第20話 夢想・8(縁)~思うことすら許されない~
1.
少女は、長期休みの間は足しげく縁の下へやって来るようになっていた。
「これ……美味かった」
縁は禍室の口上を済ませると、脇に置いてあった弁当箱を少女に差し出した。
「お前の料理、けっこう美味い。すごく美味い、ってわけじゃないが、毎日食っても飽きなさそうな味がする」
縁は脇を向いたまま、呟くように言う。
それから慌てて付け加えた。
「別に毎日食べたいという意味じゃない。あくまで飽きなさそうだ、と思っただけだ」
少女と会うと、心の中にあることを言葉に口にすることはこんなに難しかったのかと思う。
里海や世話係には言いたいことは何でも言える。「こんなことを言っていいのか」と悩むことはない。他の「客」には、そもそも言いたいことさえない。
少女には伝えたいことがたくさんあり胸が息苦しくなるのに、体に詰まったものを上手く表す言葉を見つけることが出来ない。
いつも気持ちとはまったく違うこと、ひどくかけ離れたことを話ししているような気持ちになる。気持ちを正確に伝えようと言葉を重ねれば重ねるほど、どんどん「本当の気持ち」から遠ざかる気がする。
少女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、毎日食べられるようにたくさん持ってくるわね」
少女はそれから瞳を伏せて、化粧が施されている縁の整った顔を覗きこむように見つめた。
「具合が悪いの?」
ぼんやりとした表情で少女の笑顔を見ていた縁は、その言葉にハッとして顔を上げて薄暗い闇の中で顔を背ける。
「別に。そんなことはない。寝不足なだけだ」
「寝不足? 忙しいの?」
縁は唇を噛む。
何かを恐れるような視線を、少女の顔に走らせた。そこに縁の体調を気遣う感情以外何も浮かんでいないことを見てとると、ホッとしたように息を吐いた。
「ちょっと調べものをしたり、家の中のことをしたりしているだけだ」
「そう」
少女は顔を曇らせて下を向いた。
少し黙った後、少女は小さな呟きを唇から落とした。
「……里海さんの恋人だって、本当?」
縁は少女の言葉に、瞳を強張らせた。膝の上にのせた手で、着物の裾を強く握りしめる。
そのまま自分の膝の上の手をジッと見つめ続ける。顔を上げることが出来なかった。
「……里海がそう言ったのか……?」
少女が頷いたのが気配で分かった。
「里海さん、凄く心配していて、屋敷のほうに来て欲しいって。
あの……! 私も来てもらって全然構わないの! 私が里海さんと婚約したのは家の事情で……だから、全然好きとかそういうのはないの。私は里海さんとあなたのことを応援したくて……」
バン!
と拳が卓に叩きつけられるすさまじい音が鳴った。
少女は身震いして、口を閉ざした。
縁は黒に近い青の瞳を底光りさせて、少女の顔を睨んだ。
「応援……? 俺と里海のことを……?」
少女が何も言えずにいるのを見ると、縁は紅く彩られた唇を歪めて笑った。
「へえ? 応援してくれるのか? さすが、本家のお嬢さまは違うな。お優しいことだ。ありがたいお慈悲に涙が出る」
「ご、ごめんなさい……」
縁の顔が夜目にもわかるくらい青くなっているのを見て、少女は小さな声で謝った。
「里海さんが、あなたが凄く無理をしているって言っていたから……」
(また里海か…)
縁は苛立ったように、固く目を閉じた。
2.
里海にはもう何度も、本家の屋敷に来るように言われている。
「僕の婚約者も承諾してくれている」
半ば諭すように半ば懇願するように、里海は言った。
「君が九伊の一族の中で奇妙な風習を押しつけられていて、生まれたときから半分軟禁みたいな状態だ、って話したんだ。そうしたら、是非本家で保護したいって言ってくれたんだよ」
里海の話を聞いた途端、全身に冷や水を浴びせかけられたような恐怖が体が襲った。
縁は瞳を見開いて、里海の顔を凝視する。
「……話したのか? あいつに……禍室のことを」
里海は凍りついたような眼差しで自分の顔を見る縁を、痛ましそうに見つめ、首を振った。
「具体的に何をしているか、とかは話していない」
縁の表情に安堵が広がっていく。
それを確認してから、里海は言った。
「最近の君の『客』の取り方は無茶苦茶だ。いくら若いからって体が保たないよ。おかしな『客』もいっぱいいるんだろう? 僕は嫌だよ、君がそんな目に遭うのは」
縁は黙っていた。
そう、「客」の中にはおかしな人間がいっぱいいる。
だが「室」の中で、「神」となった「客」が荒ぶれば荒ぶるほど、狂えば狂うほど禍室に穢れが澱む。
禍室に穢れが溜まれば溜まるほど、神は健やかに清浄になるのだ。
「そんなのは迷信だよ」
里海は縁の顔を覗き込み、細い肩を揺さぶった。
