59話 バイトの終わり
〇湊優希
告白を断る気でなっちゃんに会いに行ったのに、結局断れなかった。それどころか、よく分からない関係に進展(?)してしまった。
当初の予定では付き合えないということを伝えたらすぐに出ていくはずだった。だけど途中で遮られてしまった。あの時、なっちゃんの部屋に行かずに帰っていれば、少なくともあんなことにはならなかっただろう。
でもなっちゃんの顔を見て、辛そうで泣きそうになっている顔を見て、躊躇してしまった。
あんなにも苦しそうな表情のなっちゃんを見るのは初めてだった。その原因が私なのだと思うと、どうにかできないかと思ってしまった。
私にとってなっちゃんはとても大切な存在だ。こんなこと誰にも言ったことはないけれど、なっちゃんが初めて話しかけてくれた時のことは今でもよく覚えているし、私の友達でいてくれていることをとても感謝している。
もし中学生の時になっちゃんが話かけてくれていなかったら、私は今以上に無口で根暗な人間になっていたと思う。なっちゃんに会うまで、私は学校が苦痛でしかなかったから、もしかしたら、いやもしかしなくても、私は不登校になっていただろう。小学生の頃には何週間も学校を休んだことがあるのだから、ありえなくは無い。
遥には言えないけど、私にとって家族以外で一番に大切な存在はなっちゃんだ。
だから、私はなっちゃんのお願いを断らなかった。なっちゃんの勢いに流されたと言われればその通りで、相も変わらず優柔不断だと自分でも思うけれど、なっちゃんからあんな風に言われてしまっては、私には断れない。
もし遥より先に告白されていたら、私は間違いなく、なっちゃんと恋人になっていたと思う。
私にとってなっちゃんとは、そういう存在だ。
最後のバイトの日がやってきた。
月曜日。
中学校は1週間前に夏休みが終わり、妹の優香ちゃんも今日は学校に行っている。月曜日は元々来客が少ないのだけど、夏休みが終わった平日の今日はいつにも増して客足が少なく感じた。
「優希は今日でバイト終了ね」
やることが無くなったため、遥と氷野さんと私はレジの周囲で座っていた。
「そうだったのですか。だから遥さん、今日は朝から元気がなかったのですね」
バイト中は「なのです」と言わずに、普通に敬語を使う氷野さん。そういえば、彼女には私のバイトが今日までという話をしていなかった。
「来週から大学も始まるので、向こうに帰らないといけないんです」
「湊先輩の大学は早いですね。私のところは、あと2週間は夏休みです。それに私はこの近くの実家から大学に通ってるので、バイトも続ける予定ですよ」
「私もできれば続けたかったんですけどね……。課題もあるだろうし、さすがに毎週帰ってくるのは大変だと思って。ごめん、遥」
「気にしないで。会いに行くから大丈夫よ」
「ラブラブですね〜」
氷野さんが暖かい目でこちらを見ている。
「ふふ、そう見える?」
「はい、見えます」
「うふふ」
遥は嬉しそうに笑顔を浮かべる。
だけど、その横にいる私は複雑な気持ちだった。
三人で会話をしつつ、時折お客さんを接客して、気が付いた時にはバイトが終わる時間になっていた。
「優希」
更衣室で着替えていたところに遥が来た。氷野さんは既に「お疲れ様なのですー」と言って先に帰っていったので、この女子更衣室にいるのは私と遥だけだ。
「来週の日曜は会える?」
「うん」
私の隣で遥も着替え始める。
「この制服、いつ返せばいい?」
「ん?返さなくていいわよ。それはもう優希のなんだから」
「え、でも……」
「ほら、優希も知ってる通り、他にも制服の予備は沢山あるから。またバイトする機会があったら、その時はそれを着てくれないかしら?」
「それなら、うん、分かった」
制服をたたんで仕舞い、ロッカーから私服を取る。
その時、隣から視線を感じた。遥を見ると、遥も私を見ていた。しかしその寸前に遥の視線がどこに向いていたのか、私は見逃さなかった。
「どこ見てたの?」
ちょっとした悪戯のつもりで聞いてみる。
「え……いえ、なんでも……」
遥の動揺が手に取るように分かる。その反応で確信する。やっぱり遥は私の体を見ていたらしい。
胸だろうか?私は平均的なので経験はないのだけど、なっちゃんが男子の視線に不満を漏らしていたことを思い出す。胸じゃないとしたら、お腹?視線を下に向ける。そっとお腹の脂肪を軽くつまんでみるが、体型は変わっていないと思う。
……一応、帰ったら体重計に乗っておこう。
遥が着替え始めたので、私も着替えを続ける。スルスルと布が擦れる音だけが更衣室に響く。
たった今私は何気なく聞いてみたけど、よく考えてみれば遥が恋人として私の体に興味を持っているということを、私は初めて知った気がする。少し恥ずかしくなって、私は考えるのをやめて着替えに集中した。
先に着替え終わったので長椅子に座っていると、遥もほどなくしてロッカーを閉じた。
「お待たせ」
「うん」
遥が私の所へ来たので立ち上がる。机の上の鞄を取ろうとすると遥がさらに一歩近づいてきたので、私は鞄を取らずに顔を上げた。
「優希、その……また、週に一度しか会えなくなると思うと、寂しくて……だから、その、いいかしら」
