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第12話 元型・9(苑)~旅立ち~

1.


 高校一年生の夏休みに里海と初めて会ったあと、婚約の話は順調に進んだ。

 内々に婚約を交わし、苑が二十歳になった時に正式に結納をすることになった。

 苑の父親の体調は、不思議なほど回復していった。

 一時は、一日の大半は意識が混濁していたのに、今は調子がいい日は庭を散歩することさえあった。

 医師も何が原因か分からず、しきりに首を捻っていた。


 里海は、苑が学校で寮生活を送っている間も、頻繁に屋敷に出入りしていた。

 苑が高校二年になる頃には、婚約者兼次期当主として屋敷に住まうようになった。


「これからのことについて、当主と色々と話しておきたいんだよ。あなたと僕にとって何が一番いいかを、ね」


 里海は微笑みながらそう言った。


「何が『あなたと僕にとって』だ。自分のことしか考えていないくせに」


 紅葉は皮肉たっぷりにそう言ったが、苑としては特に実害がない以上、黙って見守るしかなかった。



 2.


 苑が将来のことについて父親から切り出されたのは、高校三年生になってしばらくしてからだった。


「お前がこの家から……九伊から離れたがっているのは分かっている」


 父親はどこか遠いところを見るような目をしながら、静かな口調でそう切り出した。


「私も、かつてそうだった。お前には、私と同じ轍を踏ませまいと、一族のことから出来うる限り遠ざけてきた」


 苑が黙っていると、父親は言葉を続けた。


「出来れば……お前の父親としては、お前をここから出して自由にしてやりたい。里海くんと……好きではない相手と結婚せずとも」


 苑は軽く見開かれた目で、父親のどこか沈んだ顔を凝視した。

 自分との取引を、里海が話すとは思わなかった。

 父親は顔を上げて、真っ直ぐに苑の顔を見つめた。


「お前が本当にここを出たいなら、結婚せずともそう出来るように手を尽くそう。どうだ? 苑。九伊から……この屋敷から出たいのか?」


 すぐには答えられなかった。


 もちろん、この家から、九伊からは離れたい。

 物心がついた時からこの環境にはどことなく違和感があり、その違和感は年齢が上がるにつれ治まるどころか大きくなる一方だった。

 九伊の家系は外の世界とは全く異なる、独自の絶対的な世界だ。

 ここにいると自分というものがいつか呑み込まれ、その世界の一部に過ぎない物になってしまうような恐ろしさがあった。

 自分が自分であるうちに、一刻も早くここから離れたい。

 それは苑がずっと抱えてきた思いだった。


 しかし……。

 自分一人でここを出てしまっていいのだろうか? 


(禍室は『神』のために穢れを払う人であり、穢れを収める場でもある)

(つまり『禍室』が在り、しかも『神』から離れていることによって、『神は成立している』)

(その……禍室、のかたが今もいる、ということですか?)

(いる)

(君が存在しているのが、その何よりの証だよ)


 苑は里海と話したときに思い浮かんだ、禍室の少年の姿を思い出す。

 里海は、あの子はもう苑のことは待っていない、と言っていた。

 苑のことを恨んでいて、里海のことを愛していると。

 それならばあの子のことは、里海に任せておけばいいのだろうか。


「お父さん」


 しばらく考えたあと、苑は口を開いた。


「私はこの家から出たいわ。この家にいると、私は『九伊の一部』に過ぎないものになっていくような気持ちになるの。少しずつ自分の中身が入れ替わっていって、そのことに自分でも気付けないんじゃないかってそんな気がする。その力は余りに大きすぎて、たぶんここにいる限りは私には逆らえない」


 苑はゆっくりとそう話した。

 自分が九伊家をどう思っているかを父親に、いや父親はおろか、誰かに話したのは初めてだった。


「九伊家」は、苑にとっては自分と鉄鎖でつながれた、理解しがたい思考を持つ恐ろしい化物だった。その化物は、こちらが気付かないうちに少しずつ自分を食べ始める。

 その時がきたら、どんな説得も懇願も威嚇も無意味だ。

 それはただそういう動きをする本能しか持たない、『モノ』だからだ。

 怖かった、この家が。


「だから、必ず出て行くつもり」


 はっきりとした口調でそう言ってから、苑は躊躇いがちに付け加えた。


「でも……」


 苑は父親に視線を向ける。


「そんなことが可能なのかしら? お父さんの子供は私一人しかいないし、お父さんの兄弟も(めぐむ)伯母さま一人だけだわ」


 苑は脳裏に、厳格で感情のない顔つきをした、伯母の顔を思い浮かべる。


「伯母さまの子供の誰かに、本家に入ってもらうの?」


 父親の表情がやや強張った。

 父親は少し悩んだ後、小さな声で呟いた。


「それについては少し聞き苦しい話がある。九伊を出て行くと決めているのならば、お前が聞いても仕方がない話だ。聞けば、ますます一族のことに囚われる。『必ず出て行く』と決めたならば、外のことだけに目を向けなさい」


 父親は独り言のように付け加えた。


「そうでないと……私のようになる」


 苑はそれ以上言葉を継ぐことが出来ず黙って頷いた。

 苑が頷くのを確認すると、父親は表情を和らげる。


「勉強を頑張っているようだな」

「薬剤師になって、漢方薬とか薬膳の勉強をしたいの」

「お前は昔から草木が好きだったからな」


 父親は愛情に満ちた眼差しで、苑に向けた。


「大学までは学費と生活費は出そう。大学から出たら、後は自分の力でやってみなさい。この家のことは気にせずに」


 父親はそう言うと、娘のことをどこか眩しそうに見つめた。



3.