「君が穢れれば穢れるほど、九伊の『神』たちが現世で穏やかに幸福に暮らせる。そんなわけないだろう? 馬鹿げたおとぎ話だよ。君も彼らも人間なんだ。君と九伊家の人は何の関係もない。君が本家に来たって、九伊の人たちは死んだりしないだろうし、ここで君がいくら男たちと寝たって、それで九伊の人たちが元気になるわけじゃない」
「何もないんだ……」
縁は俯いたまま独り言のように呟いた。
「俺があいつにしてやれることは……これくらいしかない」
里海は血の気が引いた顔で、自分のほうを見ようともしない縁のことを凝視した。
それからおもむろに言った。
「縁、本家のお嬢さんが、なぜ僕と婚約したかわかる?」
里海は少し黙ってから言った。
「ここから出て行くためだよ」
里海は言葉を続ける。
「彼女は、九伊家から出て行くつもりなんだ。婚約して親族たちを油断させて、自由を確保したうえで九伊と完全に縁を切る算段をするつもりだ。その見返りに、僕に彼女が継ぐはずだったものを全部くれるってさ。九伊の本家の当主が手に入れられるものを全部」
どこからか湧いてきた原因不明の怒りをみなぎらせて、里海は言葉を続けた。
「すごいよね、長い間、用意周到に色々と考えていたみたいだよ。僕のことも、取引相手として利用できると踏んだから婚約したんだ。僕だってそう思っているんだからお互い様だけどね、大人しそうな顔をして、良家のお嬢様とは思えない冷徹さだよ」
里海は娘への怒りで瞬く眼差しを、縁に向ける。
「彼女は君も捨てて出て行くんだ。君が彼女のためにどれだけ色々なものを捧げているか、人生を犠牲にしたか何も知らずに、いらなくなったおもちゃでも投げるみたいに捨てていくんだ。君はそれでもまだ、彼女のためにボロボロになって尽くすの?」
そうか。
縁は考える。
あいつはここから出て行くのか。
俺の「神さま」は「神さま」じゃなくなるのか。
「神さま」じゃなくなれば、もう禍室の穢れは届くことはないだろう。
あいつは、自分の穢れを自分で引き受けて生きていく。
それまで、もう少しだ。
俺の「神さま」が外へ出て行くまで。
うっすらと微笑む縁を、里海はジッと見つめて言った。
「君が本家の屋敷に来ないなら、僕は婚約を解消する」
縁は顔を上げ、里海の顔を睨んだ。
里海は顔を背ける。
「僕との婚約が解消になったら、彼女はまた一からやり直しだ。僕と同じように『取引』が出来る相手が見つかるといいけれどね、時間はかかると思うよ。その間に、彼女は九伊家から出て行く気力を失くしてしまうかもね」
縁は美しい容貌に、怒りをみなぎらせて怒声を放った。
「ふざけるなよ、里海。お前、破格の話だとか何だとか、さんざん言っていたじゃないか!」
里海は首を振る。
「それは君を守りたいからだ。そう言ったよね?」
そう言いながら、里海は縁を抱き寄せた。
「放せよ」
縁の抗いの言葉など耳に入っていないかのように、里海はその髪に顔を埋める。そのまま苦しそうに囁いた。
「君を守れないなら、九伊の当主の座なんて僕には何の意味もない。あの娘がどうなろうが、僕には知ったこっちゃない。むしろあの子が憎い。君に全てを捧げさせておいて、何も知らないままどこかに行こうとしている」
里海は縁の耳元で呟いた。
「本家に行けば、あの子の父親が死ぬかもしれないなんていうのは、本当は二の次の話だろう? 君は嫌なんだ。あの娘と同じ屋根の下で、僕の恋人として暮らすのが。あの娘に僕の恋人だと思われるのがさ? でも、仕方ないよね。実際、そうなんだから。僕は君と、君があの娘と出会うよりもずっと前から、仲良くやってきたんだから」
里海は、嘲笑うような毒を含んだ声で言った。
「彼女のほうは、大して気にしちゃいないみたいだけどね。そりゃそうだ、あの娘は、自分の物だった『禍室』を……君を、僕に払い下げていくんだから。『神さま』を降りるなら、君のことは必要ないからね。僕が今すぐ君が欲しいって言ったら、すぐにどうぞってくれると思うよ。
彼女が僕にくれるものの中で一番欲しかった物は、縁、君だよ。僕はそのためなら、あの女の足下に膝まづいたって構わない」
「触るな!」
縁は抱きすくめようとする里海の体を、渾身の力で引き離し突き飛ばした。
里海は自分のことを、怒りと敵意に満ちた眼差しで睨みつける縁のことを、半ば寂しそうに半ば悠然と見つめる。
「もし、それでも君がそういうことが気になるのなら、彼女が寮にいる間だけでもいいよ、屋敷のほうにいるのは。彼女が家に帰って来ているときは、ここで過ごせばいいだろう」
縁は怒りと憎悪で青ざめた顔で、里海のことを睨みつけた。
自分にはいつも選択肢がない。
誰かの都合で物のように扱われ、動かされるだけだ。
嫌だと言っても閉じ込められ、今度はここにいたいと言っても引きずり出される。
彼女に誰か別の人間のことが好きなのだ、などと思われたくない。
自分が出来るたったひとつのことで、彼女の役に立っているのだと思いたい。
そう思うことすら許されない。
★次回
神さまに恋するルート
「第22話 夢想・9(縁)~お祓い~」




