第41話 神室・12(苑)~何も知らなかった~
「君は薄々気付いていたはずだ。縁と会ったときから、彼がどんな境遇に置かれているか。どんなことを強いられているか。それに……わかっていたはずだ。君が縁の側にいる限りは、『客』は縁に手を出すことは出来ないと。夏の間、僕も……君以外の誰も、縁に会うことは出来なかった」
(本家のかたの『穢れ払い』は、他の何事よりも優先されます)
「君は知っていた! 君が縁を、あの地獄から、禍室から救うことが出来ることを。でも、君は自分の生活を選んだんだよね? 縁をあの暗い牢獄に置き去りにしてさあ? 楽しくて将来につながる学校生活を選んだんだよね? 君が目の前にあるものすら気付かないフリをするから、縁があんなことをしたんじゃないか!」
目を見開いたまま、凍り付いたように動かない苑の前で、里海は急に力が抜けたように肩を落とした。
「苑さんが学校に戻ったあと……、僕は縁に会った。縁は言うんだよ、『苑が悲しむから、禍室の務めは勘弁して欲しい』って。僕に頭を下げてさ……」
里海は瞳から流れ落ちそうになる何かを誤魔化すように、顔を伏せる。
「縁はさ、僕に対してはいっつも横柄で暴君みたいなんだよ。縁にとっては、僕は『客』の一人に過ぎないしね。僕に頼み事どころか、愛想のいい顔ひとつしたことがない。その縁がさ……。僕がじゃあいいよ、って言うと『済まない、里海』って。……済まないって」
里海は自分の中に沸いた感情を振り払うと、苑のほうを向いた。
「でもさあ結局、僕がそうしても他の『客』はそうじゃない。縁だって、他の奴らには頼まないだろう。僕はなるべく、縁のところにいるようにしたよ。でも僕は、九伊の名前を持たない分家の人間だからね。優先順位が低いんだ」
里海は今にも倒れそうなほど血の気のない顔をして固まっている苑の顔を、強い眼差しで睨みつけた。
「悔しかったよ。僕が君だったら……、ずっと縁の側にいた。誰にも指一本触れさせなかった! 絶対に!」
里海は震える唇を、手の甲で抑えつけた。
「僕が君だったら……」
「これからは……いるわ」
苑は油が切れたよう機械を無理矢理動かすかのように、口を開いた。
「これからは縁の側にいるわ、ずっと……」
里海は、皮肉な笑いを浮かべた。
「苑さん、何を言っているの? 今さら。まだ縁を救う資格が、自分にあるとでも思っているの?」
里海は投げやりな嘲笑を、苑に投げつけた。
「君はもし、今日、縁がこういう行動に出なかったら、どうするつもりだったの? 冬休みを縁と一緒に過ごしてまた置き去りにして、春にまた来て置き去りにして、そうやってずうっーと気付かないふりをして、最後はこの家を出たんじゃないの? 縁に、また戻ってくる、とか調子のいいことを言って。初恋の綺麗な思い出にしたんじゃないの?」
里海は笑った。
「そういうのを、縁はぜんぶ見透かしているんだよ。自分が抱えているものに君が耐えきれないなんて、お見通しなんだよ。そりゃそうだよね、ちょっと聞いただけで、こんな鍋をひっくり返したみたいな大騒ぎをするんだもの。僕が知っていることを全部話したら、いますぐ逃げ出すんじゃないかな」
クスクスとおかしげに笑う里海の目の奥には、強い苦痛が音もなく瞬いていた。
随分長い間笑ったあと、里海は言った。
「苑さん……僕との婚約を続けて欲しい。そしてこの屋敷から出て行ってくれ」
里海は静かな口調で言葉を続けた。
「君がここにいる限り、縁は決してこの屋敷には来ない。例えどんな場所だろうと、あそこから動かない」
「……何で?」
苑はかさついた唇から、乾いた呟きを落とした。
「何で私がいると……縁は、屋敷に来てくれないの……?」
里海は半ば苛立ったように、半ば小馬鹿にしたように、動かない苑の姿を眺めた。
「わからないの? わからないか? 君は『神さま』だものね。下々の気持ちなんて、分からないんだろうね」
苑は顔を上げた。
頭に付けられた花の形の髪飾りが、微かな音を立てた。
「『神さま』なんかじゃないわ! 私は『神さま』なんかじゃない! 何も知らなかった! 縁のことを何も……」
苑は涙を瞳から溢れさせた。
「縁は私のこと……ずっと見守ってくれていたのに……!」
苑の言葉に、里海は気のなさそうな返事をした。
「ああ、あの、君が生活しているところが見えるとかいう奴? あれは僕から聞いた君の話をつなぎ会わせて、何となくそんな気になっているだけだと思うよ。で、その縁の話を聞いて、君もそんな気になっているだけだろう? よくあるじゃないか、そういう妄想」
「違うわ……」
苑は呟いた。
「妄想じゃない……」
苑は、顔を赤くしてそっぽを向きながら、懸命に自分の想いを伝えようとする縁の姿を思い浮かべた。
(お前が言うから、来てやったんだぞ、苑。俺は、こう見えてけっこう忙しいんだがな)
(俺も……お前のこと、けっこう好き……だ。……そこまでじゃないけれど、まあまあそれなりには好きだ……)
(……俺とお前は、付き合っている、ってことだな)
(そ、そうか……お前は俺の、かの……彼女だったんだな)
一生懸命嬉しさを隠そうとしながら隠しきれない、喜びに輝いた顔。
その笑顔も声も、心に鮮明に焼きついている。
里海は悪意を含んだ笑いで、口の端を歪めた。
「縁が前から、君のことを見守っていたなんて、いくら何でも都合が良すぎない? 縁は苑さんのことを、ずっと嫌って恨んでいたし、客観的に見てもそれが自然だと思うよ。君のことを、自分と同じ目に合わせてやりたい、ってよく言っていたな。そうしたら君はどんな顔をするか、って想像するのが堪らなく面白い、って言っていたよ」
里海は薄く笑って、苑のことを見た。
「苑さんの美しい妄想に冷や水をかけるみたいで、悪いけど」
苑は顔を伏せ、瞳を閉じた。
不機嫌そうな顔、怒った顔、拗ねた顔、縁の色々な姿が浮かぶ。
(お前……お前は、俺のこと、す、好き、なのか……?)
(す、好きなのか?! 苑?!)
(俺がお前のことを嫌って恨んでいるのに……ああいうことをした、と思っているのか)
そう聞いたときの縁は、ひどく寂しそうだった。
苑が黙り込むと、里海はため息をついた。
「僕は君が好きじゃない。君だって僕のことを大して好いちゃいないだろうけれど、そんなことは関係ない。僕は一秒でも早く、縁をあそこから救いたい。僕と君が協力すれば、縁をあそこから救い出せる」
里海の顔からは先ほどまでの激情が消え去り、ただ疲労と焦燥だけが色濃く出ていた。
「とりあえず、今日はもう遅いから休んで、お互い頭を冷やそう。部屋は使用人頭の……玖住か……が用意してくれているはずだから。本家に帰るのは、明日にしたほうがいいよ」
疲れたような声でそう言うと、里海は部屋から出て行った。
★次回
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「第42話 神室・13(苑)~初めての彼氏~」




