30話
〇湊優希
私と黒咲さんは、よく電話をする。
私が夏休みに入るまで、つまりは実家に戻ってくるまで、週に一度しか会えなかった私たちが電話を多用するようになっていったのは、ごく自然なことだった。
電話をかけてくるのは黒咲さんから。
時間は夜の十一時頃。
特に決めたわけではないが、いつしかそれが日常となっていた。
頻度は一日おきだったり連日だったりで結構まばら。だが、三日以上空くことはほとんどない。
即ち、ほぼ毎日のように私と黒咲さんは電話をしていたわけだが、私は黒咲さんと話すのが好きなので(そもそも付き合うと決めた動機は黒咲さんとの会話が楽しかったからだ)、飽きることも嫌だと思うこともなかった。
黒咲さんも話している時は楽しそうだし、多分そんな感じだと思う。
しかし。
この前黒咲さんの家に泊まった日から──黒咲さんとキスをしたあの日から今日に至るまでの四日間、黒咲さんから一度も電話がかかってこないという事態が発生していた。
いや、黒咲さんは今頃旅行に行っているはずだから、それで電話をかけてこないのだろうとは分かっているのだけど、それでもここ数日は、物足りなさを感じずにはいられなかった。
旅行中の黒咲さんの邪魔をしたくないので、理由もなく私の方からかけたくはないし。そう思って、今までは電話をかけなかった。
しかし理由があるのならば電話をかけてもいいのではないかと──理由、もとい大義名分を手に入れた私は、そんな甘い誘惑に唆されそうになっていた。
大義名分。
それは黒咲さんに誘われていたバイトの話のこと。
そう。お母さんにお小遣い永久停止宣言をされてしまった私は、意を決して、保留にしていた黒咲さんからのバイトのお誘いをお受けすることにしたのだった。
そのことを理由にして電話をかけるか、それとも旅行から帰ってきた黒咲さんから電話がかかってくるのを待つか。
私は今日、主にそんなことを考えながら、そんなことだけを考えながら過ごしていた。
ちらっと時計を見る。
時刻は、23時00分。
いつの間にか、今日も残り一時間となっていた。
もう今日が終わるなんて、早すぎる。そんな驚愕を抱いていた私に不意打ちをするかのように、その音は鳴った。
〜〜♪〜〜♪
「ふわっ!?びっくりした……って、黒咲さん……!」
黒咲さんだった。
そう理解すると同時に電話に出る。
『こんばんは、優希さん。夜分遅くにごめんなさい。今、時間あるかしら』
聞き慣れた声が聞こえてきた。いつもより挨拶が丁寧なのは、数日の間が空いたからだろうか。
「はい、こんばんは。黒咲さん。時間なら大丈夫ですよ」
『そう、良かった。それからごめんなさい、しばらく電話をできなくて。今日ようやく旅行から帰ってきたのよ』
「そうだったんですね」
『それでね、優希さん。お土産があるから渡したいのだけど、明日とか、あいているかしら?』
「お土産ですか?嬉しいです。ありがとうございます。明日ならあいていますよ」
『そう、良かったわ』
「実は、私の方からも話があったのでちょうど良かったです」
『話?』
「この前のバイトの話なんですけど」
『あ、あれね。……どうなったのかしら。その、無理なら』
「いえ、やらせてください。黒咲さんのお店のバイト、やりたいと思います」
『ほ、ほんとに!?いいの?』
「はい。むしろ、こっちからお願いしたいくらいです」
『ありがとう、優希さん!そういうことなら、色々と準備しておきたいから、詳しい話は明日ということでいいかしら?』
「はい、いいですよ」
『時間は──』
午前十一時に黒咲さんの家の喫茶店で。
明日の約束をした後、最後におやすみの挨拶をして、今日の電話は終了した。
CLOSED──営業時間外を示す札がかかった扉を開けると、カランカランという音が店内に響いた。
時刻は午前10時50分。
約束の十分前だが、すでに店内にいた黒咲さんから窓越しに手招きされた私は、喫茶店の中へと入っていった。蒸し暑い外とは打って変わって、店内はひんやりと涼しい空気に満たされていた。
