58話 返事
〇湊優希
「暑い……」
玄関の扉を開けると、外から熱気が押し寄せてきた。天気予報は全国的に最高気温が下がりつつあると言っていたけれど、まだまだ夏の猛暑は健在らしい。
少しでもこの暑さを紛らわそうと、日向を避けて木陰を歩いていく。これから向かうのはなっちゃんの家だ。なっちゃんには事前に連絡してあり、今日は一日暇だということも確認済みだった。
目的はなっちゃんに告白の返事をすること。
私の答えは変わっていない。
〇橙木夏美
「はぁ……」
ゆっきーのことを考えると、どうしても遥さんの姿がついて回る。それが嫌で嫌で仕方がない。胸の辺りがムカムカする。
今日は金曜日。明日は土曜日。
また明日から三日間、ゆっきーはバイトで遥さんと会うことになる。そう思うと、また憂鬱になった。
私はバイト中のゆっきーを殆ど知らない。バイト中のゆっきーは遥さんとどう接しているのだろう。仲睦まじく話をしたり、スキンシップをとったりするのだろうか。更衣室も女同士同じ部屋だろうし、もしかしたら、隠れてキスをしたりも──。
「あー!あーもう、ダメ。だめだめ」
これからゆっきーが来るというのに、こんな気持ちでいたらダメだ。だけど落ち着くのも無理。
こういう時は、ゆっきーの好きなところを思い浮かべるに限る。
まずは顔。超可愛い。ちょっと童顔なところが好き。甘いものが好きなところも好き。特にアイス食べてる時のゆっきーはマジで好き。優香ちゃんと話してる時のゆっきーも良い。お姉ちゃんしてるって感じで好き。一回私に対してもあんな感じで接してみてほしい。姉妹ごっこしてみたい。ゆっきーが姉で私が妹。逆もアリかも。妹のゆっきーに甘えられたい。お姉ちゃんとか言われたい。頭なでなでしてあげたい。実際にやったら恥ずかしがりそう。好き。恥ずかしがってる時のゆっきーは凄く可愛いから最高に好き──
そんなことを考えていたら、インターフォンが鳴った。ゆっきーが来た。
「ゆっきー!入って入ってー」
お邪魔します、と言ってゆっきーが玄関に入ってくる。鍵を閉めて靴を脱ぎ、少し歩いたところで、私はゆっきーが玄関で立ち止まっていることに気づいた。
「なっちゃん、返事、聞いてくれる?」
息を飲んだ。
心臓が止まるかと思った。
実際に心臓は止まらなかったけど、私の体は数秒だけその場で止まった。
聞きたくないと思った。だって、ここで言うってことは、部屋まで行かないということは、既に答えを言っているようなものだから。
でも、私に聞かないという選択肢は無い。
私は振り返って、頷いた。
「なっちゃんに告白されてから」
「あれから、色々考えてみたけど」
「やっぱり、私にとって、なっちゃんのことは友達で」
「だから、なっちゃんとは」
「待って」
考えるより先に、私の口は動いていた。
「中で、話そう」
半ば強引に、私はゆっきーの腕を掴んで自分の部屋へ連れ込んだ。
ゆっきーは抵抗らしい抵抗もせず、大人しく付いてきた。
この流れは良くない。この前の、キスの時に似ている。自分が冷静さを失っていることが分かる。
「……」
ゆっきーが告白を断ることは、告白した時のゆっきーの様子からも分かっていた。
分かっていたけど、それでも、実際にゆっきーの口から言われるのは辛い。だから思わずさっきは途中で止めてしまった。止めたところで、ゆっきーの答えが変わるはずがないのに。
「ゆっきー」
「……ん?」
ゆっきーは今、私と並んでベッドに座ってる。私の右手がゆっきーの左手を握っている。ゆっきーを部屋まで連れてきた時に握っていたのがそのままになっている。
「どうしてさっき、最後まで言わなかったの?」
私は何を言ってるんだろう。遮ったのは私なのに。
「私、ゆっきーが好きなんだよ」
「……うん」
「本当に分かってる?」
「分かってるよ。…………なっちゃん?な、なにっ……!?」
