第46話 揺籃・4(苑)~キス~
1.
その日から、苑と縁はほぼ毎日、毎時間一緒に過ごした。
縁は九月から、苑が通う小学校に一緒に通うことになったため、どこまで勉強が進んでいるか教えた。
縁がそれまで学校に通っていなかったことが幼い苑には不思議だったが、玖住から「家庭の事情でそういうこともあるから、みだりに外で話したりしないように」と厳しく口止めされた。
縁本人は自分がこれまで学校に通っていなかったことをひどく気にしており、そういった場合によくあるように、反動で自分が経験しなかった一般的な日常生活全般を馬鹿にしがちだった。
学校の生活や規則、様子について説明すると、賢しらぶった態度でその欠陥や矛盾をつき、苑がそのことについて答えられないと満足そうな顔をして、それがいかに馬鹿げたことかを力説した。
縁は公の教育は受けていなかったが、分野によっては苑よりも……というよりは、並みの大人よりも遥かに知識があった。
そういったことも縁の高慢な態度を助長させていた。
段々に縁の性格を呑み込んできていた苑は余計なことは言わないようにしていたが、内心では周りの人間と、特に教師とうまくやっていけるのかハラハラしていた。
縁は周りの人間に、敵意と不信に満ちた反抗的な態度を取ることが多かったが、特に大人に対してはその態度が顕著だった。
苑の父親も玖住も、内心では自分を嫌っているくせにそうではないフリをする欺瞞を、辛辣に突いた。
苑もその点については薄々気付いており、縁がそれを敏感に感じ取り傷ついていることもわかっていたため、止めることも出来ず黙って聞いていた。
縁は一通り鬱憤を吐き出すと、それを父親や玖住を慕う苑に聞かせるのは情けない行為だとさすがにわかっているためか、あやふやな口調で後悔めいた言葉を口にし、その後は少しだけ苑を労わるような態度を見せた。
2.
縁は、苑が今まで出会ったどんな人間よりも横暴で気難しかった。
気まぐれで強情で意地が悪く、ちょっとしたことですぐに機嫌を損ねた。
何かあると口癖のように、「もうお前とは遊ばない」「寄って来るな」と言った。
そう言いながら言われた苑と同じくらい傷ついた顔をし、しばらくジッと苑の反応を伺っている。
その表情はひどく不安そうで、苑が謝ったり、そんなことを言わないで欲しいと頼むと、あからさまに安堵していることが伝わってきた。
そんな自分に腹を立てて、さらに不機嫌な顔になった。
それでも縁の側にいたい、と思ったのは、縁のそういった言動が生来の性格から来るものではなく、大部分は本人にどうにもならない環境によるものだ、と幼心に感じ取っていたからだ。
自分には父親も玖住も学校の友達もいる。
生まれたときからたくさんの使用人に囲まれ、誰も彼もが親切にしてくれ、何不自由なく育ってきた。
だが縁はそうではない。
母親は心を狂わせて縁のことを気儘に扱い、縁の成長や気持ちに何の関心も払わなかった。
その母親とずっと二人きりで過ごし、その後に引き取られた相手である苑の父親も、内心では縁のことを疎んじている。
縁はずっと独りぼっちだ。
だから自分がずっと側にいよう。
縁と出会ったときに生まれたその思いは、苑の心のずっと中心に在り続けた。
3.
