62話 既成事実2
〇湊優希
広い講義室の黒板に、教諭が雑な絵を書いて説明している。
今日やるべき講義の内容は終わったらしく、20分前からずっと雑談が続いていた。生物史の講義とは全く関係の無い中国の歴史の話をしている。教諭の趣味全開の話を真面目に聞いているのは、この教室にどれくらいいるのだろうか。他の教科の課題をやっている人もいるし、眠そうな人もいる。興味深そうに聞いている人は今のところ四人見つかった。
(明後日は日曜日)
私は考え事をしているので半分も聞いていなかった。たった今雑談に耳を傾けたところ、どうやら話していた人物がどのように亡くなったのかを話しているらしい。話から察するに、将軍か参謀的な立場の人だったみたい。雑談も佳境に入っていた。
興味が無いので私は黒板を見ながら考え事を再開した。
(家に行くって、言ってたよね)
考え事というのは、遥のことだった。
わざわざ言うようなことではないけれど、私は大学に友人がいない。少し会話をする程度の知人もいない。故にグループワークがある講義は非常に苦労するのだけど、それはさておき。
要するに、ちょっと寂しかった。
夏休みは誰かと会うことが多かったために、この数日は余計に寂しさが際立った。
そろそろ誰かと会って何でもいいので話をしたいなと、私は思っていた。
電話もするけれど、直接会うのとはまた違うのだ。
(早く明後日にならないかな)
今週の講義はこの時間で最後。今日は早く帰って課題を終わらせようと考えていたところで、講義が終わった。
そして、午後5時。
私の家には、何故かなっちゃんが来ていた。
「何しに来たの?」
「えーと、ゆっきー怒ってる?」
「何を、しに、来たの?」
「ゆっきーに会いに来たんだけど……」
「なんで?」
「だって……寂しかったし……」
寂しい。
今、私が痛感しているその言葉を理由にされて、なっちゃんを追い返しづらくなってしまった。
「はぁ、夜ご飯食べたら帰ってよ」
「え?やだよ」
「……は?」
「ほら、ちゃんと泊まる用意をしてきたんだよ!」
そう言ってなっちゃんがバックから取り出したのは、バジャマに下着、タオル、歯ブラシ、充電器、ゲーム……。
「待って。分かった、分かったから、それ片付けて」
「じゃあ泊まってもいいの?」
「……うん、いいよ」
何を言っても無駄だと思って、私はなっちゃんに許可を出した。
「やったー!ふふふふ」
なっちゃんが無邪気に喜んでいるのを見ながら、私は心の片隅で本当にいいのだろうかと不安を覚えた。
「はい、これお土産」
なっちゃんが私に差し出したのはハンバーガーの紙袋だった。中にはハンバーガーとポテトとコーラが入っていた。
「ご飯炊いたのに……」
「食べないの?」
「せっかくだから、食べる」
ご飯は冷凍庫行き決定。
四角の机に角を挟んで隣同士で座る。なっちゃんが紙袋の中身を出し、ポテトを紙の上に広げた。
「それで、どうして連絡してくれなかったの?一言くらいくれたら準備したのに」
「驚くかなって」
「驚いたけど……」
「あ、今日も漫画持ってきたから」
「ああ、ありがと。私も何冊か新しいのあるから」
「サンキュー」
恒例の本の交換。今でこそ交換になっているが、最初はなっちゃんが親に隠れて買った本を私に押付けたのが始まりだった。
私がそれを莉奈と真雪に言ったら、二人も同じことをされた覚えがあったようで、それからお互いの家にあるなっちゃんの本を読み合うようになったのだ。
「そう言えば昔、なっちゃんが私の家にグラビアの本を持ってきたことがあったよね?」
「な、なに?急にどうしたの?」
「なんか、お兄さんのを間違えて持ってきちゃったとか言い訳してたやつ。覚えてる?」
「あ、あれは!本当にアイツのだったから!私のじゃないから!」
「ああ、うん。それでね。なっちゃんは知らないかもしれないけど、私、莉奈と真雪と一緒になっちゃんの本棚を漁ったことがあるんだよね」
