第1章・5話 春琴の前で三味線を弾く佐助
ある冬の午前四時、鵙屋の奥方・しげが目が覚めると、どこからともなく『冬』の曲を聴こえたのである。
昔は寒稽古といって冬の夜明け、空が白くなる頃に風に吹き曝されながら稽古をするという習慣があったが、道修町は薬屋の多い区域で、堅儀な店舗が軒を列ねていた。遊芸の師匠や芸人等は住んでいなかったのだ。
それにしんと夜も更けた真っ暗闇は、寒稽古にしても時刻があまりに突飛過ぎる。
寒稽古なら撥の音を高く響かせるのだが、微かな爪弾きで弾いている。そのくせ一つのところを合点の行くまで繰り返し練習しているらしく、熱心な様が想いやられた。
しげは大して気にも止めず寝てしまったが、その後も2・3度も夜中起き出でるごとに耳についた。
しげが女中たちに話すと、聴いたという証言がちらほらと出てきた。
「狸の腹鼓とも違うようでござります」などと言う者も出て来て、丁稚を含めた店員たちの知らぬ間に、女性たちの間で話題になっていた。
私は15の夏から秋までは、押し入れで稽古を続けて参りました。
しかし、激しい業務の余暇に睡眠時間を盗んでは稽古するので、次第に寝不足がなり、暖い所だとつい居眠りが襲って来るです。
それに気づかれた試しがないので、大胆になって、三味線を抱えて物干し台に登り、冷たい夜気に触れつつ、弦を弾きました。
午前三時から東の空が仄かに明ける頃までなので、誰にも聞かれないだろと、高を括っていましたが、奥様に聞かれていたのです。
奥様からの注意で、店員が取り調べられると、丁稚仲間が私を庇う理由もないので、すぐに見つかってしまいました。
「自分を芸人にするために、うちに呼んだんじゃござらん!」
「申し訳ありません!」
当然主人に呼び出され、私は大目玉を喰らいました。
「もう二度と弾きません」
そう言って私は、三味線を主人に渡そうとしましたが―。
「聴きとう」
鈴を転がすような言葉が響きました。
部屋にいた主人・奥様・ご子息、私や他の奉公人は声のした方を一斉に向きました。
そこには琴お嬢様が、退屈そうに座ってらっしゃいました。
「佐助どん、弾きなされ」
「ですが……」
私はご主人の顔を伺いました。
しかし、場の長である主人に気を使ったのは方便です。
お嬢様に知られたら、さぞかし機嫌を損ねると恐れていました。
手曳きを大人しくやっていればいいものを、丁稚の分際で生意気な真似をするなと、嘲笑われること間違いありません。
「聴いてやろう」と云われると却って尻込みをしたのです。
「ものは試しや。手放す前にやっても罰は当たらぬ」
奥様までそんなことを言い出すので、逃げ場を失いました。
私は5つ6つの曲を、どうやらこなすまでに仕上げていました。
一度笑われたら、二度三度笑われるのも同じこと。
肝を据えて、精根の限り弾きました。
始めは「黒髪」のような易しいもの、「茶音頭」のような難曲を何の順序もなく、聞き噛りで習った順に弾いていきました。
「本当に独り稽古かい?」
「肝どころは確かや、節廻しも出来とる」
私は弾き終わると、奥さまや女中が口々に褒めてくださいました。
「これなら、お嬢様も……」と思って顔を上げると―。
「痛てっ!」
私は額を押さえました。
扇子が飛んできて、私の額を強にかに打ち付けたのです。
「下手くそ!」
痛みを堪えてお嬢様を見ますと、鬼のように私を睨み突けていました。
「妾の手曳きが下手くそだと、妾が軽んじられる!」
予想通りお嬢様の機嫌を損ねてしまいました。
それも船が一隻も出れないような大時化です。
私は少しでも気を鎮めようと、畳にめり込むように頭を下げました。
すると―。
「妾が直々(じきじき)に手ほどきを進ぜよう」
言葉の意味が分からず顔を上げると、お嬢様は腕を組んで小さな鼻から息を漏らしました。
その日以来、お嬢様は私の三味線のお師匠様になったのです。