第24話 禍室・3(縁)~神さまが来た~
1.
それから「穢れ払い」の当日まで、何度も「苑」を見に行った。
まるで自分の肉体と魂が分離しているかのように、肉体は「禍室」の中に在っても、魂だけが遊離して「苑」の側にあるかのようだった。
学校で仲がいいのは、中学生の頃から側付きである「三峰紅葉」の他に、縁から見るといささか騒々しい「入瀨七海」、気の強いお嬢さまの「佐方四央」だ。
だいたいいつもこの五人の中で組み合わせを変えて、一緒にいることが多い。
授業が終わった後、「苑」は裏庭にある小さな畑で野菜の世話をする。
中学生の時から大切にしている畑だ。紅葉たちが付き合うこともあるし、一人でいる時もある。
陽射し除けの麦わら帽子をかぶり、首にタオルを巻いて軍手をはめ、泥だらけになりながら水をまいたり、雑草を抜いたり、真剣な眼差しで野菜の育ち具合を観察している。
その姿を二階の窓から見るのが、一番好きだった。
「苑」が作業を始めてから終えるまで、ずっと見ていても飽きなかった。
叶うなら、ずっとこうして見ていたかった。
たまたま通りがかったフリをして、声をかけてみたかった。
こんなところに畑があるなんて知らなかった。
お前が一人で面倒を見ているのか?
「苑」は振り向いてくれるだろうか?
何と答えるだろうか?
肉体などいくら汚されても平気だった。
こんなものはただの入れ物に過ぎない。
いくらでも好きなように弄んで、穢れを入れればいい。
この入れ物に穢れが澱めば澱むほど、「苑」は一生懸命野菜を育てることが出来るし、友達と楽しそうに笑うことが出来るのだ。
自分の本当の居場所は禍室ではなく、「苑」のことを見守ることが出来る場所なのだ。
そう思っていたので、「苑」が薄暗い禍室の中に入ってきて自分の前に座ったとき、目の前の現実が現実離れをしているかのような奇妙な感覚に陥った。
2.
室内に入ってきた苑は、清められた体に単衣だけを纏っていた。極度の緊張のためか、薄暗い中でもそれと分かるくらい、表情と体がガチガチに強張っている。
縁はまだ夢の続きを見ているかのような心地で、苑の顔を見つめた。
縁の顔を見た瞬間、緊張していた苑の表情が呆けたように緩んだ。
驚いたように反射的に目を伏せ、もう一度こわごわと視線を上げて縁の顔を見つめる。
この世ならざるものを見たような、感嘆に満ちた眼差しだった。
縁は、特に禍室として女の装いをしている時、こういう眼差しで見られることに慣れている。
だが、慣れているはずの眼差しに、自分でも俄かには信じられないほど心が傷ついた。
苑は俺のことを知らない。
それはそうだろう、ともう一人の自分が愕然としている自分を嘲笑っている。
体はただの入れ物で、それを抜け出して本当の自分は彼女の側にいるのだ、などというのはただの戯言、妄想に過ぎない。
現実には、苑はお前のことなど見たこともないのだから。
お前の居場所は、この薄暗い穢れに満ちた禍室であり、ここで意味もなく他人の欲望の捌け口にされているだけだ。
それが現実の、本当のお前だ。
屈辱と惨めさで、心が焼けきれそうだった。
それでも縁は床に両手をつき、「客」を「室」に迎えるときの口上を述べ、美しい所作で頭を下げる。
苑は軽く目を見開いたあと、たどたどしく「客」としての口上を返した。
それから再び、まじまじと縁の顔を見つめ、慌てたようにまた瞳を伏せた。
「ごめんなさい……。里海さんから男の子だって聞いていたけれど、こんなに綺麗な人だとは思わなかったから……驚いちゃって……」
俺が男だと、『里海さんから聞いた』?