夏休みの間、昼間は縁と敷地内で遊び一緒にご飯を食べ、夜は遅くまで色々な話をし、大抵はどちらかの部屋で一緒に眠った。
ずっと一緒にいてもお互いを疎ましく思うことも、飽きることもなく、むしろ過ごす時間が長くなればなるほど離れがたく必要な存在だと思えた。
お互いがお互いの一部ではないかと思うほどだった。
いつも通り、同じ布団に潜り込んで寝ようとしていた時、縁がふと何でもなさそうな口調で言った。
「……お前、キスってしたことあるか?」
「……え?」
縁の言葉に、苑は顔を微かに赤らめた。
もちろん、ない。
クラスメイトたちと回し読みしている漫画など、話の中で読んだことがあるだけだ。
友達の中には「したことがある」という子もいたが、興味津々で耳を傾けても、「大したことなかった」というひどく漠然とした経験談しか返ってこなかった。
そういう話を目にし、耳にするたびに、一体それがどういうものなのか、ということを苑は想像していた。
「ふうん」
縁は努めて、何でもなさそうな顔を保ったまま、苑の顔をジッと見つめた。
元々至近距離にあった二人の顔はひどく自然な感じで近づき、そのまま重なりすぐに離れた。
苑はしばらく黙ったあと、表情を見られないように横を向いている縁の顔を見つめた。
「今のが……そうなの?」
縁は横を向いたまま、少し怒ったような声で答えた。
「何だ、不満なのか?」
「よくわかんなかった」
苑が言うと、縁はゆっくり苑のほうを向いた。頬が微かに赤く染まり、可憐な少女のように見えた。
縁は苑の顔をジッと見つめると、苑の頤に指をあて、少し上向かせる。
ひどく手慣れた、大人びた仕草だった。
「目、つぶれよ」
言われて苑は目を強くつぶる。
縁の顔が近づいてくる気配が、全身の神経をピンと張りつめさせた。
唇に柔らかい感触を感じた瞬間、電流が走ったかのように体が細かく震えた。
縁の存在を感じ、春の陽射しを浴びたかのような温かい幸福感で包まれた。
叶うならば一生こうしていたい。
そう思った瞬間、微かに開かれた唇をこじ開けられ、柔らかいものが口腔内に侵入してきた。
それは苑の口の中を這いずり回り、舌にからまり、初めは軽く、次いで強く引かれる。
息が苦しくなり、苑は目を見開いた。
目の前に縁の滑らかで光沢を放つ黒髪が見える。
息を吸うために口を開けた瞬間、もっと深く口づけされ、舌を唇で吸われた。
その瞬間、先ほどの幸福感とはまったく別の熱くドロドロした塊が体の奥底に生まれ、はじけ飛びそうになった。
縁の体が密着している部分の感触がいやにはっきりと意識され、その感触に体や心の全てが支配されそうになる。
我知らず自分の口から洩れた声が大人のもののように聞こえ、熱くなっていく体とは対照的に、苑の心は恐怖し怯えていた。
まるで体の中にある自分の知らない何かを掴まれ、無理やり引きずり出されるかのようだった。
「えに……縁……っ」
布団の中で苑が縁の体を手を伸ばすようにして押しやると、縁は逆らうことなく苑から離れた。
「な、なに……? 今の」
苑は口元に手を当て、怯えたように呟いた。
まだ心臓が鳴り続け、胸に熱がこもり苦しく爆発しそうだった。
縁はどこか慌てたように、しかしそれを意地でも認めまいとするかのような怒ったような声音で言った。
「お前が……よくわからない、とか言うからだろう」
苑が黙っていると、縁はさらに言った。
「大人は……こういう風にキスするんだ」
苑はようやく布団から顔を出し、おそるおそる縁に尋ねた。
「縁……何で、知っているの?」
聞いた瞬間に、苑は後悔した。
縁の顔からスッと血の気が引き、青みがかった深い色の瞳が凍り付いたように動かなくなったからだ。
縁は顔を見られないように、布団の中で苑に背中を向けた。
背中を向ける直前、その瞳に何か光るものが浮かんでいるのが見えた。
身を守るかのように丸まり微かに震えている縁の背中をしばらく見守った後、苑はそっと体をつけた。
「縁……、私、大人になっても縁の側にいるからね」
苑は目を閉じて、縁の心臓の鼓動に耳を澄ませる。
「ずっと……いるから」
縁はしばらく黙っていたが、やがて僅かに震える声で言った。
「お前だって……俺のことを知れば、俺のことを嫌になる。お前の父親や玖住みたいに」
苑は縁の体を背後から抱きしめた。自分の体の温かみで縁を守るかのように。
「ならないよ」
苑は縁の小さな体に回した腕に力を込める。
「絶対にならない」
狭い布団の中が世界の全てであるかのように、二人は寄り添い続けた。
★次回
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「第47話 揺籃・5(苑)~ずっと一緒~」




