「秋茜」
あのあと村紗と一緒に郷巡りをした。別に下心はないがかなり仲良くなれた気がした。まだ引っ越してきて一ヶ月も経っていないが、この調子ならどうにか暇な夏休みも乗り越えられそうだ。
家に帰ると嗅ぎなれたいい匂いがした。その匂いは胃を刺激し空腹を誘う。匂いの奥底に隠し味のコーヒー。
今日の夕飯はカレーだ。それも夏野菜たっぷりマイ母特製カレー。
手も洗わずに食べようとした。
「待ちなさい。まずは手を洗え。そして素麺から食べなさい」
敬語と雑語混じりのよくわからない日本語をしゃべるのは自分の母親だ。小学生の時母の日の宿題で母親の顔を描いたことがあった。
その時一生懸命描いたのにも関わらず、「お前絵下手だなァ。やっぱり私の子よ」って言われたときは嬉しさと悲しさの2つが襲ってきたなぁ。
懐かしい。またあの日に戻りたいとは思わないが、たまには昔は思い出すのもいいもんだ。
「なに浸り顔してんのよ。早く食べないと素麺腐るわよ」
我が母ながら恐ろしいもので、シングルマザーなのに家事も仕事もすべて一人でこなしている。たまには自分も手伝ってやるのだが、
大体が「お前は邪魔になるからいい」で終わるのだ。確かに間違ってはいないのだがもっと言い方があるだろう。
素麺を一瞬で食べ終わりカレーに手を付ける。匂いからはコーヒーが感じられたが、味からはチョコレートの隠し味も感じる。
コクがあるの一言で終わらせるのはもったいないほどの味で、老舗の味というか、歴史ある鍋で作られた伝統のある味というか。
とりあえず美味い。このカレーに慣れたらレトルトなんてもってのほか、母親以外のカレーは食べられなくなる。
ペロリと食べ終わり、おかわりまでしてしまう。食べたあとにやっと満腹であることに気づく。
「ふぅ、食った食った」
そのまま自室に向かおうとするが
「ごちそうさまを言え。作った人への感謝は忘れないこと」
と大声で呼び戻された。口は悪いが人間としてはちゃんとしている。そこがまた良いのだが。まぁつまり少しの欠点を持った完璧超人だ。
*
引っ越す前は昼夜逆転と言ってもいいほどの生活をしていた。もちろん学校なんて行けていなかった。
でも夏暁郷に引っ越してきて自然の力なのか、朝はすぐに起きれるようになり夜は目を瞑ればすぐに寝付けるようになった。
学校にはすぐに行けるようにはならなかったが一週間後には気づけば学校にいるみたいな、そんな漢字で普通の優等生ぐらいにはなっていた。
さて、今日はどんな夢を見るかな。実は密かに村紗の夢を見ることを願っていた。一目惚れだった。自分でも気づいていた。村紗のこと好きかもしれないって。
…………
「お前、堕ちたな」
「お前のこと信じてたのに。序列だと一位だったんだろ?」
「なんで堕ちちゃったんだよ。ルシフェル」
「アダムとイブのことそんな嫌いだったか?」
「もう、お前のことはルシフェルとは呼べないよ」
「今日からはルシファーだ。堕天使ルシファー」
…………
あぁー。確実に村紗の夢じゃなかったな。ガクリと方を落とす。悪夢じゃないとは思うがよくわからない夢だった。
自分のことをルシフェルと呼ぶ人が自分に失望してどこかへ行ってしまう夢だった。いや、これ悪夢だわ。
自分のことを格下に見たそいつが何故か許せなかった。自分のことに失望して自分のことを貶すそいつが何故か許せなかった。
夢であることに安心して母親に呼ばれたので一階へ降りる。
「今日の朝飯は納豆ご飯だ。食べていって」
「……ん……」
「何? 元気ないじゃない。どうかしたの?」
一連の夢を話す。どうせスルーされるかと思いきや、意外と真剣に聞いてくれた。すこし嬉しかった。
「ということで、ちょと元気がないんだよ……」
「ふ~ん。別に夢だから……ってわけにもいかなさそうね。朝ごはん食べて元気出しな」
中学生にもなって母の前で涙が溢れそうになる。ごまかすために目がかゆいふりをして涙を拭く。
その時家のチャイムが鳴る。誰だろうか、今まで聞いたことのない音の長さだ。こんな朝だから宗教勧誘でもセールスマンでもなさそうだ。
母が玄関へ向かう。敬語の話し声が聞こえる。でも結構楽しく会話をしているあたり、目上の人ってわけでもなさそうだ。
すると大声で呼ばれた。もしかしてだけど。もしかするのかもしれない。
予想はあたっていた。玄関に行くと制服姿の村紗がいた。
