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第33話 神室・4(縁)~そばにいてね~

 1.


 目が覚めて部屋から出ると、広いリビングに眩しい朝の陽射しが溢れていた。すべての場所に光が当たり反射し、その反射がまた世界のすべてを輝かせているように見えた。

 縁は初めて来た場所かのように、しばし見とれるような眼差しで目の前のものをひとつひとつを見つめた。


「縁」


 名前を呼ばれて、縁は振り返る。

 苑が肩下まである髪を束ねながら、キッチンに向かうところだった。


「朝ごはんはパンとベーコンエッグでいい?」


 微笑む苑の顔を、縁はジッと見つめる。

 目を凝らす見える、産毛の一本一本まで光の細かい粒子をまとって、淡い燐光を放っているように見える。


「あ……ああ」


 急に胸の鼓動が早くなり、息が苦しくなってきたように感じられて縁は顔を背けた。

 昨夜、苑の中に入ったときに感じたしびれるような甘い感覚が体の奥で再現され、顔が熱くなっていくのがわかる。

 何をどうふるまえばこの熱が治まるのか、わからなかった。


 苑はいつもと変わらない様子で卵を割り、フライパンの上で香ばしい匂いを立てているベーコンの上に落とした。


「手伝う」


 縁はぶっきらぼうに呟き、苑の隣りでトマトを切り、レタスをちぎった。トマトは色鮮やかで、洗うと陽光の中で勢いよく水滴をはね飛ばした。

 左隣に立つ苑の気配が妙にはっきりと感じられる。

 そちらへ目を向けられないのに、苑がどんな表情をしているか、どんな風に手を動かしているか、どんな眼差しでフライパンの中を見つめているかわかる。

 まるで苑の姿や動きを感じとるためだけに、五感が働いているかのようだ。



 2.


 苑の動きを感じとりたいがために、何かと理由をつけて一日中苑の側にいた。

 今まで自分に言い聞かせていた「いいように扱いたいがためにここにいさせているだけだ」という建前は、津波に押し流される砂の城のようにあっけなく崩れ去った。


 今までも、ずっとこうやって苑の姿を見守ってきた。

 今までと違うのは、苑が、縁が目の前にいることをちゃんとわかっていることだ。

 縁の視線に気付くと、微笑みながら「何?」と問うように首を傾げる。

 縁が名前を呼ぶと、返事が返ってくる。

 手伝ったり助けたりすると、嬉しそうに微笑む。

 いつもその姿を見て、何度でも名前を呼びたかった。

 苑の小柄で柔らかい体に腕を回し、常に体をつけていたかった。髪に頬に唇に口づけし、その温かみを感じていたかった。


 だがその気持ちをそのまま表していいのかがよくわからなかった。

 それは欲望そのものではなかったが、薄い壁越しに住まう隣人同士のように、時々侵入してくる時があった。

 純粋な愛しさから抱き締めたいと思う気持ちの中に、服を脱がせて肌を重ね合わせ、自分の体の動きに応える苑の姿が見たい、という欲望が混じり込んでくる。

 その二つは縁の中では分かちがたい感情だったが、苑に欲望を見透かされ、その感情は欲望であると断じられるのが怖かった。


「こうなったこと」について、苑がどう考えているのか知りたい、という欲求が物理的な痛みや苦しさになるほど縁の体内で高まっていた。

 それを知るために常に苑の側にいて、その気配のひとつひとつに何かの意味を見出そうとする。

 その意味を並べてつなぎ合わせれば、何等かの答えが浮かび上がってくるのではないか。

 そう思い、苑の言動ひとつひとつに目をこらしてしまう。


 苑の様子は前と変わらないのは、自分の内心を正確に読み取っているからではないか、もしくは縁自身でさえわからない心の内に何かの確信を持っているからではないか。

 それならばその読み取ったものを縁に問いかけ形あるものにしたい、そうは思わないのだろうか?

 思わないとしたら何故思わないのだろうか?

 苑にとって、ここでの生活は強いられたものであり、仕方なく行っているもの、縁との間にあったこともその一環に過ぎない、と思っているのだろうか?


 だから言葉にして、現実に固定することを避けているのではないか?


 腕の中で「縁が話しているのを聞くの、好き」と安心したように呟いたあの言葉。

「ずっと側にいて……見守っていてくれていたのね」と言いながら流したあの涙。

 あれらはあの一瞬のものではなく、これから先もずっと続く苑の気持ちを表すものなのだ、そういう証明が欲しい。


 それらの想いが混じり合った結果として、苑の側を一瞬も離れないのに、言動はこれまで以上に素っ気なく無愛想なもの、というひどく矛盾した態度を取るようになっていた。



 3.


 苑に対して感じる胸苦しくなるような焦りの気持ちを除けば、縁にとって苑と過ごした夏の日々は、人生で一番輝く尊い宝物だった。


 朝起きると苑と食事をし、庭仕事をする苑の姿を縁側に腰かけて本を読むフリをして眺めたり、二階のリビングで一緒に勉強をしたり、毎日のようにやって来る紅葉と茶を飲んだりした。

 それはとても穏やかで、幸福に満たされた時間で、自分の中の傷つけられた部分が優しく包まれ長い時間をかけて慰撫されるのを感じた。


 この時間が永遠に続くなら、自分が持つ他の全てを投げ出しても惜しくない。

 そう思うものが、苑にとっては自分から強いられているものに過ぎないという事実が、縁の心をひどく苦しめた。


 確かに最初は、「お前をこき使って憂さ晴らしをしたい」と言った。

 だが、ここで過ごすうちに、少しずつ自分たちの関係は変わってきた、お互いに対する気持ちも少しは変わったのではないか。

 物静かに微笑んでいる苑の横顔をいくら見ても、答えが見つからない。

 何かひとつでいいから、印が欲しい。

 苑もここにいて、少しは楽しく幸福なのだと思える印が。

 そうしたら思いきって、「冬休みはどうするつもりなのか」「自分のことをどう思っているのか」聞けそうな気がした。


 結局「印」を見出すことは出来ず、聞きたいことをひと言も切り出せないまま温かく優しい時間だけが流れていき、苑が学校の寮に戻る日が三日後に迫った。



 4.


