第39話 神室・10(苑)~奴隷の証~
1.
二学期の最初のうち、縁は頻繁に苑と紅葉の前に姿を現した。
「苑と付き合っている」という確約を得たからか、もしくは姿が幼くなっていることから行動も多少幼くなっても構わないと思っているのか、縁は夏の間の態度が信じられないくらい、苑に常にまとわりつき、我が儘に振る舞い全力で甘えた。
見かねた紅葉が口を挟んでも、勝ち誇ったように「俺は苑の彼氏だからな」と言われるだけだった。
だから何だ。
そう言い返したいのは山々だったが、当の苑が、縁のそうした傍若無人な態度を、むしろ嬉しそうに受け入れるので、紅葉としては歯噛みをして見守るより他になかった。
「苑さま、たまにはビシッと言わないと、あの調子だと際限なく甘えてきますよ」
「フフっ、縁のことを怒っているときの紅葉、楽しそう」
苑は縁に甘えられるときだけではなく、そういう縁のことを紅葉が怒るときも嬉しそうに笑う。
苑を挟んで縁と紅葉が小競り合いをするのは、日常茶飯事になっていた。
2.
秋の気配が深まる頃、段々と縁が姿を見せる回数は減っていき、現れたとしてもすぐに姿を消すことが多くなった。
十二月が近付く頃には、完全に姿を見せなくなった。
「もうっ、ほんと気まぐれですよね」
縁が一日中苑にまとわりついていた時は、縁の苑に対する横柄で我が儘な態度に呆れ怒っていた紅葉だが、今は姿を見せなくなったことに腹を立てていた。
来れないなら来れないとひと言言ってくれないとこっちにも色々都合があるのに、とぶつぶつと口の中で文句を連ねる。
苑が内心、ひどく心配していることが分かるだけに、余計に縁の気儘な行動に腹が立つ。
「苑さま、クリスマスはどうするんですか? 縁さまと過ごすなら、いつもの会は少し早めにやりましょうよ」
中等部の頃からクリスマスは、七海や四央、十谷を苑と紅葉の部屋に呼んでパーティーを開いているのだ。
気がかりそうな顔をしていた苑は、紅葉に声をかけられると笑みを返した。
「そうね。終業式の日にすぐに帰りたいから、クリスマスは早めてくれると嬉しいな」
次に縁が姿を現したのは、苑が家に帰ろうと思っていた終業式の前日だった。
姿を見せなくなってからひと月以上経っていたが、苑がそれとなく理由を尋ねても、曖昧な返事しか返ってこなかった。
縁はいつものように苑に絡みついてこようとせず、苑の手に綺麗に包装された包みを押しつける。
「クリスマスプレゼントだ。下らない行事だと思うけど、付き合っているから一応、な」
苑が包みを開くと、中には綺麗に包装された髪留めが入っていた。
縁は横を向いたまま、ぶっきらぼうに呟く。
「お前、そういうのが好きかなと思って」
繊細な花の形の飾りがついた髪留めを髪を束ねてつけると、苑は反応を伺うように恥ずかし気な視線を縁のほうに向けた。
縁は青みがかった黒の瞳で、ジッとその姿を見ていたが、すぐに目をそらして言った。
「まあまあ似合うな」
苑は顔を嬉しさで桜色に染めて、笑顔になる。
「ありがとう、縁」
相変わらず脇を向いたままの縁の顔を覗きこみ、尋ねた。
「明日、縁の家に行っていい? 寮の掃除もあるから、着くのは夜になると思うの」
姿を現したときから縁の顔色が余り優れず、妙にひっそりとした雰囲気なことが気になった。
先ほどから、苑の顔を見ようとしない。
「縁……」
苑が手を取ると、縁はさりげない仕草でその手を離して言った。
それから呟くような声で言った。
「苑、着いたら世話係が玄関で待っているから……指示に従ってくれないか?」
「え……?」
苑は戸惑って縁の顔を見たが、背けられた縁の顔からは何も読みとれなかった。
「頼む」
そう言われて、苑は仕方なく頷いた。
3.
次の日の夜。
本家に着いた苑は屋敷には入らず、その足で敷地の奥にある縁が住む家に向かった。
髪には、縁がくれた花の形をした髪飾りをつけている。
吐く息は白くなり夜風は冷たかったが、空気が透明に澄んでいて、空に広がる星空が美しかった。
冬の大三角をすぐに見つけることが出来る。
縁が見つけ方を教えてくれたのだ。
早く一緒にこの星空を見たい。
月と星の灯りに照らされた道を歩きながらそう思う。
縁の家に着くと、玄関で黒いスーツを着た男が待っていた。
初めてここに来たときは、初老の女性が案内係だった。
男は、僅かに身を強張らせた苑の前で丁寧に一礼すると、中に入り入浴して身を浄め、単衣を纏って禍室に入室するように伝える。
男の口調は淡々としており、まるで機械が話しているかのようだった。極端に灯りを絞った薄暗がりの中のせいか、男の顔も表情もわからない。
苑は促されるまま、最初に訪れた時と同じ手順で身を浄め、単衣に着替えた。
最初は必ずこうしなければならないのだろうか?
