第31話 神室・2(縁)~待たせてごめんね~
1.
八月の中旬の夕暮れ。
ようやく涼しくなってきた風が、テラスを通ってカーテンを揺らし、部屋の中に入ってきていた。
2.
縁は一階で片づけをした後、二階に上がってきた。
苑はソファーに横になってうたた寝をしていた。
机の上には、学校で使っている教材や参考書、ノートがきちんと並べて置かれている。
縁はところどころに付箋がつけられた参考書を手に取ってめくり、次にノートを手に取ってパラパラとめくった。
几帳面に整理された記述が目に飛び込んでくる。
苑らしい。
そう思って、縁は少し笑った。
ノートを元通りの位置に置くと、縁はクッションに頭をもたせかけて眠っている苑の顔を見つめる。
朝から庭仕事をして疲れているのか、寝息が深い。
こんな風に顔を見るのは久しぶりだ。
昔、一方的に苑の姿を「神さま」として見ていたときは、その顔や表情を飽かずに見ていた。
しかし一緒に暮らし始めてからは、ほとんどまともに顔が見られなくなっていた。
苑の静かに澄んだ大きな瞳を見ると、心を覆っている衣がはがされ、素裸にされるような気持ちになる。
自分は苑の気持ちが何ひとつ分からないのに、それは余りに不公平だと思うのだ。
縁は、眠る苑の顔を覗きこむように視線を近づける。
大人しくてひっそりとしているため目立たないが、苑はよく見るとなかなか可愛らしい顔立ちをしている。
少なくとも縁の目にはそう見える。
外で作業をすることが多い割には、肌は白く滑らかだ。
目は大きく、日の光が当たると明るい茶色に見える。唇は薄めだが桜色でふっくらとしている。
縁は頬に流れ落ちている髪にそっと触れた。
「苑」を見ていたとき、こうやって髪や頬に触れてみたかった。それが一体どんな感触がするのか、知りたかった。
縁は壊れ物でも触れるかのように、苑の髪に触れ、目元に触れ、頬に触れ、口元に触れた。
目の前の「神さま」が本当に存在している、触れるたびにそういった実感が胸にわき、わいた瞬間にそれらはある種の感動になった。
苑、お前がここに来るって聞いたときから、ずっと考えていたんだ。
縁は苑の顔に触れながら思う。
本当に来るのか?
本当に、お前は俺の目の前に来るのか?
お前を見に行きながら、息をひそめてお前の姿を見守りながら俺はいつもお前に呼びかけていたんだ。
縁はそっと苑の顔に自分の顔を寄せ、唇を重ねた。
唇の温かさや柔らかさが伝わってきて、その感触が確かに「苑」は目の前にいるのだ、ということを教えてくれた。
「苑」。俺はここにいる。
待っているんだ。お前の側で、お前が来るのをずっと……。
ずっと待っていたんだ。
そう呼びかけた瞬間。
苑が瞳をゆっくりと開いた。
縁は我に返ったように目を大きく見開き、唇を離して飛びすさるようにして上半身を引く。
「い……っ、いや……、そ、その……これは、だな」
何とか抗弁しようと、縁は必死で頭の中をかき分け口を動かす。
しかしどれほど探し回っても、頭は真っ白なままで、この場を説明するのに適当だと思われる言葉は、何も浮かんでこなかった。
まだまどろんでいるような苑の瞳にとらえられて、縁はその場で硬直したまま動くことが出来なかった。
「その……つ、つまり……」
ふと。
苑は微笑み、縁の顔に手を伸ばした。
苑は縁の頬を優しく撫でて、唇を動かした。
待たせてごめんね。
そんな声が風に乗って、はっきりと縁の耳に響いた。
縁は、苑の顔を瞬きもせずジッと凝視した。
実在することを確かめるかのように、差しのべられた苑の手を握る。
一度つなげれば、そして握り返してもらえれば。
その先は何があっても、二度と離さないのに。
二度と。
苑は、縁の手を強く握り返した。
「ごめんね、縁。遅くなって。もう一人にしたりしない。ずっと側にいるわ。あなたの側に」
握られた手に意識を集中させる。
手がまるで、自分とは別の一個の生命体のように苑の手の感触を通して流れ込んでくるものを感じ、それが全身に広がっていく。
「縁……」
求めるように呼びかけられた瞬間、縁は苑の頭を抱き寄せ、唇を重ね貪るように吸った。
苑の口が、縁の体から溢れる感情を迎え入れるように開かれ、潜り込んできた舌に応える。
全身を密着させるために、ソファーに横たわる苑の体に体を重ね、足を絡めて強く抱きしめる。
縁を見つめる眼差しも、口づけを受けてそらされた喉も、温かい胸の鼓動も、誘い入れるようにわずかに開かれた足も、全てが縁を受け入れ受け止めようとしているようだった。
縁は髪に額に頬に目元に唇に、口をつけながら、苑の体に手を滑らせた。
★次回
神さまを見守るルート
「第32話 神室・3(縁)~月明かりの中~」