 昼間、紅葉がやってきて、思いついたように言った。


「苑さま、し明後日に学校に戻りますよね。ここの荷物を整理して、明日か明後日には運ばないと」


 いつものように片膝を立て椅子の背に寄りかかるような姿勢で座っている縁のことを、紅葉はじろりと見る。


「縁さまも手伝ってくれますよね? 二階から荷物を下ろすの大変なんですから」


 紅葉は「縁」が苑の親戚だという事実を一応受け入れたのか、縁のことを「縁さま」と呼ぶようになった。

 しかし呼び名の丁寧さとは逆に、縁に対して苑よりも遥かに遠慮のない物言いをする。

 三人で昼ご飯を食べたり茶を飲んだりするときは、大抵、紅葉と縁が言い合いのように言葉を交わし、そんな二人の様子を苑が笑いながら見ていることが多かった。


 苑と紅葉の話に、脇を向いて興味がなさそうな様子をしていた縁は、紅葉の言葉に面倒くさげな顔をして振り向く。


「何で俺がそんなことをしなくちゃいけないんだ」

「はあ? 縁さまが苑さまを、無理にここに連れて来たんじゃないですか」


 紅葉の言葉に、縁は顔に暗い翳りを落として黙り込んだ。

 いつものように「無理に連れて来たって、証拠でもあるのか」と意地悪く混ぜ返してくるとばかり思っていた紅葉は、あっけにとられたように縁の顔を見つめる。


「どうしたんですか? 急に」

「何がだ」


 紅葉の怪訝そうな言葉に、縁は不機嫌そう眉をしかめ視線を脇に向ける。


「いえ……なんか、その……」


 紅葉は口ごもる。

 縁の細い体がひどく寂しげに見えて、胸が詰まるような気持ちになった。

 二人が口を閉ざすと、静かな沈黙が明るい陽射しと共に部屋の中を覆った。

 苑は手に持っていた紅茶のカップをソーサーに戻して言った。


「紅葉、荷物は運ばなくて大丈夫よ」

「え……でも……」

「冬休みもここで過ごすから。四か月後でしょう? また戻すの大変だし」


 驚いた表情をしたのは、紅葉だけではなかった。

 縁も振り返り、落ち着いた苑の表情を凝視する。

 苑は縁の視線を捉えると、にっこりと微笑んだ。


「縁、そうしていい?」


 縁は慌てて、反射的に顔をそらし、恐ろしくつっけんどんな口調で言った。


「お前がそうしたい、って言うなら、そうすればいい」

「でも……でも、苑さま」


 苑の側に勢いよく駆け寄ってきたかのような調子で、紅葉がせき込んで言った。


「え…? え…? ま、また縁さまに脅されたんですか? 冬休みも来いって」


 縁が不本意そうに口を開くよりも先に、苑が首を振った。


「縁は、私のことを脅したことなんてないわ。私がここにいたいからいるだけよ」


 苑のきっぱりとした口調に紅葉は絶句した。

 そして微笑む苑の顔とそっぽを向いたままでいる縁の顔を、声もなく交互に眺め続けた。



 5.


 三人でいた時は興味がなさそうな鷹揚な態度を取っていた縁だが、紅葉が帰るとにわかにそわそわした落ち着きのない様子になった。

 茶道具をかたすと、縁はソファーで寛ぐ苑の隣りに、緊張した面持ちで座った。


「お前……本当に次の休みも来るのか?」


 苑はしばらく黙って窓の外を見つめたあと、縁の顔を覗き込んだ。


「駄目?」


 縁は反射的に顔を背ける。


「駄目……ではないけど」

「良かった」


 苑は安堵したように息を吐き微笑む。

 縁はその横顔に気付かれないように視線を向けながら、思いきったように言った。


「俺が気が済んだ、って言わないからか?」


 苑は視線を動かさず答えた。


「縁の側にいたいの」


 縁は口の中にわいた唾を飲み込む。


「何で……だ? 何で……俺の側に……」


 不意に苑が振り向いた。

 強い眼差しを受けて、縁の言葉は口の中で溶けて消えていく。

 自分に向けられた大きな茶色の瞳の中に、自分が求めるものがあるのではと、縁は瞳を覗き込んだ。


 そうするのが自然な流れであるかのように、二人の顔は近付き唇が重なる。

 縁は苑の肩を掴み、何かを探し求めるかのように苑の唇を味わい、舌で口の中を愛撫する。

 苑は心地よさそうに小さな声を漏らし、縁の頭に手を回した。


「縁、これからも側にいてね」


 苑は縁の耳に唇をつけて囁いた。


「ずっといて、私の側に」


 縁は苑の言葉に応えるように繰り返し苑の名前を呼び、腕の中にある小柄な体をソファーに横たえた。




★次回

神さまを見守るルート

「第34話 神室・5(縁)~学校が始まった~」

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