 苑が里海との婚約は解消することになった、という話をすると、紅葉はホッとしたような表情になった。

 その表情を見て、想像していた以上に紅葉は里海との婚約を心配していたことに気付き、申し訳ない気持ちになった。


「私、何だかあの人のことを好きになれなかったんです。苑さまのことを全然、考えていなし興味もないことが伝わってきて。そりゃあ取引かもしれないけれど……それでも、顔を合わせている人間同士なんだからもう少し何て言うか……」


 紅葉の言葉に、苑は笑いながら頷いた。

 里海には、表面上の愛想の良さや穏やかさとは裏腹に、興味のないことに対する恐ろしいほどの無関心さ、酷薄さがある。

 だがそれも、「自分の利害が関わらないことには徹底して無関心」くらいの人間のほうが「取引相手」としてはちょうどいいと思っていた。

 実際に里海は、自分の利益が関わることに関しては有能だったし、余計な詮索もしないので気が楽だった。

 だが端で見ていた紅葉は、色々と気を揉んでいたらしい。


 苑との婚約を破棄することが決まったとき、里海は言った。


「僕もあなたも、自分が欲しいものが手に入れられたわけだ。こういう形なのは意外だったけれど」


 里海は苑の顔を見て、半ばおかしいそうに半ば皮肉を込めて続けた。


「苑さんの期待に応えられて、僕も嬉しいですよ」


 それからいつものような、爽やかな笑顔を浮かべた。


「めでたしめでたし、というところですかね」


 苑は、笑っている里海の顔をジッと見つめた。


「あの……里海さん」


 何だかひどく不安な気持ちになり、少し躊躇ってから思い切って言った。


「私が言うのもおかしいかもしれませんけれど、お相手のかたのことを大切にしてあげて下さい」


 苑の言葉に、不意に里海の顔から笑いが消えた。

 里海は表情のない、冷たい眼差しで苑の顔を見つめた。何故かその眼差しを受け止めることが出来ず、苑は瞳を伏せた。


「もちろん大切しますよ」


 里海は苑を見つめたまま、口を動かした。


「そんなこと、あなたに言われるまでもない」


 里海の視線にさらされていると心が冷え冷えとしていき、何か自分がとんでもなく誤ったことをしているような気持ちになった。


 だがそれも一瞬のことだった。

 里海は一瞬前の冷ややかさが幻だったかのような、穏やかな表情に戻った。「苑さんも勉強を頑張ってください」と、柔らかく心のこもった口調で言葉を続けた。



 4.


「ノイは婚約していたのか」


 今まで黙って苑と紅葉の話を聞いていた十谷が、不意に口を挟んだ。


「家柄が立派だと、色々と苦労もあるな」


 労わるようにそう言われた瞬間、心に締め付けられるような痛みが走った。心臓が鷲掴みにされたかのような息苦しさに、苑はたまらず瞳を閉じた。

 その痛みが過ぎ去るのを、嵐が過ぎ去るのを待つかのようにただジッと待ち続ける。

 こわごわと瞳を開けると、目の前に優しく微笑む十谷の端整な容貌があった。

 その顔を見ていると、突然涙がこぼれそうにった。


「十谷」


 目から涙が溢れそうになるのを必死にこらえながら、苑は十谷の名前を呼んだ。


「私はここから出て行ってもいいのかしら? 何か凄く間違ったことをしているような、大切なものを捨てていくような、そんな気持ちになるの。まるで誰かを傷つけているみたいな」


 苑は溢れてきた涙を、必死に手で押さえた。

 なぜ、涙が止まらないのか、自分でもわからなかった。


「こういう時って、誰でもそんな気持ちになるのかしら?」


 すがるような眼差しをする苑を、十谷は静かな眼差しで見つめた。

 それから優しく微笑む。


「ノイ、もし誰かが君の決断の裏で何かの犠牲を払っているとしても、その人はそのことを喜んでいる。君を愛している人は、みんなそう思う。お父さんも、そう言って背中を押してくれたのだろう?」


 頷いた苑の頭の周りの空気を撫でるように、十谷は手を動かした。


「君に自分の人生を歩んで欲しい。幸せになって欲しい。そう思っている」

「うん……」


 ありがとう。


 紅葉が秋になりかけた空を見上げながら呟いた。


「あーあ、でも私は苑さ……んと離れるのが寂しいです」


 苑はどの大学に行くにしても、九伊が支配するこの場所から離れ、別の場所に行くことが決まっている。

 紅葉はこの学園の大学部に進学し、引き続き寮生活をする。

 春になればお別れだ。

 苑はまだ目元に残っていた涙を拭い、紅葉に向かって笑顔を向ける。


「私も寂しいわ、紅葉。落ち着いたら、遊びに来て。連絡するから」


 苑の言葉に、紅葉は嬉しそうに頷いた。


「苑さん、必ずしてくださいね。私も連絡しますから」



 そして春。

 苑は九伊家を離れ、外の世界へ出て行った。




(Normal End1  あなたを置いていく)


(分岐)


 →周回する

「第三章 夢想(縁)~神さまに恋するルート~」


 →六年後、九伊家に戻る。

「第九章 罪悪(苑)~あなたに会いに行くルート~」


 →縁を九伊家に引き取る。

「第七章 揺籃(苑)~あなたと育つルート~」

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