お店が今日までお休みだということは黒咲さんから聞いていたので、店が閉まっていることを疑問に思うことは無かった。
「いらっしゃい、優希さん」
「こんにちは」
カウンターの向こうに立つ黒咲さんと挨拶を交わす。
自由に座って、と言われてカウンターの席の一つに腰をかけたところで、黒咲さんの服装に目が止まった。
カウンターに遮られて近づくまで気が付かなかったが、今日の黒咲さんは私服ではないようだ。
「黒咲さん、その服は……?」
「あ、気づいた?これ、うちの喫茶店の制服なの。どうかしら?」
黒咲さんはカウンターを出て、私から全体が見えるように制服を披露する。
上は白シャツ、下は膝下まである黒のエプロン(カフェでよく見るやつ)という姿だった。個人的にはシンプルでいい制服だと思う。着ているのが美人の黒咲さんだから、いい感じに見えるのかもしれない。
「似合っていますね。私もそれを着るんですか?」
「ううん、優希さんには別のがあるわ。制服と言っても、うちは特にこれと決めたものがある訳では無いから、優希さんには余っていた制服の中から特に良いものを用意しておいたの。あ、余っていたと言っても変なのじゃないから大丈夫よ。うちの母と祖母が店員が増えたとき用にとか言って、着る人もいないのに服だけ多く発注しちゃって、それで余っていたの。きっと優希さんにも気に入ってもらえると思うわ」
そこまで言われると、どんな服か興味が出てくる。本当に変な服は論外として、可愛すぎたりオシャレすぎない、黒咲さんのようなシンプルな服がいいのだけど。
「そうなんですか。それ、今見れますか?興味あります」
「ええ……いや、やっぱりやめておきましょう。当日までのお楽しみということで」
「えー……」
「ふふ、冗談よ。実を言うと、最終候補までは絞れたのだけど、それからどの服にするかが決まっていなくて。母と祖母が、実際に優希さんを見てから決めたいと言っているのよ。
だから……無理にとは言わないけれど、もし良かったら母と祖母に付き合ってもらってもいいかしら。今日は二人ともいないから、当日に」
ここでバイトをすると決めた以上、黒咲さんのご家族とのご対面は避けられないと思っていたから、それはいいけれど……。
そうとなると、黒咲さんに確認しておかなければいけないことがある。その返答次第では、ご対面の重要度が全く変わってくるのだから。
「分かりました。……それより、黒咲さんは私たちが付き合っていること……ご家族には、お話しされたのでしょうか」
内容のせいで、変に固い言い方になってしまった。
「い、いいえ。全然、言ってないわ。……その、話しておいたほうが良かったかしら」
「いえ!私も言ってないので、お互い様です。その、簡単には言えないことですし」
「そうよね!……よかった」
「じゃあ、私と黒咲さんの関係は……友人、とかがいいですかね?」
「ええ、それが一番無難で良いわね。そうしましょうか」
「はい」
「あっ」
ふと、なにかを思い出したのか、今まで私の正面で会話に興じていた黒咲さんが突然しゃがんで、カウンターの下に消えた。
再び私の視界に現れた黒咲さんは、その手に持っていたものを私に手渡した。
「はい、優希さん」
「これは……メニューですか」
「ええ、今日はお店はお休みだけど、せっかく来てくれた優希さんにご馳走しようと思って。サービスだからお代はいらないわ。何でも好きなものを選んで……と言いたかったのだけど、残念ながら料理は準備できてないから、何でも好きな飲み物を選んでいって」
「そういうことでしたら、お言葉に甘えて……」
メニュー表を開くと、最初のページに飲み物の一覧があった。コーヒーだけで何種類もある。紅茶も同じくらい多そうだ。
黒咲さん一家が営む喫茶店は、結構本格的な(?)喫茶店なのかもしれない。本格的な喫茶店がどういったものかを理解してない私には、そんなこと分からないのだけど。
しかし、こんなに種類があると迷ってしまう。
こういう時は……
「おすすめとか、ありますか?」
迷ったらおすすめ。常識である。
「そうね、優希さんはコーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」
