第29話 禍室・8(縁)~俺の神さま~
1.
柔らかく優しい夏の終わりの空気を感じて、苑はゆっくりと目を開けた。
何だかひどく楽しく幸せな夢を見ていたような記憶があり、もう一度その夢の中に戻りたくて、苑は目を閉じようとした。
「苑」
横からそっと名前を呼ばれて、苑は閉じかけた目を声の主のほうへ向けた。
「縁……?」
縁は苑に柔らかい眼差しを向け、静かに微笑んだ。
いつにない縁の穏やかな様子を訝しんで、苑はベッドの中でわずかに首をかしげた。
「縁……何だか……小さくなっていない?」
苑の言葉に、縁は自分の体を一通り見たあと、小さな声で呟いた。
「たぶん……これは、禍室になる前の俺だ」
「禍室になる……前?」
苑は夢見心地の声で尋ねる。
薬の影響なのか、ひどく意識がぼやけていた。まるで夢から覚めて、また別の夢の中にいるような気持ちがした。
そう言えば、苑が今寝ている病院の病室に縁がいるはずがない。身内である父親以外は、まだ面会が認められていないはずだ。
「十二とか十三とか、それくらいの頃だ」
縁はそう言って、目を伏せた。
苑は手を伸ばして、苑が覚えているよりも小柄なその体に触れた。
「可愛い……」
赤くなった顔を誤魔化すかのように、縁は不本意そうに顔をしかめた。
「お前な、男に可愛いなんて言うな」
苑は目元を赤らめて怒った表情を作る縁の顔を、目を細めて見つめる。
「だって可愛いんだもの」
これは夢の中なのだろうか。
縁の顔を見つめながら、苑は考える。
縁がいなくて寂しい、早く縁に会いたい、縁のそばに戻りたい。
戻らなければ。
ずっとそう考えていたから、こんな夢を見ているのだろうか。
縁はとても寂しがり屋なのだ。
本人は決して認めないだろうし、指摘したら怒るだろうが、苑にはそれが分かっていた。
一人になって、とても寂しがっているだろう。
「縁……すぐに元気になって戻るからね」
縁は顔を上げて、ジッと苑の顔を見つめた。瞳の裏側まで見えそうな、深く静かで澄んだ眼差しだった。
随分長いこと、苑の顔を無言で見たあと、縁はゆっくりと口を開いた。
「苑……戻らなくていい」
苑は微笑んで、縁の顔を見つめた。言われた意味がよく分からず、どういう表情をしていいかがわからなかった。
縁は苑の顔から眼をそらした。
「荷物は……世話係が本家まで運ばせる」
縁はベッドの外に出ている苑の腕に、そっと手を置いた。
「元気になったら、学校に戻るだろう? 頑張れよ」
苑は少し黙ってから言った。
「冬休みにまた行くから。荷物はそのままにしておいて」
縁は首を振った。
「もうあそこには来なくていい。俺のことも気にしなくていい」
「なぜ?」
苑に真っすぐな眼差しを向けられて、縁は反射的に目を伏せた。
「なぜって……」
縁は惑うように辺りに視線を向け、やがて吐き捨てるように言った。
「飽きたから、だ。お前を振り回すのも、つまらなくなった。お前がいるとうざったいから、一人に戻りたいんだ」
「嘘」
「嘘じゃない」
苑の言葉に、縁はカッとしたように叫ぶ。
「お前がいると、飯だって二人分作らなきゃいけないし、お前が外にいる間、何だか手持無沙汰だし、いつもお前のことを考えて色々なことをしなきゃいけないし、それに、それに……」
縁は唐突に言葉を途切らせ、乱暴に目元をこすった。
苑は手を伸ばし、縁の腕をそっと取り、宥めるように撫でる。
「縁、大丈夫。すぐに元気になるから。私がこうなったのは、縁のせいじゃないわ」
顔を伏せて、涙を流す縁の顔を覗きこみながら、苑は囁いた。
縁の中の自責の念を、悲しみや苦しみを拭い去りたい、そう思うのに体が思うように動かないことがもどかしかった。
「苑……」
縁は瞳から溢れる涙を、何度もこすりながら小さな声で言った。
「俺……こんな風になるなんて思わなかったんだ」
「わかっているわ」
縁は苑の言葉が耳に入っていないかのように、呻くように言葉を続けた。
「お前が禍室に来たら……俺と一緒にいたら、こんな風になるって知らなかったんだ。本当に、知らなかったんだ……!」
苑は「わかっている」と言うように頷いたが、縁はかすれた声で繰り返した。
「信じてくれ……知らなかったんだ」
縁は苑の手を両手で握りしめ、祈るように額の前にかざした。
「苑……死なないで」
震える声で呟く。
「お願いだ……俺の神さま。……死なないで」
「死なないわ、縁。大丈夫よ」
苑は空気をはらんで微かに揺れる縁の髪に触れようとしたが、伸ばした指先には何の感触も伝わってこなかった。
重い瞼をこじ開け、必死に縁の姿を見つめる。苑の手を握りしめている縁の姿は、輪郭がぼやけて見え影が薄くなり、空気に溶けて消えようとしているように見えた。
苑は自分の手を握りしめる縁の手を握り返そうとしたが、力をこめたつもりなのに、その手には何も握ることが出来なかった。
(苑……)
縁の声も姿と同じように、現実感が薄れ、まるで夢の中にいるように心の中に直接響くように感じられた。
(俺の体は穢れているから、側にいられないけれど……またお前のことを見に来る。体を抜け出して……穢れのない魂だけになって。いつもお前の側にいる)
苑は遠くなっていく縁の声を引き止めるかのように、強く手を握りしめた。
だが、その手には何も掴むことが出来なかった。
やがて強い睡魔が苑の体に絡みつき、眠りの世界へ引きずりこんで行った。
2.
その後、苑が完全に回復するまで、半年以上かかった。
体調が回復した高校二年生の春、苑は何度も禍室に足を運んだが、庭に入る門扉は固く閉ざされ、中に人がいるのかどうかも定かではなかった。
里海に会うと、里海は沈鬱な表情で呟いた。
「僕も縁を探している。禍室が閉ざされてから、どこに連れていかれたかわからないんだ」
里海は強い苦痛と絶望で、顔を歪めた。
「縁に会うことはもう……」
苑は手を尽くして縁を探したが、誰からも行方を聞くことは出来なかった。
まるでそんな人間は、初めから存在しなかったかのように縁は消えてしまった。
結局その後、二度と縁に会うことは出来なかった。
(BAD END3 神さまと別れた/条件②入手)
(分岐)
「穢れ払いをする」
→「第五章 神室~神さまを見守るルート~」
※※※
「禍室ルート」を完走していただきありがとうございます。
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次回は「もし、穢れ払いをしていたら?」という「神室ルート」です。
引き続き二人の恋の行方を見守っていただけたら幸いです。




