毒さも彼が引き受けなければならない。ノイが引き受け続けることは出来ないんだ」


 苑は俯いた。


 十谷の言うことはわかる。

 時々、自分は「縁のため」と言いながら、離れて行こうとする縁の手を放したくないだけではないか、と思う時がある。

 しばらく黙ってから、苑は十谷のほうへ訝しげな視線を向けた。


「十谷、縁のことを知っているの?」


 十谷と縁が話しているところを見たことがない。実際、先ほどの会話の二人の会話から推測しても、二人は初対面としか思えない。

 それにも関わらず、十谷が縁を語る口ぶりは、まるで苑以上に縁のことを知っているかのようだった。


 十谷は透き通るような眼差しで苑の視線を受け止めながら言った。


「話したのは初めてだ」


「でも」と十谷は続ける。


「話さなくとも、彼のことはよくわかる。自分のことみたいに」


 十谷はそれだけ話すと、片づけを始めるよう苑を促した。



★次回

神さまと育つルート

「第50話 揺籃・8(縁)~応えて欲しい~」

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