第35話 神室・6(縁)~好奇心~
1.
縁に呼ばれるままに、紅葉は廊下に出た。
ホームルームが終わりかなり時間が経ったせいか、廊下にはほとんど人影がない。
縁は教室のほうを鋭い横目で見ながら、コホンと軽く咳払いをした。
「あいつ、中学時代から苑にまとわりついていないか?」
「七海のこと?」
「女じゃない、男のほうだ」
「一颯は、苑さまの幼馴染だもの」
紅葉は呆れたような顔をして言う。
縁が何気なく漏らした「中学時代から」という言葉には、恐ろしくて突っ込めない。
「幼馴染?」
縁の問いに、紅葉は肩をすくめた。
「青井一颯。苑さまと小学校が同じだから、私より付き合いが長いんです。頭が滅茶苦茶いいんですよね、中学時代から学年一位だし。七海なんてしょちゅう、宿題を見せてもらっていますよ」
「七海のことはいい」
縁は露骨に興味がなさそうに首を振る。
「そんなことより、一颯っていう男のほうだ」
縁は心の中で葛藤するかのように少し黙っていたが、やがて視線を脇に向けながら小さい声で言った。
「あいつ……もしかして、苑のことが……す、好きなんじゃないのか?」
「え?」
紅葉は首を捻る。
「そんな風には見えないですけれど」
「ふん、お前の観察なんて大して当てにならん」
紅葉はムッとしたように、眉間に皺を寄せる。
縁はそんな紅葉の様子には気づかず、教室の中の様子が気になって仕方がない風に目線を送った。
「あいつ、事あるごとに苑に話しかけている。気がある証拠だ」
「そんなことより……!」
紅葉は十二、三歳の姿をした縁のことを、上から下まで眺めた。
「これ、一体、どういうことなんですか? 縁さま、幽霊になったんですか? 死んじゃった……とかじゃないですよね?」
「誰が幽霊だ」
縁は不機嫌そうに答える。
「たまにちょっとこうやって、苑の様子を見に来るだけだ」
「そんな授業参観みたいに言われても……」
紅葉は縁の姿を、もう一度眺める。
紅葉の目には、縁の姿は実体がありそこに存在しているように見える。身体に触れることもでき、現実の肉体と何ら変わりない。
しかし七海と一颯には見えていなかった。
紅葉の疑問に、縁は少し考えこむ。
「俺も不思議だ。今までは、俺の姿は苑にもお前にも誰にも視えていなかったのに、今日はお前や苑にも視えている」
「『今まで』って……」
紅葉はおそるおそる口を開いた。
「どういうことですか……? 中等部から、ずっと……っていうことですか?」
さすがに気まずそうに縁は顔を背けた。
「たまに、だ。たまに。そんなしょっちゅう来ていたわけじゃない」
紅葉は顔を真っ赤にし、大声を上げた。
「し、信じられない! まさか……まさか、お風呂とか、着替えとか……!」
「馬鹿か! 誰が見るか! そんなもの!」
紅葉の言葉に、縁も端整な顔を真っ赤にして応酬する。
二人はお互いの叫び声にハッとして、慌てて辺りを見回し、声を潜める。
間に流れた気まずい沈黙を、紅葉が破った。
「……縁さまは、前から私や苑さまのことを知っていたんですか?」
「まあ、な」
縁は初めて会ったときから、どこか前から知っているような感覚があった。
それは正確には、「紅葉が縁を前から知っていたような感覚」ではなく、縁が紅葉のことを前から知っていたことによって生じた感覚だったのだ、とその時気づいた。
本人は気づいていないだろうが、縁は一人でどこか別の場所にいるような寂し気な雰囲気を醸し出すことがある。
今がそうだ。
狡い、と思う。
そんな顔をされ、そんな雰囲気を出されたら、どんなに横柄にふるまわれても側にいて味方になってあげたい、と思ってしまう。
「私と苑さまは、実際の縁さまと会ったことがあるから視えるんじゃないですか?」
紅葉の言葉に、縁はいまいち納得がいかないような顔をしたが、どちらにしろ本当の理由は知りようがない。とりあえずそうかもしれない、と納得するしかない。
「お前と苑にだけしか視えないなら問題ない。というより、むしろ好都合だ」
縁は紅葉のほうへ視線を向けた。
「紅葉、あの一颯って奴が苑に話しかけたら邪魔しろ」
「は?」
紅葉は驚いて声を上げる。
「な、何でですか?」
なぜ、一颯が苑に話しかけるのを邪魔しなければいけないのか?
なぜ、それを自分がやらなければならないのか?
その両方の意味をこめて、紅葉は言った。
縁は少女のように美しい顔を、ツンとそらす。
「お前、九伊家の使用人だろ? 言うことを聞け」
「べ、別に縁さまに雇われているわけじゃないですし」
そう呟きながら、紅葉は縁の横顔をジッと見つめて、不意に言った。
「縁さまって……苑さまのことが好きなんですか?」
「なっ! ば、ばっ、馬鹿か! お前は!」
縁は全身の血が顔に集中したかのように、顔を赤くして叫ぶ。
「す、好き?! そ、そんなわけないだろう!」
「だって、中等部の時から苑さまの様子を見に来ているんですよね?」
「そ、それは……!」
縁は適当な言葉を見つけるために、必死で頭の中で言葉を探し回る。
「す、好き……好きとかじゃない! ただ九伊の本家の奴がどんな奴なのか……っていう好奇心……、そ、そうだ! 好奇心、好奇心だ!」
縁は思いついた「好奇心」という言葉にすがりつくようにして叫んだ。
「ちょっと暇だったから、こ、好奇心ついでに見に来ただけだ!」
縁の動揺が余りに大きいことに驚きつつ、紅葉は自分でもよくわからないもやもやした感情をぶつけるようにして言った。
「じゃあ、もういいじゃないですか。苑さまに実際に会って生活して、好奇心は十分満たされたでしょうから」
言葉に詰まる縁に、さらに追い打ちをかけるように紅葉は言った。
自分の中の名前が付かない感情につき動かされて、言葉が止まらなくなっているのを感じた。
「一颯が苑さまのことを好きだっていいじゃないですか。一颯はクールそうに見えてけっこう面倒見がいいいい奴だし、苑さまと雰囲気が似ているから、お似合いだと思うけどな」
言った瞬間に、なぜそんなことを言ってしまったのだろうと後悔した。
それほど縁は、先ほどまでの元気がなくなり、暗く顔を俯かせていた。
「……そうか」
ぽつりと落とされた言葉を聞いた瞬間、ひどく息苦しいような気持ちになった。
細く小柄な縁の姿がひどく儚げで、今にも消えてしまいそうに思えて、紅葉は慌てて言った。
「で、でも、さっきも言ったように一颯は苑さまのことが好きなようには見えないし、苑さまだって一颯のことは何とも思っていないです。それはわかります」
紅葉は自分の中の感情を誤魔化すような、つっけんどんな口調で言った。
「縁さま、苑さまに何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言ったほうがいいですよ。私に『話しかけるのを邪魔しろ』とか言っていないで」
「ふん、そんなのお前に言われるまでもない」
「苑は一颯のことは何とも思っていない」と断言されて、縁は調子を取り戻したかのように胸を張った。心なしか、先ほどまで薄く見えた姿が、またはっきりと現実に定着したように見えた。
繊細な容貌に、まるで陽光がはじけるように明るい笑顔が浮かんだのを見て、紅葉は大きな安堵といくばくかの切ない痛みを感じていた。
★次回
神さまを見守るルート
「第36話 神室・7(縁)~告白~」