それさえ分からず、何もかもが想像の中の縁との再会とは異なっていて不安が黒いモヤのように心に広がる。
単衣に着替えると、苑は緊張した面持ちで室内に入った。
暗い部屋の中に、縁が着飾った人形のような姿で座っている。
豪奢な着物を纏い、髪を結い上げ、化粧を施したその姿は、息を飲むほど美しい。
縁のことを見慣れているはずの苑でさえ、一瞬言葉を失ってしまう。
縁はまるで見知らぬ誰かを出迎えるかのように、無表情のまま、丁寧なかしこまった口調で「禍室」としての口上を述べる。
見えない硝子に隔てられているかのように、目の前にいる縁が遠く感じた。
「縁……」
その硝子を破り、縁に触れたくて、苑は口上を返すとすぐに縁に手を伸ばそうとした。
縁は伸ばされた苑の手を避けるように、立ち上がり背を向けた。
呆気に取られている苑の目の前で、縁は無言で着物の帯を解き、体から着物を滑りおとす。
薄暗い闇の中に灯されたか細い灯りの中、細く白い背中が浮かび上がる。
その瞬間。
苑は大きく瞳を見開き、口元を手で覆った。
顔から血の気が引き、指先が小刻みに震え出すのがわかる。
背中には、恐らく縄で戒められた跡だろう、赤い筋が何重にも走っていた。
赤く擦れ腫れ上がった傷跡は、白い背中に刻まれた刻印のように見える。
重罪を犯した罪人か、市場に引かれて行く奴隷の証のように。
声もなくその跡を凝視する苑の顔を、縁は振り返り見つめた。
青みがかったその瞳は、どこまでも続く深海のように底が見えなかった。
「苑……」
縁は着物を無造作に肩にかけると、苑を見つめて言った。
「帰ってくれないか。この後、別の『客』が来る」
「……え?」
苑は何を言われたかわからなかったかのように、縁の感情の映らない美しい顔を見つめる。
その言葉が頭の中に入り込むと、愕然として瞳を凍りつかせた。
「な……何で?」
縁は苑の視線から逃れるように、顔を背けた。
暗がりの中に顔が隠れ、表情がよくわからなくなる。
いや、目の前にいるのが本当に自分が知っている縁かどうかなのかもわからなくなる。
「客って……客って何……?」
澱んだ闇の中に沈黙が流れたあと、苑は固くひび割れた言葉を投げた。
「それは……その人にされたの……?」
苑は唇を強く噛み締めた。
今までの人生で感じたことがない強烈な感情が身体を覆いつくし、脳を沸騰させ眩暈のような感覚を引き起こした。
それは体を内部から食い破るような、激烈な怒りだった。
自分の内部のどこにこれほど強い感情が眠っていたのかと思うほどの強烈な憤怒が、全身を支配する。
苑は怒りという獣に全身を支配され、目をギラつかせて強い口調で言った。
「私もその人に会うわ」
縁はギョッとしたように振り向いた。
先ほどまで感情のなかった瞳に、何かが浮かび上がっていた。
「あなたを傷つける人は許せない」
苑の口調は静かだが、その底には青白い炎のような怒りが揺れていた。
「……やめてくれ」
縁の唇から震える声が漏れた。
「頼む……帰ってくれ、苑」
顔を背けた縁の体に、苑はすがりついて言った。
「縁、嫌なんでしょう? その人に無理やりひどいことをされて……。そうなんでしょう?」
「曳馬!」
縁は苑の体を押しのけるようにして、扉の奥に向かって叫んだ。
失礼します、という静かな男の声が響き、扉が開けられた。
扉の向こうでは、先ほどの案内係の男が、微動だにせずに頭を深く下げた姿勢を保っている。
「『客』が帰る。お送りしろ」
曳馬と呼ばれた男は、頭を下げた姿勢のまま言った。
「本家のかたの『穢れ払い』は、他の何事よりも優先されます」
「送ってくれ!」
曳馬の機械のような冷徹な言葉を、縁は血を吐くような痛切な叫びで遮った。
その悲鳴のような叫びを、苑は呆然とした表情で聞いていた。
「苑、本家の跡取りであるお前がここに来たいと望めば、俺は断れない。……でも、来ないで欲しい」
「縁……」
「もう、ここには来ないでくれ。頼む、苑」
「いや……」
苑は涙の溜まった瞳に縁を映したまま、首を振る。
「嫌、嫌よ。縁……! ずっと側にいるっていったじゃない!」
苑は自分のほうを見ようとしない、縁の横顔に向かって叫んだ。
「私は縁の彼女だ、って言ったじゃない! 付き合っているんだ、って言ったじゃない! 縁……、何で? 何でなの?!」
「苑さん」
その時、曳馬とは別の聞き慣れた男の声が背後から聞こえた。
男は後ろから抱えるようにして、苑の体を縁から引きはがそうとした。
「苑さん、とにかく外に出よう。縁が困っている」
「いやああああ!! 触らないで!! 触らないでよお!!」
内部の激情が爆発したように、苑は男の中で狂ったようにもがいた。
「縁! 縁っ! ……一緒にいて!! お願い!」
泣き叫ぶ苑を、新しく現れた男……里海と曳馬が強引に外へ連れ出した。
縁は最後まで苑のほうを見ようとはせず、苑が伸ばした手の先で、薄暗い禍室の扉は閉ざされた。
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