33話
〇湊優希
「よろしくお願いします、先輩。私は氷野小織、なのです!」
「…………湊優希です。よろしくお願いします」
「氷野さんも優希さんと同じシフトになったの。一日分の差はあるけど、二人ともバイトは初めてということだから、お互い助け合ってやっていきましょうね。じゃあ、氷野さんは──」
挨拶を済ませたところで、遥さんは氷野さんと話し始めた。私の声に抑揚がなかったのは、私が驚いていたこととは一切関係ない。むしろこっちが私の普通と言える。
では私が何に驚いていたかと言うと、氷野小織と名乗った彼女が……。
……なんだっけ?何か、何となく、彼女を見た瞬間驚いたはずだったのだけど……私は、何に驚いていたのだろうか。思い出せない。ということは、大したことではなかったのだろう。
それはさておき、これはあまり歓迎したい展開でなかった。他のバイトがいないからこそ、月曜日は気楽に仕事ができたのに……。
「じゃあ、そろそろお店開くわね」
遥さんが外へと出て、CLOSEDからOPENへと裏返す。
営業開始だ。
氷野小織。
彼女の容姿の特徴として挙げられるものの一つは、身長だろう。
クラスの女子の中でも下から数えて片手で足りるくらいの身長である中学二年生の私の妹、優香ちゃんよりは流石に大きいが、高校生にしては小さい。しかしありえないほど小さいという程ではないし、バイトができる年齢ということは、彼女が高校生以上なのは確かだった。
彼女の制服は、私や遥さんと同じものではなかった。サイズがなかったらしい。
では何を着ているかと言えば、私が先日着せられそうになった服のうちの一着。一部にフリルが用いられたワンピースタイプのエプロンドレスだった。色は私達に合わせたのか黒色。所々に付いているフリルとエプロンドレスの内側の服は白色。
色合い的にはメイド服を連想させるが、メイド服では無い。
しかし元々の身長とその可愛らしい制服が相まって、実年齢以上に幼く見える風貌となっていた。中学生を名乗っても通用する、むしろそっちの方が自然なくらいだろう。
仕事の様子も、最初の挨拶で「なのです」とかいうあからさまに違和感のある語尾をつけていたとは思えないほど真面目に取り組んでいた。仕事中は「なのです」も無かった。やっぱり、分かりきってはいたけれど普通に話せるらしい。
今日は初日ということで、先日の私と同じように最初は遥さんについて回っていた。
そして──
「湊先輩!お昼ご一緒してもいいですか?なのです」
いや、なのです、おかしすぎるでしょ。
というツッコミは、私にはハードルが高すぎたため、喉元まで出てきたものの飲み込まれた。
「ええ」
私のことを湊先輩と呼んだ氷野さんに、短く返事をする。
ちなみに、この喫茶店『Breaker house』───ブレイカーというと、私はどうしてもスターライトブレ〇カーを思い出してしまうので、随分物騒なイメージのある店名に聞こえてしまう───とにもかくにも、この喫茶店ではバイトの私たちにもまかないが出る。メニューはランダムだが、コーヒー、または紅茶が付く。デザートもよく出る。名前のイメージに反して、従業員への心配りが行き届いている喫茶店だった。
私の正面にまかないを載せたお盆を置いて座った氷野さんだったが、それから何故か、彼女は何もせずにこちらをじっと見つめてきた。
私に何か、話でもあるのだろうか……?
私たちが今いるこの休憩室には現在、私たち以外に人は居ない。最初は我関せずと無言で食事を続けていたが、いつまで経ってもこちらを見続けてくる氷野さんの視線と室内の静かさに、とうとう私は耐えきれなくなった。
「あの、氷野さん……?」
「あっ、ごめんなさい……なのです」
「いえ」
私が呼びかけると、すぐに彼女は見つめるのをやめて食事を始めた。
一体なんだったのだろうか?