「あっ、おはようナドゥ! 気持ちのいい朝だねェ! 学校に行こうよォ!」
「おう! ちょっと準備するから待っとれィ!」
やっぱり、村紗と一緒にいるだけで楽しかった。やっぱり村紗のことが恋愛的にも友達的にも好きかもしれない。いや。好きだ。
学生バッグを持って玄関へ走る。一秒でも多く村紗と一緒にいたかった。
母は急に元気になった自分を見てすごく満足そうにしていた。母も村紗のことが気に入っているようだった。
家を出てもずっとずっと村紗と会話をしていた。言葉が詰まることは一度もなかった。昨日起こった出来事、母親のこと、そして夢のこと。
すべてを話した。傍から見たら昨日はじめてであったとは思えないほど仲睦まじかったと思う。
家を出て数分が経ったところだった。なにか異様なものが見えた。それは人間のように見えた。
この田舎には不釣り合いな洋風の姿で、地図を持っており初めてこの郷に来たかのように見えた。
その人の周りだけ時空が歪んだように感じた。女の人だ。アキアカネがその人の肩に止まる。彼女はそれを嫌悪として追っ払うでもなく笑顔で自分の指に乗せた。
見れば見るほど不思議に見えた。この世界のものではないような、でも彼女は自分の目に確かに映っている。
彼女をジロジロ見ているとこちらを振り向いた。もしかして凝視していたのがバレたのだろうか? 下心がないってことを明確にしないと。
村紗の肩を担ぎ、あたかも自分の『女』であるかのように振る舞う。流石にこれには村紗も動揺していた。
「ちょちょちょちょッ! どうしたの急に?!」
「なんでもない。それよりあの人なんだと思う?」
「あの人? あそこに座ってるおじいちゃんのこと?」
「違う! その横。奇抜な格好をした女の人がいるだろ?」
「えェ??? そんな人どこにもいないけどォ……」
村紗には彼女のことが見えていないのか……? 目が悪くて見えないとかじゃなくて、霊的に見えていないんだと思う。だってすぐ横にいるジジイは見えてるんだから。
彼女はどんどんこちらへ近づいてくる。とっさに村紗を守ろうと思った。
「村紗。ちょっと先に学校に行っといてくれ。俺、忘れ物したからさ」
そう言って学校の方を指差す。村紗は戸惑いながらも頷き学校の方へ走っていった。
彼女はそこ数メートルのところまで近づいてきていた。別に殺されるわけでもなさそうだし自分から話しかけることにした。
「あ、あの。すみません。どうかしましたか?」
彼女は自分の頭から足先までをジロジロと見て言った。
「すみませんね。お気になさらず。私少し探し人がいましてよ」
その探し人というのは名前のない、概念のような響きを持っていた。探しているのが複数人かのような。
「その探し人というのは誰ですか?」
「あなたのことですわ。宇奈月美露州さん。」
「…………?!」
なぜ彼女は自分の名前を知っているのか。びっくりして驚きの声が漏れてしまっていた。
村紗にさえ伝えたことのない自分の本名。キラキラネームと言われ軽蔑されてきた自分の名前をなぜ彼女は知っているのか。
「ナドゥさん。と呼んだほうがよろしくて? 私の名前は……秋茜ですわ。本名ではないですが以後お見知りおきを」
彼女は人の本名は言っておいて自分の本名は言ってこなかった。そこには明確な悪意を感じられた。
しかもその秋茜という名前は今とっさに考えたような微妙なイントネーションが含まれていた。語呂の悪さがまた違和感を大きくする。
「探し人とはあなたのことですわ。ナドゥさん。『いずれ傲慢になる方』それが私の探し人でしてよ」
それだとまるで俺がいずれ傲慢になるみたいじゃないか。というかそういうことじゃないか。流石にこれには初対面でも怒ってもいいと思う。
「……かなり失礼な方ですね。私も流石に怒りますよ?」
「これはこれは失礼。でも事実を述べたにすぎませんわ。あなたは『堕天使ルシファー』と何ら変わらない人生を送ることになりましてよ」
「堕天使ルシファー……?」
「私はこれでおイトマさせていただきます。残りの数少ない『健全な余生』をお楽しみなさって」
彼女はそう言うと自分に背を向けてどこかへ行こうとした。聞きたいことが山ほどあったので引き留めようと肩を掴もうとしたが、急にアキアカネが目の前に大量に現れた。
「うぉおぉ!」
と声を上げてしまう。気づけば彼女の姿はなかった。