31話
〇湊優希
月曜日。
あれほど緊張していた挨拶も、終わってしまえば呆気ないものだった。そう思えるほどの受難が、その後私に降りかかった──朝八時という早い時間に来て欲しいと言われた時点で予想できなかった、そして確かめなかった私がいけなかったのだろう。
黒咲さんの家族への挨拶もそこそこに二階のウォークインクローゼットへと連行された私は、一時間近くもの間、黒咲家の女性陣に囲まれ着せ替え人形をさせられる羽目になったのだった。
黒咲さんによる仕事のレクチャーが始まったのはその後のこと。
言葉遣いや注文のとり方などを手取り足取り、懇切丁寧に教えてもらい、三十分もすれば一応の合格が認められた。
「ちょっと笑顔がぎこちないけど……それ以外は概ね問題なさそうね。飲み込みが早くて助かるわ。あとは、声が小さくなりすぎないように、そこだけは意識してね。
最初は私と一緒に接客をして、慣れてきたら一人でやってみましょう。今日は平日だし、そんなにお客さん来ないはずだから、落ち着いてやれば大丈夫よ」
さっき実践的な練習(黒咲さんをお客さんとして。その時の黒咲さんは終始にこやかだった)をした時に「いらっしゃませ」などの声が小さかったので、黒咲さんはそのことを言っているのだろう。
とにかくこれでレクチャーは終了。
開店まであと二十分。
先程決定したばかりの自分の制服に着替え終わり、更衣室を出ようとしたところで、黒咲さんが入ってきた。
「……黒咲さん」
「あ、また間違えてる。そうじゃないでしょう?」
にこにこ。
私の間違いを指摘し、楽しげに笑う黒咲さん。
私をからかっているのだろう。
「そうでしたね……その、遥さん」
「ええ」
にこにこ。
今度は嬉しそうに、黒咲さん──遥さんは笑った。
以前名前呼びを拒否した私だが、周りに『黒咲さん』が何人もいる状況で続けるのは流石に無理があったのだ。
「その服、よく似合っているわ」
「……ありがとう、ございます」
一時間の着せ替えの果てに私が身に纏うことになったのは、結局黒咲さん……ではなく遥さんのと同じ制服だった。クローゼットの奥の方から出てきたのだが、せっかくだからなどとよく分からない理由で着させられたところ、お揃いの方が統一感があっていいということでこの服に決まったのだ。
個人的にも、この制服は派手すぎずシンプルで好みなので良かったと思っている。
「でも、やっぱり優希さんにはもう少し可愛い服を着て欲しかったわね。せっかくあんなに余らせているのだし……優希さんさえ良ければ、予備ということであと何着か持っていっても構わないのよ?」
話しながら、室内のソファーに座る遥さん。私の方を見ながら自分の右隣をポンポンと叩く彼女を見て、私はそこに腰を下ろした。
私が座った瞬間、遥さんによって僅かにあいていた隙間が埋められる。
「いえ、遠慮させてください。あれは私には無理です」
「そうかしら。絶対似合うと思うのだけれど」
「例えそうだとしても、私は着ませんので」
「どうしても?」
「……確かに、先程勧められた服の中には私が着たいと思うものも何着かありましたが」
「ほんとっ!?」
「ですが!黒……遥さんが勧めてきたやつは、絶対に却下です。途中でメイド服を紛れ込ませようとしたの、私は見ていましたからね」
「え、えぇ〜とぉ」
しどろもどろ、と言うよりはイタズラがバレた子供のように目を逸らす黒咲さん。
それの前に、私が遥さんと名前を呼んだ時、ちょっと嬉しそうにしていたのを私は見逃さなかった。見逃さなかったところで何かがある訳でもないが。
「それから、普通の制服だと思って着てみたらミニスカートだったり」
「……」
「挙句の果てには、猫耳フード付きのパーカーとか、ありましたよね。何ですかあれ?もはや喫茶店の制服どころか、外で着る服ですらありませんでしたよ?屋内でも着ませんけど」
「……ダメ?」
何を血迷ったのか、わざとらしい上目遣いでこちらを見つめてくる遥さん。様になっているのは、さすがと褒めるべきなのか。
しかし付き合っているとはいえ、同性の私相手にそんなあからさまなアピールの効果があると思っているのだろうか?
「そんな手が通用するとでも……?」
「む……じゃあ、どうしたら優希さんはあの服を着てくれるのよ……?」
「そんなに私に服を着せたいのでしたら、せめて遥さんも私と同等の羞恥心を覚える何かをしてください。話はそれからです」
「っ!今、言ったわね。二言はないわよね、優希さん」
私の肩を掴み、鬼気迫る話し方をする遥さん。
「え?」
パッと隣を見れば、ゴゴゴゴゴという効果音が背景に見える勢いで、こちらを凝視する遥さんがいた。
「私も」
「えっと、遥さん?」
名前呼びにもそろそろ慣れてきたが、しかしそんなことを言っている場合ではなかった。
「私も、メイド服を着るわ」
「は?」
「ミニスカも履くし、猫耳フードだって被るわ」
「なにを……」
「だからっ……!だから、優希さんも、一緒に……ね?」
その時私は、自らの失言を一字一句思い出した。
『そんなに私に服を着せたいのでしたら、せめて遥さんも私と同等の羞恥心を覚える何かをしてください』
ということは、要するに。
「…………黒咲さん、自分で恥ずかしいと思うようなものを、私に着せようとしていたんですか?」
「ええ」
まじかこの人。実はSなの?
「でも、遥さんも着るとして……本当は平気で着れるけれど、私を辱める為に羞恥心を覚えているふりをしているとか、そういうことも有り得ますよね」
「……確かに、その通りね。でも私、優希さんに嘘はつかないわ」
この人、あくまでもこの方法で話を進めるつもりなのか……。
「じゃあ、遥さんが本当に恥ずかしがっているのかを確かめるために、猫耳フードのあれ、確認用ということで一度着てみてください。勿論フードも被って。そして写真を撮ります。それを見てから判断します。遥さんが恥ずかしい振りをしているだけだったら、この話は無しです。
どうします?着ますか?猫耳フードパーカー」
「……そ、それってつまり、優希さん次第では、私が本当に恥ずかしがっていても、そうじゃないということになりかねないわよね……?」
「そうですね」
「……わ、私、優希さんは誠実で優しい人だって信じてるけど……で、でも、今回ばかりは……優希さんの前で、あれを着るなんて……」
……なんかもう、その言葉を聞くだけで遥さんが本当に恥ずかしがっているのが伝わってきた。これで演技だったら、遥さん凄すぎである。
というか、『あれを着るなんて』とか言うくらいなら、私にその服を着させようとしないで欲しい。
「……この話はもうやめましょう。これ以上は、お互い悲惨な目に遭うだけです」
「そうね……」
「ところで、優希さんにプレゼントしたいものがあるのよ」
「言い方を変えても無駄ですよ」
喫茶店開店まで、あと五分。
 