縁は横を向き、紅を刷いた唇を強く噛み締めた。
口を開きたくなかった。
「あの」
苑は頑なに自分のほうを向こうとしない縁の横顔を見つめ、おずおずとした口調で言った。
「名前を聞いてもいい?」
縁は脇を向いたまま言った。
「名前は聞かなかったのか? 『里海さん』から」
「うん」
縁の口調に含まれている皮肉に気付いた様子もなく、苑は頷いた。
縁は少し黙ってから言った。
「縁」
「えにし…?」
「『縁がある』の『縁』って書いて、縁」
「えにし」
苑は独り言のように呟いてから、薄暗い部屋の中で微笑んだ。
「縁、って呼んでいい?」
名前を呼ばれた瞬間、縁の体は電流が走ったかのように震えた。
反射的に苑のほうを振り向く。
苑は目が合うと、嬉しそうに笑った。
寒々しく薄暗い部屋の中が、急に温かく明るくなったように思えた。
「名前なんて好きに呼べばいいだろう」
縁はすぐにまた横を向き、素っ気なく吐き捨てた。
苑は戸惑ったように口をつぐみ、辺りを見回す。
「ずっとここに住んでいるの? 一人で?」
縁は少し黙ってから、微かに頷いた。
「世話をする奴がいるから、生活に不自由はない」
「あの」
苑は思いきったような口調で、話を切り出した。
「ごめんなさい、私、里海さんから聞くまで何も知らなかったの、縁のおうちのこと。敷地の中でもこの辺りには、近づかないように言われていたから」
苑はそこで言葉を切った。
しばらく沈黙が続いても縁が口を開かないことが分かると、もう一度話し出した。
「私に出来ることがあれば、何でもさせて。里海さんが、自分がうちの屋敷に入ったら縁と一緒に暮らしたい、って言っていたけれど、私も協力したいの。今までのことを償いたいの。お父さんにも縁のことを守ってもらうように話すから」
「お前」
苑の言葉を断ち切るように、不意に縁は言った。
「九伊の家から出て行くんだってな」
縁は、怒りに満ちた強い眼差しで苑の顔を睨みつけた。
苑は急に話の矛先が自分に向いたことに、驚いたようだった。縁の瞳に含まれる強い非難を受け止められないかのように、反射的に顔を伏せる。
「何で出ていくんだ?」
縁は項垂れている苑に、強い口調で言葉を浴びせた。
「俺をこんなところに閉じ込めておいて、お前は九伊から出て行くのか。『何でもする』『償いたい』なんて、口先ばかりだな」
嘲笑うような縁の言葉に、苑は顔を上げた。
その瞳には真剣な光が浮かび、縁の姿だけを真っすぐに見つめている。
その光を見ていると体の奥底がぞくぞくし、恍惚とした感覚が絶え間なくわいてくる。暗い獄に囚われた人間が、ひび割れた天井から射し込んだ日の光を見上げるかのように、縁はしばしその光を見とれた。
苑は必死な口調で言った。
「私、里海さんと結婚したら、九伊の当主の座も譲るつもりなの。あの屋敷も九伊の財産も全部、里海さんに譲るわ。そうしたら縁は里海さんと……」
「里海は、関係ないだろう」
縁は苛立ったように、声を床に叩きつけた。
体を震わせ口をつぐんだ苑に、縁は強い視線を向けた。
「お前が俺に償うべきだろう。俺をここに閉じ込めたのは里海じゃない。お前だ」
一度話し始めると、堰をきったかのように様々な感情が奔流のように心から溢れ出して止めることが出来なかった。
「俺は生まれた時からここに閉じ込められて、人生を滅茶苦茶にされたんだ。それなのに、お前はここを捨てて外で自由に暮らす。そんなのおかしいだろう」
縁の言葉に、苑は顔を歪めて消え入りそうな声で呟く。
「ご、ごめんなさい」
「俺がここに閉じ込められていた分、お前もここに閉じ込められるべきだ」
何気なく言った言葉だったが、それを言った瞬間、縁の顔は輝いた。
そうだ、何故これを思いつかなかったのだろう。
縁は「神さま」の顔を見て笑った。
「お前、今日からここに住んで俺の面倒を見ろ」
★次回
神さまと暮らすルート
「第26話 禍室・4(縁)~神さまの引っ越し~」




