50話 ごめん
〇湊優希
「ごめん、ちょっとトイレ」
なっちゃんが早足で出ていったのを見て、再びベッドに寝転がる。
『私、ゆっきーのこと、好きかも』
キスをしたいと言われたからか。それとも、この前遥さんと中学生の頃の話をしたからか。
懐かしい言葉を思い出した。
「まさか……ね」
なっちゃんが急にキスをしたいとか言い出すから、変な想像をしてしまった。
「……暇だ」
手持ち無沙汰になり寝転がったまま横を向くと、机の上の漫画が目に入った。
今回なっちゃんが影響を受けた漫画だ。
「百合……だから私に……、でも普通やる……?」
パラパラとページをめくっていくと、それっぽいシーンがあった。
「これか……」
確かにキスをしていた。場所はベッドの上でもなければ室内でもない、屋外の校舎裏だったけど。
遥さんのことで参考になるかもと思ってそのまま漫画を読み進め、一巻を読み終わったところで、ふとさっきの雑談で思い出したことがあった。
「そういえば、なっちゃんにも好きな人いたんだ……」
今までそんな話は少しも聞かなかったから、もしかしたら大学で出会いがあったのかもしれない。私達に内緒にしていただけで、実は中学や高校の時からという可能性もあるけど。
そんなことを考えながら、なっちゃんを待っていたのだけど、
「遅い」
いくら待っても帰ってこないので、様子を見に行くことにした。
〇橙木夏美
『遥さんに、悪い気がして』
ゆっきーの言葉が私の中でリピート再生されていた。思い出したくないのに、何度も繰り返しその言葉が蘇る。
「っはぁ……」
洗面所の鏡には、顔色の悪い私が映っていた。
水を出し、手を洗った後で、何回も顔を水で濡らした。
そうすることで、熱が冷めていくように、自分が落ち着いていくのを感じた。
「ふぅ……」
何やっているんだろう、私。
あんな軽はずみにキスしようとするなんて、どうかしてる。
今までは、こんなこと無かったのに……。
間違いなく昨日のことが原因だと分かっているけど、だからって、自分がここまでおかしなことをするとは思わなかった。
だから、あそこでゆっきーが止めてくれて、本当に良かった。
「っ……っふ、ぅ……」
危なかった。
さっき、ちょっと泣きそうだった。あんなことで泣きそうになるとか、やっぱり今日の私はどこかおかしい。
情緒不安定だ。
「……」
洗面所の縁に手を置いて俯き、ザーと音を立てて流れる水をぼーっと眺めていると、後ろから音が聞こえてきた。
この足音はゆっきーだ。
「なっちゃん、ここにいたの。遅いよ」
「ごめんごめん。まつ毛が目に入っちゃって」
濡れた顔を拭き後ろを振り返ると、ゆっきーがいた。
「よし、もう大丈夫」
「え、なっちゃん……」
「ん?どーしたの?」
私が聞くと、ゆっきーは遠慮がちに言った。
「もしかして、泣いてた?」
「……え?」
慌てて目元に手をやるも、涙はなかった。
「いや、泣いてないよ」
「でも、目元赤くなってるよ?」
後ろの鏡を見ると、そこにはゆっきーの言った通り目元を赤くした私がいた。
「これは、あれだよ。目を擦ってたらこうなっちゃって」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「ちょっと、ちゃんとこっち見て」
その言葉に従って振り向くと、心配そうな顔をしたゆっきーが私を見ていた。
「……やっぱり、泣いてたでしょ」
「泣いてない」
顔を見られたくなくて、下を向いた。
「そんなにキスしたかったの?」
ゆっきーが冗談っぽく言う。
「違う」
「じゃあ、何か嫌なことがあった?」
「……違う」
「あったんだ」
……心が見透かされているのだろうか。
こういう時ばかりは、長年の付き合いも厄介に感じてしまう。
「何があったか、聞いてもいい?」
「それは……」
「言えない?」
言えるわけがない。
「もしかして、私のせい?……ってこれ、聞かれても困るよね。ごめん」
「……」
違うって言いたかったのに、上手く言葉が出てこなかった。
「えーっと……なっちゃん?」
「っ……!」
体がビクッてなった。
急にゆっきーの手が伸びてきたからだ。
顔を上げると、ゆっきーと目が合った。姿勢が少し前屈みになっているのは、俯いてばかりだった私の顔を見ようとしたからだろう。
「やっぱり泣いてる」
「え、……あ、うそ」
言われて初めて気づいた。
いつの間にか、私はまた泣いていたらしい。
自分が泣いていることに気づかないとか、今日の私、本当にダメかもしれない。
「……違うの、これは、……っ!」
慌てて涙を拭っていたら、突然、頭がゆっきーの胸元にそっと引き寄せられて、抱きしめられた。
「ごめん、なっちゃん。……多分私が原因なんだってことは、わかるの。いつもそうだったから、今回もそうなのかなって。でも何が悪かったのかは分からなくて……私の見当違いだったらいいんだけど。……ごめん」
私を抱きしめながら、ゆっきーは謝っていた。
……やばい。
今こんなに優しくされたら、本当に収拾がつかなくなる。
もう既に、涙が止まらないというのに。
なんとか堪えようとして、ゆっきーを抱きしめる手に力がこもる。
「う、うぅっ……ぐすっ……」
今ここで全て告白してしまえば。
そう思った。
今までは、これまでは、言わなくてよかったのかもしれない。でも、遥さんが現れて、今まで通りにはいかなくなって……だとしたら、目を逸らすのは止めて、私も変わらないといけないのかもしれない。でも、どうすればいいのか分からない。
頭の中でぐるぐると思考が渋滞していた。
「ゆっきーの、せいじゃない」
時間の感覚があやふやで正確には分からないけど、多分二、三分くらいして、私はようやく落ち着いて話せるようになった。
顔を上げると、未だに心配そうな顔をしたゆっきーがいた。心配そうで、そして優しい、私の大好きな表情だった。
それを見て、もうこれ以上は無理だと思った。
「ごめんね、ゆっきー」
「え?……!」
意図の不明な謝罪の言葉を口にして、私はゆっきーにキスをした。
勢いに任せて、泣きながら。
目を白黒させて混乱しているゆっきーを見て、なんだか可笑しな気分になり、その後に、そういえば目は閉じた方がいいのかと思って目を閉じた。
目を閉じると、重なった唇の感触がより強く感じられて、幸せだと思って、また涙が出てきた。六年間の我慢を一気に解放するように、無我夢中で唇を重ね合わせた。
ゆっきーは今どう感じているのだろう。私のキスは下手なんだろうなと思って、比べる相手が遥さんだと気づき、一人で落ち込んだ。
もう、滅茶苦茶だった。
しばらくして、少し目を開けるとゆっきーと目が合った。
目を逸らし、ゆっくりとゆっきーから離れた。
「ごめん……」
再びゆっきーの方を見た。
ゆっきーは、一言も発さず呆然としていた。
その様子を見て、急速に、私の中で熱が冷めていくのが感じられた。
「あ……」
熱に浮かされたみたいな気分は、冷や水を浴びせられたように冷え切って──そして、後悔が襲ってきた。
やってしまった。
なんてことを。
私、馬鹿だ。
いきなりキスするとか。
──もう取り返しがつかない。
「ごめん……」
声は震えていた。
涙はもう涸れたのか出てこず、ゆっきーと目を合わせるのが怖くて下を向いた私は、早足で自分の部屋へと向かって布団に籠もった。
私はいつの間にか眠っていて、起きた時にはゆっきーは私の家にいなかった。
 