「じゃあ、コーヒーで」
「コーヒーのおすすめね。ホットとアイス、どっちにする?」
アイス、と間髪入れず答えそうになったが、冷房がきいている店内は夏の暑さを感じさせない。ホットでも良さそうだ。
数秒だけ悩んだ後、私はホットと答えた。
「分かった、すぐ用意するわね」
黒咲さんがカウンターの片隅に置いてあったコーヒーメーカー(これも本格的な感じがする。あくまでも感じがするだけ。私の勘違いかもしれない)を使ってコーヒーを作り始める。
普段カウンターに座ることがまずない私にとって、目の前でコーヒーが出来上がっていくのを眺めるのは、それだけで興味が尽きず、会話がなくとも退屈しないでいられた。
「お待たせいたしました、当店おすすめのコーヒーです。……熱いから気をつけてね、優希さん」
「はい、頂きます」
──美味しい。
と言うのは当然として、香ばしい、良い香りのするコーヒーだった。普段家で飲んでいる市販のインスタントコーヒーとは比べるべくもない、あれと比べるのはこのコーヒーに、ひいては黒咲さんに失礼というものだろう。
無言で──夢中でコーヒーを味わっていたら、いつの間にか黒咲さんがこちら側に来ていた。
コト、と音を立ててカップを置いた後、私の隣に腰掛ける。
カップの中身はコーヒーだ。
どうやらコーヒーがもう一杯できあがるくらいの時間が経っていたらしい。
「お口に合ったかしら?」
「はい、とっても」
「そう、よかった。私、コーヒーをいれるのは素人だから、あまり自信なかったのだけど」
「そうなんですか?」
「ええ、私はいつも料理やデザート担当で、コーヒーは祖父母の分野なの。あの二人に比べたら、私なんてまだまだね」
笑みを浮かべて語る黒咲さんの表情はいつもより楽しそうで、つられるように私も楽しい気分になっていた。
会話は私のバイトの話へと移り、黒咲さんからお土産としてクッキーとキーホルダーを頂き、今日の主目的を果たしたその後も私たちの会話が途切れることはなく、気がつけば昼過ぎといえる時間になっていた。
「もうこんな時間」
「さすがにちょっとお腹がすいてきましたね」
「料理も出せたら良かったのだけど」
「いえ、コーヒーをご馳走になっただけでも十分ですよ。それより黒咲さん、もし良かったらお昼も一緒にどこかで食べませんか?」
「ええ、もちろん!……あ、ごめんなさい。とっても行きたいのだけど、やっぱり行けそうにないわ。この後、明日からの仕事に向けて色々と準備があって。休み明けだから、色々と忙しいの」
「そうだったんですか。じゃあ、今日はここまでですね」
「ええ、残念だけど……」
席を立ち上がり、出口へ向かう。
出口の扉の手前で私は、黒咲さんの方へと振り返った。
「今日は来てくれてありがとう、優希さん」
「私も、お土産ありがとうございます。あと、コーヒー美味しかったです」
「それじゃあ、また明日」
「はい、また明日」
別れの挨拶を交わし、私は扉の方へと振り返る──
「……優希さんっ」
──振り返る途中で呼びかけられた私は、その場で足を止めて、再び後ろへと振り返った。
「黒咲さん?」
「あ、その……」
振り返った先には、中途半端にこちらへと足を踏み出し、手を伸ばしかけたまま立ち止まった黒咲さんがいた。
一瞬目が合い、黒咲さんの方が逸らす。
しかしすぐに、また視線が交わった。
「……優希さん」
名前を呼ばれた。
それだけだ。
けれど、なんとなく、私には黒咲さんの言いたいことが──求めていることが分かった。
一歩踏み出し、黒咲さんに歩み寄り。
ぶつかりそうな程近づいたところで立ち止まり、ゆっくりとまぶたを閉じて、待つ。
閉じかけた視界の中で、黒咲さんの整った顔がこちらへと近づいているのが見えた。
────。
唇に触れていたそれが離れていくのを感じて、ゆっくりとまぶたを開く。
視線の先には、目を逸らし、頬を僅かに染めた黒咲さんの姿があった。
「……それでは、行きますね」
「……ええ」
今度こそ、私は喫茶店を後にした。




