第45話 揺籃・3(苑)~親分と子分~
1.
縁に出会ったとき、生まれて初めて心の全てを奪われた。
背中の半ばまで届く長く黒い髪は、刷毛で丁寧に塗られたかのように柔らかく滑らかで、光沢を帯びていた。
時折朱に染まる肌は抜けるように白く、見ていると透けていくようだ。
長い睫毛に覆われた濡れたように艶やかな大きな瞳は、光の加減で青みを帯び、密やかな深い海の底の世界を思わせる。
まるでおとぎ話に出てくる、老練な職人が精魂込めて作り魂を吹き込んだ人形のようだった。
余りに見つめすぎたせいだろうか。
縁は秀麗な容貌に不快そうな表情を浮かべ、僅かに視線を逸らした。
そのままこちらに、微かな視線さえ向けてくれなくなった。
苑は隣りに立つ玖住の服を強く握り、陰に隠れた。
服を握っていると、いつもと同じような厳しく感情が現れない姿を奥で、玖住がひどく動揺していることが伝わってきた。
玖住は厳しい視線を新しくやってきた子供に、次いで苑の父親に向けたが、すぐに視線をそらした。
「苑」
玖住の無言の非難を含んだ眼差しを無視して、仄は苑に声をかけた。
「この子は縁だ」
苑は玖住の陰から顔をのぞかせ、そっぽを向いている美しい少女の姿をした少年に視線を向けた。
苑が玖住の陰から出てこないことを見てとると、仄は脇を向いている縁に声をかける。
「縁、私の娘の苑だ。今日から兄弟だと思って仲良くして欲しい」
縁は青みがかった黒の瞳をちらりと苑のほうに向けた。
苑にはひどく意地悪そうな視線に見えた。
いつまでたっても子供二人が馴染まないのを見て取って、仄は言った。
「苑、朝、言っていたじゃないか? 縁を部屋に連れて行って、屋敷を案内してあげなさい」
「旦那さま、案内ならば私が……」
玖住が言うよりも早く、苑は思いきったように玖住の陰から飛び出した。
「い、行こう。お部屋、私の部屋の隣りだから」
縁は品定めするかのように苑の顔をじろじろと眺めたあと、何も言わずに扉に向かって歩き出した。
呆気に取られている苑に、扉の前まで来ると振り返って「ついて来い」と合図をする。
そのまま部屋の外に出た縁を、苑は慌てて追いかけた。
2.
苑の存在など頓着せずに廊下を奥に向かって歩く縁を、苑は慌てて追いかける。
「部屋……、どこかわかっているの?」
「わかるわけないだろう。とっとと案内しろ」
美しい少女のような容貌からは想像もつかない乱暴な口調でそう言われて、苑はびっくりしたように体を固まらせた。
縁はそんな苑の姿を上から下まで眺めて、不満そうに眉をしかめる。
「こいつが『神さま』か」
大したことないな、と付け加える。
「な、なに?」
苑の不安そうな問いかけに、縁は唇を歪めて笑った。
「あの女からずっとお前について聞かされていたから、どんな奴かと思っていた。お前みたいなチビのガキでがっかりした、って言ったんだ」
「あの女、って?」
縁の口のきき方に眩暈を起こしそうになりながら、苑は何とか尋ねる。
縁は素っ気なく吐き捨てた。
「母親」
「母親……」
他人行儀な呼び方もさることながら、その言葉に含まれる強烈な毒は苑には考えられないものだった。
「縁のお母さんが、私のことを話したの?」
「お前のこと『しか』話さなかったよ」
縁は馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「頭がおかしかったんだ、あの女」
苑は口をつぐんだ。
縁が母親や自分のことを語る嘲笑ではなく、その底にある何かが苑の胸を詰まらせた。
「縁、部屋、こっち」
苑は縁の気持ちを引き立てるように、手を取って廊下の先へ向かって歩き出した。
手を取られた瞬間、縁は僅かに体を緊張させ目元を赤らめたが、逆らおうとはしなかった。
3.
縁の部屋は、屋敷の本館の二階の奥にある苑の部屋の隣りだった。
「何かあったら何でも言ってね」
苑は縁の部屋と、自分の部屋を見せながら言った。
それから思い切って言葉を続ける。
「私、一人っ子だから、ずっと兄弟がいたらなあって思っていたの。だからお父さんが言ったみたいに、縁が私のことをお姉さんだと思ってくれたら嬉しい」
「『お姉さん』?」
縁は眉を吊り上げた。
「何でお前みたいなチビが、姉なんだ?」
「え……」
縁が十月生まれだと聞いたので、六月生まれの自分のほうが姉だと思っただけなのだ。それに背丈も同じくらいだ。
口に出して言わなくとも、そういう内心が表情に出たのだろう。
縁は苛立だしそうに苑の顔を睨んでいたが、不意に傲慢な口調で言った。
「お前は今日から、俺の子分にしてやる」
「こ、子分……?」
「ありがたく思え」
口に出してみて「子分」という響きが気に入ったのか、縁はにわかに満足そうな顔になった。
「俺がお前の親分だからな。ちゃんと言うことを聞け」
「お、親分……」
苑の不本意そうな呟きなど耳に入れる様子もなく、縁は胸を張って横柄な眼差しを苑に向けた。
「おい、子分。さっさと屋敷の中を案内しろ」
「子分」と言われて一瞬がっかりしたが、縁の楽しそうな様子を見ると仲良くなれそうな気がしてきた。
縁が笑うと不思議と苑も楽しい気持ちになった。
笑顔になった苑の姿に、縁は一瞬視線を走らせた。
それから思い切った様子で、今度は自分から苑の手を取る。
「早く屋敷の中を案内しろ。お前、鈍臭そうだからな。こんな調子じゃあ夜になる」
強い力で引っ張られて、苑は慌てて駆け出した。
★次回
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「第46話 揺籃・4(苑)~キス~」