頭ではダメだと分かっていても、気づいたら、ゆっきーを押し倒していた。これにはゆっきーも抵抗してきたけど、不意打ちだったから簡単に倒すことができた。
「ゆっきー、無防備すぎるよ」
「ご、ごめん」
「ねえ、私とは付き合えない?」
「……うん」
「それは私が友達だから?女だから?それとも……」
「遥さんと、付き合ってるから」
「……そう」
ズキンと胸に痛みが走った。
苦しい。
悔しくて、奥歯を噛み締める。
羨ましい。羨ましい。遥さんが羨ましい。
「痛っ!なっちゃん、痛い」
「あ、ごめん」
無意識にゆっきーの腕を掴んでいた手に力が篭っていた。
「じゃあ、私とは付き合わなくてもいいよ」
ポツリと、私は呟いていた。
「……?」
私が突然呟いた言葉を聞いて、ゆっきーがどういう意味か尋ねるように私を見ている。
この時の私は、間違いなくどうかしていた。
──恋人がダメなら、友達のまま恋人みたいなことをすればいいじゃない──そんなことを、本気で考えていたのだから。
「恋人じゃなくてもいいから」
「なっちゃん?ち、ちょっと」
私が顔を近づけると、私から逃れるようにゆっきーが顔を逸らす。その小さな顔に手を添えて私の方へ向けさせ、目を合わせた。
「遥さんと恋人のままでいいから。私は、友達のままでいいから。どうしても嫌なら、止めるから」
ゆっきーの頬に手を添えながら、徐々に顔を近づける。私の視界には、唇をぴったりと閉じてこちらを見つめ返すゆっきーがいた。
「待って」
戸惑いが隠せていなかった先程までと違う、ゆっきーのはっきりとした声に、私は動きを止めた。
「それ以上は、やめて。……やったら、私……なっちゃんと、友達やめるから」
ゆっきーの声は少し震えていて、しかし強くはっきりとした、芯のあるものだった。
ゆっきーは本気なのだろう。
でも、私だって本気だ。本気で、心の底からゆっきーが好き。もう自分でも抑えられないくらいに好き。だから、こうして押し倒したり、この前みたいにキスをしたりしてしまう。
今更引く気は無い。
「お願い」
「……え?」
「私、ゆっきーじゃないとダメなの」
「……」
「どうしても、ゆっきーがいい」
「……」
「でも、ゆっきーは、遥さんがいいんでしょ?」
「……」
「だから、ゆっきーは遥さんと恋人のままでいて」
「……」
「でも、……私、それでもゆっきーのこと、諦めきれないから」
「……」
「ゆっきーのこと、好きでいさせて」
「……」
「お願い」
言いたいことを言い切った私は、ゆっくりと、恐る恐る、ゆっきーに顔を近づけた。
これで拒絶されたら、もう次はない。
「……」
鼻の先が触れるくらい近づいても、ゆっきーは私を止めようとしなかった。
ゆっきーの返事はない。ゆっきーはじっと私のことを見ていた。今も目が合っている。
私はゆっきーに顔を近づけた。
「……」
唇が重なっている。
互いに目を開いたまま、見つめ合いながら、唇が触れ合っていた。
「……」
たった数秒のこと。
一瞬だけキスをして、すぐに離れた。触れただけの短いキス。だけど今の一瞬で、私の心拍数は大きく跳ね上がっていた。離れた今も、どくどくと心臓が脈打っているのが分かる。
「……」
キスの後、僅かな間だけ目を合わせて、私はゆっきーの肩に頭を乗せた。
傍から見れば、私がゆっきーの上で寝ている様に見えるかもしれない。というか、まさにその通りだった。
ゆっきーの上で、ゆっきーの肩を枕にして寝ている。
「……ねぇ」
「ッ」
耳元でゆっきーの声が聞こえて、背筋がゾワゾワした。
「なっちゃんは、どうしたいの?私にどうして欲しいの?」
ゾワゾワをなんとか堪えながら、考える。どうして欲しいか。あらためて聞かれると、言葉にするのが難しい。
「ねぇ、聞いてる?」
「うっ、うん」
耳に息かかって、またゾワゾワした。じゃなくて、答えないと。