「……そ、それで?」
「だから、グラビアの本は違ったかもしれないけど、なっちゃんが成人向けの、所謂薄い本を持ってることは知ってて……」
「………………ころしてください」
「あ、えっと、中までは見てないからね?流石に、見る勇気がなくて」
「うあぁぁ!!しにたい!!しにたい!!めっちゃしにたい!!」
「あはは」
「笑い事じゃないよっ」
「ふふ、ごめん。つい思い出しちゃって」
私が笑っていると、なっちゃんは赤くなった顔で睨みつけてきた。
「あぁ……まじかぁ……」
「でも、もうそういう本も堂々と買える年齢なんだよね」
「そ、そうだね……」
「別にいいと思うよ?なっちゃんが裸の絵を描く時に、そういうのを参考にしていたのも知ってるし」
「ゆっきー、私の事知り過ぎじゃない?」
「莉奈と真雪も知ってる事だよ?」
「そうかもだけど……ごちそうさま」
「ごちそうさま」
なっちゃんはポテトを食べ終わると、コーラだけ残して片付け始めた。私のもついでに片付けてくれる。
「ありがと。燃えるゴミは右だから」
「りょー」
なっちゃんは紙袋にゴミをまとめて、それを丸めるとゴミ袋に投げ入れた。
「とう。……あ、外れた」
「ちゃんと拾ってよ」
「はーい」
食事も終わって、次はお風呂。シャワーで済ませるつもりだったけどなっちゃんが来たからお湯を沸かす。
「お風呂、先入っていいよ」
「あ、うん」
私はなっちゃんが持ってきてくれた漫画を読む。ベッドにもたれかかって漫画を読んでいると、なっちゃんがまだ部屋に残っていて、こっちを見ていた。
「入らないの?」
「や、えと、いっ……」
「……」
「行ってくるね」
なっちゃんがそそくさと部屋を出ていく。そんななっちゃんを見ながら、私は数ヶ月前になっちゃんと一緒にこの家のお風呂に入ったことを思い出した。
あの時は知らなかったが、今はなっちゃんの気持ちを知っている。なっちゃんが私の親友であることには変わらないので、私は一緒に入っても何とも思わないのだけど……。
思い浮かぶのは、遥の姿。
遥は私がなっちゃんとお風呂に入ったと知ったらどう思うだろうか。少なくともいい思いはしないだろう。なっちゃんをこの家に泊めること自体が良くないのかもしれない。
お風呂と言えば、遥も私とお風呂に入りたいと言っていたことを思い出す。遥ともお風呂に入れば、おあいこになるだろうか。いや、遥の言う一緒にお風呂、と言うのは、言葉通りの意味ではないのかもしれない……。
少し顔が熱くなってきて、私は考えるのをやめた。
お風呂に交代で入り、髪を乾かし終えた頃。
時間は8時。寝るにはまだ早い。
「ふぁ……。やば、ちょっと眠くなってきた」
「もう寝るの?」
「……うん。明日もあるし、そうする」
早すぎるけど、横になっていれば寝れるかと思って私も寝ることにした。
いつの日かと同じように、なっちゃんが私のベッドに入る。
「電気消すよ」
「豆電球ね」
「はいはい」
オレンジ色の明かりだけ残して、私もベッドに入る。クーラーをつけているので布団を被るとちょうどいい温かさだった。
「ねぇ、ゆっきー」
「なに?」
「実はまだ眠くないんだよね」
「……どういうつもり?」
なっちゃんが眠いと言うから、こんな時間に寝ることにしたのに。
「ゆっきーこそ、どういうつもりなの?」
「え?」
「……同じベッドに入って、寝れるわけないじゃん」
布団の中でなっちゃんの手が私の手を握る。
ごく自然なスキンシップ。だけど今までのなっちゃんと同じと思ってはいけない。私も過去の経験から学習している。
「寝ないなら、電気つけるよ」
「待って……このままがいい」
なっちゃんが私を引き止める。
「何をするつもり?」
キスでもするつもりなんだろうなと思っていた。
だけど、なっちゃんの回答はその先を行っていた。
「……エッチなことって言ったら、させてくれるの?」
「……へ?」
え??
エ??
