第10話 元型・7(苑)~婚約成立~
1.
「苑さま」
肩を軽くゆすぶられて、苑はハッとした。
現実に焦点を合わせると、紅葉が心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんですか?」
不安そうな戸惑った紅葉の問いかけに、苑は自分が泣いていることに気付いた。
里海も呆気にとられたように苑の顔を見ている。
「ごめん、何だか驚かせちゃったみたいだな。苑さんに責任がある、と言いたかったわけじゃなかったんだ」
里海は、今まで微かにちらついていた苑の無知に対する皮肉や嘲りを和らげて言った。
「つまりね、僕が彼と一緒に生活がしたいということもあるんだけど、それ以上に彼が置かれている環境や押し付けられているものから保護してあげたいんだ」
「押し付けられているもの?」
苑は、溢れてくる涙を拭いながら心配そうに尋ねた。
里海は誤魔化すように笑う。
「九伊の中の差別的な待遇とか、変な風習とか、そういったもろもろだよ」
里海は居住まいを正して、改めて苑の顔を見つめた。
「苑さん、君が言う『取引』の相手としては僕は最適じゃないかな? 僕は最終的には、自分の好きな人と一緒になりたい。そのために九伊の本家の当主の座が欲しい。苑さんは『本家の当主』という物から逃れたい。方向性がぴったり一致している」
里海の眼差しが、苑の表情を探るようなものになった。
「ただもし、苑さんが禍室の彼を保護するのが嫌だというのなら……」
苑は首を振った。
「いいえ、そんなことは思っていません。里海さんのお話が本当なら、凄く申し訳なくて、今すぐにでも来てもらいたいくらいです。お父さんは、私が説得します」
きっぱりとした苑の表情を、里海は少し伺うように下からのぞき込んだ。
紅葉は怪訝に思い、苑のほうへ視線を走らせたが、里海を真っすぐに見つめている苑は気づかなかった。
里海が言った。
「苑さん、その話は僕に任せてくれないか。当主への話は、僕がするよ。たぶん僕から持っていった話のほうが、当主は断りにくいと思うんだ。父親相手に駆け引きするのは、苑さんも嫌だろう?」
苑は目を伏せた。
しばらく考えてから小さい声で呟く。
「そうですね、たぶんそのほうがお父さんは受け入れてくれると思います。里海さんにお任せします」
苑の言葉に、里海は満足そうに笑った。
「じゃあ、これで婚約は成立だね」
苑はその言葉には答えず、ふと真剣な眼差しを里海に向けた。
「あの里海さん、禍室のかたに会わせていただけないでしょうか?」
里海は、少し瞳を細めた。
「会ってどうするの?」
「それは……」
問われて苑は口ごもった。
会ってどうするか? など考えもしなかった。
会いたい、ただ会いたい。
それだけだ。
里海は微かにため息をついて首を振った。
「苑さん、言いづらいけれど、彼は九伊家のことを恨んでいる」
苑は軽く瞳を見開いた。
彼は九伊家を……私のことを恨んでいる?
あの子が?
「公平に見て、無理のないことだと思うけれど」
苑は胸を突かれたかのように唇を噛んだ。
心に浮かぶ、野原で一人で座っている少年を見つめる。その背中はひどく小さく寂しそうに見えた。
そうなの?
私のことを恨んでいて来て欲しくなんかないの?
待ってなんかいないの?
その背中に声をかけると、少年が顔を上げ自分のほうへ振り向こうとした。
「だからね、彼のことは僕に任せておいて欲しいんだ」
里海の声で、その夢想は破られた。
せめてひと言、彼に自分の存在を、自分が彼と話したがっていることを伝えて欲しい。
そう思ったが、言葉にすることは出来なかった。
「……わかりました」
苑はそう小さく呟いた。
この先のことを少し打ち合わせしたあと、里海は帰って行った。
2.
「苑さま、疲れました?」
禍室の話を聞いてから、ずっと上の空でうち沈んだ様子でいた苑に、紅葉は声をかけた。
苑はハッとしたように顔を上げて、微笑んで首を振る。
「ううん、大丈夫よ。紅葉こそ疲れなかった? ありがとう、紅葉がいてくれて心強かったわ」
強いて浮かべているような苑の笑顔を、紅葉は心配そうに見つめる。
しばらく黙ってそうしていたあと、思い切ったように口を開いた。
「苑さま、本当にあの人と結婚するんですか?」
「そうね」
苑は考えこむように呟く。
「悪くない話だと思うけれど……」
「悪くなさすぎる気がします」
紅葉は言った。
苑の意外そうな眼差しを受けて、呟くように付け加えた。
「上手く出来すぎているっていうか……」
苑は大きな茶色の瞳で、紅葉のことを見つめた。
「紅葉は反対なの?」
「反対、ではないですけれど」
紅葉は、自分の心の中を少し探ってから言った。
「あの人、嘘は言っていないかもしれないけれど、何か隠しています。元々たぶん、そういう人なんだと思います。言わなくて済むことは言わないで、ぜんぶ自分で握っておきたいみたいな。その中にはあの人にはどちらでもいいけれど、苑さまには関係あるようなことも含まれているんじゃないか、って」
「そうね」
それは苑も感じていた。余計なことをしないことで、自分の選択肢をなるべく多く確保しておきたいタイプに見えた。
心の底から信頼出来る相手ではないが、里海が言う『方向性がぴったり一致している』うちは、こちらに興味がないぶん悪くない相手だ。
苑がそう言うと、紅葉は渋々頷いた。
既に腹を割った話をしてしまった以上、具体的な引っかかりがなければ里海を選ぶのが現実的だ。
「紅葉、このあとも相談してもいい?」
珍しく不安そうな表情をする苑の言葉に、紅葉は頷いた。
その日の夜、苑は奇妙な夢を見た。
3.
夢の中で苑は、淡い灯りがひとつ灯るだけの薄暗い和室にいた。
目の前には、高価そうな着物を着て髪を結い上げた、美しい少女が身じろぎもせずに座っていた。
薄闇の中で少女の青みを帯びる黒の瞳が、ひどく神秘的に見える。
少女は優雅な所作で苑の前に手をつき、格式ばった言葉で挨拶を述べた。
その声を聞いて苑は驚く。
(お、男の子……?)
★次回
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第11話「元型・8(苑)~夢で逢う~」