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第30話 神室・1(縁)~俺を知らない~

 1.


 自分たち「禍室」は、「神さま」に身を捧げるために生きている。

 自分たちが犠牲になることで「神さま」は生きることが出来るのだ。

 小さいころ、母親から繰り返し聞かされた九伊家の「神さま」と自分たち「禍室」にまつわるおとぎ話。

 なぜ自分たち「禍室」は、世間から隔絶された場所に閉じ込められ、他人から貶められ生きなければならないのか。

 全ては「神さま」が存在するためなのだ。

 そう教えられて生きてきた。


 だから縁は、幼いころからずっと、自分の心の中にいる「神さま」と一緒に生きてきた。

 怒りと憎悪が抑えきれなくなるとき、その衝動を「神さま」にぶつけた。

 心の中の「神さま」は、縁のどんな罵詈雑言も衝動的な言動も黙って受け止めた。

「神さま」がそうしてくれることで、かろうじて暗い穢れに満ちた禍室として生きていくことが出来た。



2.


「神さま」は里海によって、「九伊苑」という名前の同い年の娘であることが分かった。

 それ以来、縁には「神さま」が暮らす世界が具体的に見えるようになった。


 辛いときや苦しいときは、肉体から遠く離れて、「苑」の様子を見に行った。

「苑」が学校で勉強したり、友達と話をしている様子や、一人で庭の畑で作業している様子、寮で生活している様子をこっそり見に行って、いつも見守っていた。

「苑」が楽しそうに生活している様子を見ると、この生活を支えているのは自分なのだ、という喜びと誇らしさで胸がいっぱいになった。


 例えその支える方法が、他人の欲望によって自分という存在を踏みにじられることだ、としても。



 3.


「苑」が「禍室」に来る、と聞いたとき、何を話そうと思っていたのか、正確なことは覚えていない。

 具体的な何かを考えるには、それは余りに現実として想像しがたい、夢のような手触りの仮定だった。

 現実感を伴わないまま、「苑」を迎えたため、実際に目の前にしたときはその喜びと衝撃を受け止めるだけでいっぱいになっていた。


 余りに強大な幸福感に浸っていたせいだろう。

「苑」のちょっとした言葉にも、無防備になっていた心が傷つくのを感じた。


(ごめんなさい……。里海さんから男の子だって聞いていたけれど、こんなに綺麗な人だとは思わなかったの。驚いちゃって……)

(名前を聞いてもいい?)

(縁、って呼んでいい?)


「苑」は、俺が男だと知らない。

「苑」は、俺の名前を知らない。

「苑」が、俺の名前を呼んでいいか聞いてくる。


 当たり前のひと言ひと言が、

「お前のことなんか知らない」

「自分のために犠牲を捧げてきたなどというのは自己満足だ」

「自分のことを見守っていた、など哀れな妄想だ」

 ということを突き付けてきているように思えて、ひどく傷つけられた。


「苑」も自分に気付いており、「やっと会えた」と言ってくれるのではないか。

 ありえない期待を抱いていたことに気付かされ、そんな自分が惨めで仕方がなかった。


 心がねじくれ、暗い狭隘たどるように、「苑」に少しでも自分と同じ思いを味合わせてやりたいと思ったのは、そういう理由があったのかもしれない。


 困らせてやりたかった、「苑」のことを。


(お前が俺に償うべきだろう。俺をここに閉じ込めたのは里海じゃない。お前だ)

(俺がここに閉じ込められていた分、お前もここに閉じ込められるべきだ)

(お前、今日からここに住んで俺の面倒を見ろ)


 無理難題を押し付けて困惑する表情を見れば、心が満たされ傷ついた感情の疼きが治まる……考えていたのはせいぜいその程度だ。

 ところが案に相違して、「苑」は挑発的な縁の眼差しを真っ直ぐに見返し、縁の提案にはっきりと頷いた。


(分かったわ、それで少しでも縁の気が済むなら)

(私の家は、縁を小さいころからひどい目に合わせてきたんだもの。縁がそう思うのは、当然だと思うわ)


 縁自身は自分が「どう思って」いるのかいまいちよくわからなかったが、「苑」は強い確信に満ちた口調でそう言った。

 どうせ、途中で何だかんだ言って、止めるに違いない。

 そう思っていたが、「苑」は縁が家の中を案内し説明する間も一向に逡巡する様子もなく、生真面目な顔つきで縁の一言一言に聞き入っていた。


 まるで水が上から下へ流れ落ちて行くような自然さで、苑は家から自分の荷物を運びこみ、縁が住む禍室の一室に落ち着いた。

 今までずっとそうやって生きてきたかのように、苑は昼間は草木の世話をしたり、学校から出ている課題をこなしたり、毎日のように様子を見に来る紅葉と話して過ごし、交代で作る食事を食べ、夜は縁の隣りに座りくつろいで過ごした。


 縁が万が一にも苑に「変なこと」をしないようにやって来る紅葉の存在に、むしろホッとする。

 そうでなければ今まで自分の心の中にしか存在しないと思っていた、「神さま」と暮らしている、という状況から生じる感情の揺れに耐えられそうになかった。

 紅葉がいる時は、二人きりのときのような妙な緊張は感じなくて済む。苑に対して感じる、強烈な意識を紛らわすことが出来た。

 もし紅葉がいなければ、三日と保たず、自分からこの状況を解消してしまったに違いない。


 一体この状況をどう思っているのか、自分のことをどう思っているのか、苑の様子をいくら伺ってもわからない。

 その心の内が知りたいと思い、我知らず苑の顔をジッと見てしまう。

 苑は縁の視線に気づくと、頬を緩ませて嬉しそうに笑う。

 そうされるとつい目線をそらしてしまう。

 そんな顔をされると、苑もこの生活に満ち足りていて、自分の側にいたいと思っているのではないか。そんな勘違いをしてしまいそうになる。


 それとも。

 夏休みが終われば必然的にこの生活も解消されるのだから、その間だけ波風立てずに辛抱しよう。

 そう思っているのだろうか。


 それならそれでいい。


 そう思いたいのに、考えると心がひどく痛んだ。そんな自分に腹が立った。


(俺はただこいつを思い通りにして憂さを晴らしたくて、こいつがここにいれば禍室の務めは果たさなくていいから、ただそれだけだ)


 何度も自分にそう言い聞かせ、心に生じる期待や痛みを紛らわした。


 そんな風にして夏の月日が流れていった。



★次回

神さまを見守るルート

「第31話 神室・2(縁)~待たせてごめんね~」

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