気になったけど、初対面の氷野さんと会話が弾むはずもなく、というかその後は一切の会話も発生せず、互いに無言で黙々と食事を続けた。食事を終えて退席することで、私はようやくこの場を逃れることができたのだった。
「お疲れ様、優希さん」
バイトが終わり、更衣室のソファーで少し休憩していた私に話しかけてきたのは遥さんだった。
今日はずっと氷野さんに付きっきりだったので、遥さんとはあまり話せていなかったなと、そんなことを一瞬思った。
「遥さん。お疲れ様です」
「……?何だか優希さん、本当にお疲れって感じね。どうかしたの?」
鋭いな、と素直にそう思った。
「そうですね。気疲れというか……何と言えばいいんでしょう」
「……もしかして、新しく入った氷野さんのことかしら?彼女と何かあった?」
遥さんは私に質問しながら、ごく自然に私の隣に座った。
ちゃっかり私との隙間が無いくらい近くに座っているのは、遥さんらしく、そしていつものことだった。
そこまで近くに座っておきながら、何もしないのもまた遥さんらしい。
「いえ」
しかし、今日の遥さんは、そこで終わらせる気はないらしかった。
「遥さん?……え、きゃっ……!」
いつの日かの再現のように、私はソファーに押し倒されていた。
あの日と明確に違うことといえば、遥さんの意識がはっきりしていることだ。
突然過ぎて、思わず私らしくもない悲鳴をあげてしまった。
「優希さんも、そういう声を上げるのね」
言わないでください。
「可愛い」
言わないでください!
「……いきなり、どうしたんですか?」
「優希さん、元気がないみたいだったから、元気をあげようと思って……」
「……」
それで元気が出るのは、私より遥さんの方ではないでしょうか。
「……いえ、ごめんなさい。今のは嘘よ……。その、今日は氷野さんに教えることがあったから、優希さんと一緒にいられなかったでしょう?だからというか、それで、思わず……」
私が無言のままだったことを何か勘違いしたのか、遥さんの様子がだんだん弱々しくなっていく。
これではまるで、私が遥さんを責めているみたいだった。
そう思われるのは私としても不本意だ。
「それで、どうするんですか?」
「えっと……いいの、かしら?」
口で答える代わりに、私は目を閉じた。
こんな誰が来るか分からない所で、という思いもなくはなかったけど、この場の雰囲気を壊すには至らなかった。
暗い視界の中で遥さんを待っていると、口より先に、私の左手に遥さんは触れてきた。恋人つなぎのように、私の指と指の間に遥さんの指が滑り込み、握られる。私も、その手を握り返した。
そしてその直後、遥さんの唇が私のに重ねられた。
最初は触れるだけ、次は啄むように、挟んで、また触れて──離れた。
もう終わりか、と一瞬思ってしまったが、しかし違ったようで、数秒の間を置いて遥さんは再び私にキスをした。
また最初は触れるだけ、次は舐められて──舐められて?
舐められた???
突然の事で頭が真っ白になってしまったが、その間遥さんは何もせず(唇は重ねられたままだけど)、止まっていた。
そして、何を思ったのか、あるいは今の間に私の反応を確かめていたのか、遥さんは再び私の唇を舐めた。
そして、私が驚く間もなく、遥さんは次の行動に移った。
「んっ……!?」
思わず声が漏れる。
一瞬の身じろぎの後、体が硬直し、遥さんの手を握る左手に力が入った。
「んくっ……ふっ、んぅ、ん……」
舌だ。
頭の片隅で、これが所謂ディープキスとかフレンチキスとかべろちゅーと言われるあれかと理解しながら──しかし、そんな僅かな思考も瞬く間に出来なくなり、遥さんのするがまま、されるがままに、私は蹂躙された。
「……遥さん」
「……はい」
「時と場所を考えてください」
「……はい」
「普通のキスならともかく、アレは……その、ここでは、ダメです」
「……ごめんなさい」
「……いえ。分かってくれたのなら、別にいいんです。私も言い過ぎました。次からは気をつけて下さい」
「次も、いいのかしら……?」
「……す、好きにしてください」
〇氷野小織
「う、うそ……」
ただならぬ気配を感じて更衣室のドアを開けきる前に手を止めることが出来たのは、まさにファインプレーだった。自分を褒めてあげたいくらい。
扉が音を立てなかったのも幸運だった。
かくして偶然を積み重ねた私は、僅かに開いた扉の隙間から中の様子を見ていたのだけれど。
「あの二人って、そういう……」
まさか、彼女がそういう関係を築いていたとは思いもしなかった。
「の、覗き見は、良くないよね……うん。ご、ごゆっくり〜」
次からどういう顔をして二人に会えばいいのだろう。
早くも、ここでバイトを始めたことを後悔しかけていた。
(顔熱い……。結構激しかったなぁ。でも、そうだよね。もう大人だしね……。あれくらい、するよね……。顔熱い……)
バイトの制服のまま外に出てきてしまったことに気づいて、おそるおそる更衣室に戻った時には、二人は何事も無かったかのように会話していたのだった。