いつもより熱の篭った遥の瞳が私を捉える。
夏休みの間はバイトの日を含めて週の半分以上は会っていたから、それに比べると週に一度というのはかなり少ない。遥が寂しく感じるのも理解できた。
私が小さく首を縦に振ると、遥が私の背に手を回してきた。私もそっと手を回す。遥の手はいつも私の背中の上の方に来る。肩甲骨か、その少し下辺り。私は肘をあまり曲げず、遥の腰の辺りに触れる。
遥の顔が近づいてきて、私は目を閉じる。
「……」
遥の唇は柔らかい。
最近は遥とのキスにも慣れてきて、最初の頃のようにドキドキや緊張はしなくなってきた。かわりに、心地よく感じるようになってきた。遥とキスをすると落ち着く。
「……はぁ」
小さく息を吐きながら、遥が離れていく。
終わりかな、と思ったら、遥はまだ私のことをじっと見ていた。
まだ終わりではないらしい。
「優希」
「うん」
「……嫌だったら、言ってね」
「?」
私の口はすぐに遥に塞がれてしまい、どういう意味か聞くことができなかった。
でも、遥の言葉の意味はすぐに分かった。
「んっ……!」
遥が舌を入れてきたのだ。
ドキリと心臓が鳴った。ビックリして、ぎゅっと遥を抱く手に力が入る。薄く開いた目をそっと閉じた。
遥も緊張しているのか、私の背中に回された手に力が入ったのが分かる。
私の中に侵入してきた遥の舌が私の舌に絡んできて、その度に心臓がキュッと縮んだ。
「はっ」
少しずつ、息が荒くなる。
いつもの優しいキスではない、激しいキス。重ねるのではなく、触れるのでもなく、唇が押し付けられる。
最初は遥も遠慮気味だったのに、次第に躊躇いがなくなっていった。
遥のキスが上手いのか下手なのかは分からないけど、このキスに不慣れな私の口から時々「ん」と声が漏れる。
遥が舌を動かすと、私のか遥のか分からない唾液がクチュと小さく音を立てる。その音がとても恥ずかしいものに思えて、チュ、クチュ、と音が立つたびに体温が上がった。
はぁ、はぁ、はぁ。
ようやく唇が離れると、荒い呼吸音だけが更衣室に響く。
遥の手がまだ私の背中にあって強く抱きしめられているので、顔の距離は近いままだ。
呼吸が落ち着いてきて、遥は最後に小さくふぅと息を吐いた。
「……日曜日、会えるのよね?」
私がこくりと頷くと、遥は安心したように微笑んだ。
殆ど会話がないまま遥と別れて、今は一人で歩いていた。
あのキスは、今日で二回目だ。
最初の時、私は驚いてしまって、いきなりしないでほしい、みたいなことを言ったのを覚えている。人目につかない場所であれば私はしてもいいと思っていたけど、あれから今日まで遥が普通のキスしかしてこなかったことを思うと、遥は私があの時言ったことを気にしていたのかもしれない。
「はぁ」
暑く感じるのは残暑の気温のせいだけではない。さっきの熱がまだ体に籠っている。でも今日は初めてじゃなかったからか、少しだけ余裕が残っていた───そのせいで余計なことを考えてしまった。
「あ」
別れる間際、遥が浮かべた寂しそうな表情が、先日のなっちゃんに重なった。なっちゃんに押し倒されたときの記憶が蘇る。
思い出した途端、胸が苦しくなった。
なっちゃんとキスをしたことを知ったら、遥は傷つくに違いない。悲しむのか、それとも怒るのか、分からないけど、さっき以上に辛い表情を見せるだろう。
私を嫌いになるかもしれない。あれだけ私のことを好きだと言ってくれる遥が、私に向かって嫌いだと言う光景が思い浮かび、また胸が苦しくなった。
もし、失望されたら。
(失望、か)
そしたら、遥は私のことなんて気にしなくなるだろう。私との関係の一切を断ち切るだろう。私なら、もし誰かに失望したら、そうする。興味や関心が無くなって、関わらないようになると思う。
何も望まなくなるのだから、関わりが途切れるのは自然な事だ。
(望む。遥は、私に、何を望んでいるんだろう?)
恋人であること。デートをしたい、キスをしたい、一緒にバイトをしたい。遥はそういうことをはっきり言うので、何を望んでいるのかが、とても分かりやすい。
失望されるということは、それが無くなるということ。バイトは今日で終了で、キスもハグもしなくなり、会うことも無くなる。
想像しただけで辛くなった。胸の苦しみがより深くなる。
同時に、私の中で遥の存在が大きくなっていたことに気付かされた。
今なら、一週間に一度しか会えないのが寂しいと言っていた遥の気持ちがよく分かる。次に会うのは6日後。その日がとても遠くに感じる。
会えないというのは、思っていたよりもずっと辛くて、不安になる。
(なっちゃんは、どうなんだろう)
ふと、疑問に思った。
なっちゃんは今までずっと我慢してきたはずだ。その時間は遥よりも長い。高校の3年間なんて、ほとんど会えていなかった。私はなっちゃんのことを大切だと思いながら、現実ではとても蔑ろにしてきたのではないだろうか。
考えれば考えるほど、なっちゃんの気持ちに気づけなかった自分が嫌になる。
「……」
体の熱は、とうに冷めていた。
セミの鳴き声が小さくなっていることに夏の終わりを感じながら、私は家に向かって淡々と歩き続けた。