「……今みたいな、こういう感じのことを、したい。……たまにでいいから」
恋人ごっこでもいいから、ゆっきーを好きでいたい。
私が答えてからしばらく、ゆっきーは黙っていた。
ゆっきーの上で寝ている私は、ゆっきーの体温を全身で感じながら、自分の心臓の音を聞いて、ゆっきーの次の言葉を待った。
「……最低」
え。
という驚きの声すら出てこなかった。
最低。
ゆっきーの口から出てきたその言葉を聞いて、頭を思いっきり殴られたように錯覚した。
「なっちゃんのやってること、最低だよ」
「ッ……」
さっきまでの熱に浮かされたような気分が嘘のよう。ゆっきーの一言に冷水を浴びせられて、途端に息が詰まる。
「でも……私も、同じくらい、最低だよね」
「……」
「なっちゃんの好きにしていいよ」
「……え?」
「さっき、どうしたいかって聞いたでしょ?それのこと」
「その……いいの?いや、私が言うのもおかしいけど」
「うん。だって、もし今日告白を断っていたとしても、なっちゃんのことだから時間が経てばまた私のところ来そうだし……なっちゃんが、諦めが悪いってこと、よく知ってるから。それならいっその事、最初から許容しておく方がいいかなと思って」
「……そ、そっか」
「それに、あんな風に熱烈にお願いされたら、ね」
「あ、あれは……」
やばい。思い出したらちょっと恥ずかしくなってきた。
「ところでなっちゃん。いつまで私の上にいるの?そろそろどいて欲しいんだけど」
「やだ」
「重い」
「ゆっきー酷い」
「太ったんじゃない?」
「ゆっきーさいてー」
「暑苦しい」
「……実は私も」
「じゃあどいてよ」
「やだ」
「はぁ……」
うわ、また耳に息が。ゾクゾク。
ゆっきーが息を吐く度にゾクゾクするので、私はゆっきーの要望通りに体を起こして、ゆっきーの上に座った。
「ねぇ、ゆっきー」
「ん?」
「またキスしていい?」
「……」
「やっぱ今のナシで」
「なんなの」
「もうちょっといい雰囲気でしたい」
「なにそれ」
ゆっきーが呆れたように笑う。
なんだろう。今までとあんまり変わらない気がする。ゆっきーに嫌われるよりは余程いいのだけど、釈然としない。
そこで、少し踏み込んだ事を聞いてみた。
「ゆっきーは私とキスした時、何を考えてたの?」
ゆっきーの動きが止まる。少し待って返ってきた答えは、なんの面白みもないものだった。
「うーん……何も考えていなかった」
「えー。じゃあ、ドキドキした?」
「……はぁ。押し倒された時からずっとドキドキしてたよ」
「えっ」
つまり。つまりだよ。脈アリってこと?
「何されるのか分からなくて、怖くてドキドキしてた」
違った。全然違った。絶交されてもおかしくなかった。
「ご、ごめんなさい」
「もういいよ。でも、これからはこういうの、やめてよね。今日のなっちゃん、本当に怖かったんだから」
「う、は、はい」
あれ?もしかして私、ゆっきーにかなり酷いことしたんじゃない?
今更ながら、ゆっきーの「最低」という言葉に実感がわいてきた。
「もしかして、ゆっきーが私を止めなかったのって、私が怖かったから?」
「それは違うよ」
恐る恐る尋ねてみたが、ゆっきーは違うと断言した。それを聞いて、少し安心する。
「止めようと思えば、叩いてでも止めたから」
暴力的だ。叩かれなくてよかった。
「じゃあ、どうして?」
何故無理やり迫った私を止めなかったのか。
「……どうしてだろう。なんだか、よく分からなくてなっちゃって」
ゆっきーは、私から目を逸らして、投げやりな感じで答えた。気持ちの整理がついていない、というふうに見えたけど、実際にゆっきーが何を考えているのかは読み取れなかった。
それから「今日は疲れたから帰る」とゆっきーに言われて、私は引き止めることなくゆっきーを見送った。