私が混乱していると、なっちゃんが体を寄せてきた。
「え、え、や……まっ、まって!」
「うん」
「……ほ、本気?」
「もちろん」
ダメだ。
これじゃあ、今までと同じだ。
だがしかし、あの日、なっちゃんに恋人みたいなことをしたいと言われて、私は拒否をしなかった。拒否しなかった私が、ここでやっぱりダメと言うのは間違っている気がする。
だけど、私には遥がいるから、なっちゃんを拒絶しないのも間違っている。
どっちに転んでも間違いだ。
───そうか。ようやく分かった。
私はあの日、なっちゃんのお願いを受け入れてはいけなかったのだ。拒否しなければいけなかった。
遥を選ぶか、なっちゃんを選ぶか。
これはそういう話なのだろう。
だったら───
「もう、やめてくれない?友達に迫られる私の身にもなってよ」
追い詰められていたからか、その言葉は私の口から澱みなく出てきた。
なっちゃんの家では言えなかった、拒絶の言葉だった。
「いやだよ」
しかしながら、なっちゃんは少しも怯むことなく、そう言ってきた。
「……え?」
「私はゆっきーのことが好きだから、やめないよ」
「や、やめないって…………だから、嫌だって、言ってるの」
「本当に?」
まるで私が嘘をついているみたいに、なっちゃんは私に聞いてきた。
「だから…………だから、遥さんがいるから、嫌なの。恋人がいるの。分かるでしょ?」
「……うん、分かるよ。ゆっきーが言いたいことは」
と、なっちゃんが言ったことで、私は少し気を抜いてしまった。
「分かってるんだよ。私は。分かってるけど、でもさ、分かってても止められないことだってあるんだよ」
そう言って、なっちゃんは私の上に四つん這いで覆いかぶさった。
「私、ゆっきーと恋人になること、諦めてないからね」
「な、なっちゃん……」
「ゆっきーもさ、少しは思ってるでしょ?私となら嫌じゃないって」
「……」
「図星だ」
私は言い返せなかった。
「既成事実」
「え?」
「既に恋人がいるゆっきーと付き合うには、既成事実を作るのが一番だと思うんだよね。ゆっきーも、初めてはまだでしょ?」
「な、なにっ、言って」
そんなことを言われて、体温が急激に上がった。体が熱い。
「んぅ!?」
落ち着く暇は与えられず、私の口はなっちゃんの口によって塞がれた。
私の咥内に遠慮なくなっちゃんの舌が入ってくる。
遥の時とは違って、舌の動きが荒々しい。
それが余計に私の体温を上昇させた。
「やめてっ……ん……だめっ」
「んっ……んなこと、言って……満更でもなさそうだよね」
「そんなわけっ……ん……はぁ」
パジャマのズボンがいつの間にか脱がされている。
上も半脱ぎになっていて、なっちゃんの柔らかい指先が私の肌を撫で始めた。
なっちゃんの手が肌を撫でる度に、体にゾクゾクと変な感覚が走る。
「細い……肌、きれい」
「ふっ、ぁ……あっ」
上半身を中心に、お腹や胸、横腹、背中……、なっちゃんの手は止まることなく、スキンシップと呼ぶには過激なソレが続けられる。
「はっ、ぁ……だめっ、だって……はぁ……はぁ」
「息、上がってきたね……ん」
おかしい。ただ肌を撫でられているだけなのに。
キスだって、いつもと変わらないのに。
いつも以上に、息が上がる。
体がおかしい。
「んっ、あっ……なっちゃん……はぁっ、はぁ、はぁ」
「ゆっきー……んっ……はぁ」
いつの間にか、私は下着まで全て脱がされていた。
「……舐めるね」
「へ?んん!?……やぁ、はぁっ……ん、んんっ……んぅ」
なっちゃんの舌が私の首を這い、手が私の胸を撫でる。
舐めるのはまずい。
もはやスキンシップとは言えない。
こんなの、言い繕える範囲を超えている。
明らかに一線を超えていた。
───なっちゃんには止める気がないんだ。
それに気づいた頃には何もかも手遅れで。
最後まで、なっちゃんの思惑通りに事は進んでしまった。
両目を隠すようにして右腕を顔に置く。
何も考えたくなくて、考える余裕もなくて、私は逃げるように快楽の余韻に浸っていた。
「ゆっきー」
「なに?」
「……やっぱり、私と付き合わない?」
「……それ、今言う?」
「今だからこそだよ」
「……寝る」
「え?」
「おやすみ」
「ええっ?ほんとに寝るの!?」
「うるさい。静かにして」
「えっと……おやすみ」
「うん」
私は握られていた手を離して、なっちゃんに背を向けた。なっちゃんが背中に触れてきたけど、それには何も言わずに私は瞼を閉じた。
 




