第38話 神室・9(縁)~いつも見ていた~
1.
夕方。
さすがにそろそろいいだろうと思い、紅葉は図書館から外に出た。
うだるような昼間の暑さが嘘のように、夕焼けに染まった外は、涼しく心地いい風が吹いていた。
ふと顔を上げると、目の前に縁が立っていた。
2.
人気のない図書館の裏手までやって来ると、縁はちらりと紅葉に視線を送った。
「悪かったな、お前のことを追い出したみたいになって」
紅葉は肩をすくめて呟いた。
「別にいいですよ。元々午後は勉強しようと思っていましたから」
縁は少し黙ってから言った。
「お前、俺のこと、気持ち悪い変な奴だ、と思っているだろう」
紅葉は顔を上げた。
縁の口調は、ただ事実を述べるような淡々としたものだった。夕陽が当たるその横顔は、まるで向こう側が透けてしまうかのように、ひどく透明で儚げに見えた。
「俺はあの家から出たこともないしな。苑のことを無理に呼んだり、幽霊になってストーカーしたり、お前から見たら、マトモじゃないだろうな」
夕陽の中に溶けて消えてしまいそうなその姿を見ていると、胸の中がどこから来たかわからない切なさでいっぱいになり、涙が流れそうになった。
「……気持ち悪いですよ、縁さまは」
自分のほうを見た縁の顔を、紅葉は強い眼差しで睨みつけた。
一体何がそんなに悔しいのか。
分からないのに悔しくて泣きそうな気持ちで、それをこらえるのに必死だった。
「苑さまのことが大好きなくせに意地張ったり、そのくせ近くにいたら苑さましか目に入らないみたいに、べたべたデレデレしちゃって。ほんと、気持ち悪い」
「でも」と紅葉は言った。
自分でもよくわからない想いを込めて。
「でも、人を好きになったら、初めて彼女とか彼氏が出来たらみんなそんなものですよ。縁さまだけじゃありません。好きな人の前だと、みんな、すっごく挙動不審で訳がわからなくて、おかしくなって端から見るとすごく変なんです。普通です、そんなの」
強い眼差しで見つめられて、縁は戸惑ったように紅葉の顔を見返した。
怪訝そうに眉をしかめて、その顔を覗きこむ。
「何だ、お前も好きな男がいるのか?」
「いません!」
縁の問いを打ち消すように、紅葉は叫んだ。
「いませんから、そんな人!」
「ふうん?」
紅葉は唇を噛んで、再び口を開いた。
「縁さまの事情はよく分からないですけれど、そんなことは別にどうとも思っていません。人には色々な事情があるから。うちもお母さんしかいなくて、小さいころから色々と言われて、今も苑さまのおうちに雇われて学校に通わせてもらっているから、苑さまと仲良くしているのもお金目当てだとか言われたりもするけれど、でも……でもそうじゃないし! 苑さまがそうじゃないって分かっていてくれれば、十分なんです」
紅葉は強い口調で言った。
「縁さまのことだって、苑さまは気持ち悪いなんて、絶対に思っていないです」
縁は初めて見るような眼差しで、俯く紅葉の姿を見つめた。
それから目元を、柔らかく綻ばせた。
「お前、いい奴だな」
縁は瞳を伏せて付け加えた。
「苑も、お前のそんなところがいいんだろうな」
縁は少し笑って、暗くなりかけた空を見上げた。
「お前、いっつも苑の側にいるもんな。俺、お前と一緒に苑を見守っていたようなものだな。仲間、っていうか、同志っていうか」
縁の言葉を聞いた瞬間。
唐突に涙がこぼれそうになった。
奥歯を食い縛り、何とか胸からわき起こった熱い塊をは飲み込む。
不本意だが、お前しかいないから仕方ない。
俺のぶんまで、苑のことをちゃんと見ていろよ。
聞いたことがないはずのそんな声が、記憶の中に蘇るような気がした。
縁の視線の先には、いつも苑がいた。苑のことだけを見て、苑のことだけを見守っていた。
でもその傍らにいた自分のことも、いつも見ていてくれたのだ。
いつも。
紅葉は、俯いたまま何とか笑いにまぎらわした言葉を絞り出した。
「縁さまみたいなストーカーと一緒にしないで下さい」
縁が不機嫌そうに顔をしかめるのを見て、紅葉は顔を上げて笑った。
「私たち、ずっと一緒にいたんですね。いつも一緒に、苑さまを見守っていたんですね」
紅葉の言葉を聞いて、縁は反発しようか受け入れようか悩むように、紅葉のほうを一瞥した。
「俺だって、お前と一緒にされるのは不本意だが……まあ、そういうことだな」
縁はツンと顔をそらして無愛想な口調で言ったが、そのうちこらえきれなくなったように笑い出した。
笑う縁の顔を、紅葉は眩しそうに見つめ、一緒になって笑った。
2.
繋がれた鎖に抗えない強い力で引かれるように、遠い場所から引き戻される感覚があった。
鎖がつながれたその場所に戻ると、縁はゆっくりと目を開いた。
開いた瞬間に、肉体の感覚が意識に接続される。
空気が澱み、生臭い熱気が漂う薄暗い室内にいた。
耳元で欲情に濡れた声が何事かを囁き、ぬめった手が全身を這いずり回る。
無数の蛆虫にたかられる死骸になったような、恐怖と嫌悪に肌が粟立つ。
汗ばんだ体を男に抱えられ、物のように無理矢理動かされる。心の抵抗も虚しく、体の奥から快感が引きずり出される。まるで首輪を付けられ鉄鎖に引きずられる家畜のように。
意思に逆らって、口から声が漏れた。
隷属の証であるその喘ぎが、男を愉悦させるのがわかる。
先ほどまで心がいた空間を、何とか切り離そうとする。
こんな場所とあの場所を繋げたくない。
そう思うのに、心に苑の姿が浮かんできてしまう。
声にならない声で必死に訴える。
苑、頼む、……見ないで。
男がいつもより具合がいいと笑い、耳に唾液を擦り付けるように卑猥な言葉を囁き、体の動きを激しくした。
次の瞬間、暴力的な快感に全身を貫かれ、縁は体をのけ反らし声を上げた。
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「第39話 神室・10(苑)~奴隷の証~」




