第1章・3話 佐助を手曳きに指名する春琴
「お嬢様がまた癇癪起こしなさった! 佐助行ってくれ!」
奉公を始めて一年が過ぎた頃、先輩丁稚が私を呼びに来ました。
奉公人は子供のうちに商品を扱うことはなく、昼間は客の呼び込みや荷物を蔵に運び込む力仕事をします。
今日も私は荷物を収める仕事をしていましたが、主人に許しを得てお嬢様の元へ向かいました。
玄関には奥様とお嬢様がいました。
「佐助どんすまないな、急に呼び出しはって。この子がどうしても、と言って聞かなくてね」
「いえ、主人さんに話をつけてきましたから」
お嬢様を見ると、頬を膨らませて玄関に立っていました。
私の声を聴いても、喜んだ様子ではありません。
これなら他の丁稚や女中でも同じでは。
「奥様、なぜ私なのですか?」
奥様に聞くと、お嬢様が答えます。
「誰よりもおとなしゅうて、いらんこと言わへんよって。もたもたするなか」
ぶっきらぼうに言うと外に出ようとしました。
柱に額を打つけて青瘤こさえられてもいけないので、私は履物を持って裸足で飛び出しました。
思えばお嬢様に『佐助どん』と呼ばれたのは、これが初めてでした。
手曳きをする時、私が左の手をお嬢様の肩の高さに掲げ、掌を上に向けます。お嬢様は右の掌で私の掌を受けました。
お嬢様は「あれしろ」「これしろ」とは言いません。
しぐさで示したり、顔を顰めてみせたり、謎を掛けるように独り言を洩らしたりします。
それに気が付かないと、必ず機嫌が悪くなります。
なので私は絶えず、お嬢様の顔つきや動作を見落さぬよう、緊張しながら傍に仕えておりました。
あたかも「どれだけ注意深いのか」試されているようにも感じました。
お嬢様を師匠の家に曳いてきますと、他にも弟子がおりますから、順番待ちをします。
他の弟子が稽古をつけてもらっているのを、隣の部屋で聞いていると、ある時、お嬢様の姿が見えなくなっているのです。
いつもはお嬢様の顔色を見て、厠に行きたがっていると察したら、厠の戸口まで手を曳いて連れて行き、そこに待っていて手水の水をかけるのが、私の仕事でした。
その日はうっかりしていて、お嬢様が一人手探りで行ってしまったのです。
私は慌ててお嬢様が入っている厠の戸口に赴き、お嬢様を待ちました。
お嬢様が出てきますと、声を震わせながら謝ります。
「すまんことでござりました」
「もうええ」
お嬢様は顔を振り、手を洗うために手水鉢の柄杓を取ろうと手を伸ばしています。
しかしこういう場合「もうええ」言われても「そうでござりますか」と引き退ってはいけません。
後でとんでもないことになります。
無理にでも柄杓を剥ぎ取って、水をかけてやるのがコツなのです。
またある夏の日の午後。
順番を待たないといけないので、お嬢様の後ろに畏まって控えていました。
するとお嬢様が独り言を漏らしました。
「暑い」
「暑うござりますなあ」
私はすぐにお愛想を返しましたが、何の返事もありません。
暫らくするとまた―。
「暑い」
と、お嬢様は漏らしました。
私は偶々持ち合わせていた団扇を取り出し、背中の方から扇ぎます。
すると、納得したようで静かになりました。
ですが、少しでも扇ぎの気が抜けると―。
「暑い」
と、繰り返しました。