28話
〇湊優希
「はぁ〜」
優香ちゃんに噛みつかれて出来た左腕の歯型を見ながら、机に突っ伏していた私は深いため息をついた。
今日のは私が悪かった。
言い訳のしようも無い。
「……」
歯型の傷はそこまで酷いものではなかった。
傷痕は残っているものの、血は出ていない。
傷痕自体も、少し赤くなっている所はあるけれど、明日には見る影もなくなりそうな程浅いものだった。
それに比べて、私は優香ちゃんに……。
「はぁ……」
二度目のため息をついたところで、コンコンとドアがノックされた。優香ちゃんかと思ったが、私が応える前にその人は部屋へ入ってくる。
その手順(こちらが返事を言う前に勝手に入ってくる)で私の部屋に入ってくる人物は、私の知る限り一人だけだ。
「お母さん……」
入ってきたのは、スーツ姿の母親だった。
「あんたら、また喧嘩してるのね」
「またって言うほど、頻繁にはしてない気がするけど……」
からかっているのか呆れているのか、どちらともとれそうな態度で話しかけてきたお母さんの言葉に少し引っかかりを覚えた私は、一応訂正を入れておいた。
「そうだった?まあ、それはそうと……今回は、あんまり優香を責めないでやって。多分、あっちから吹っ掛けたんだと思うけど、ね」
私の側まで来たお母さんは、珍しく私だけを窘めに来たみたいだった。いつもは喧嘩両成敗なのに。
「責めてるつもりはないんだけど……分かった。それより、なんで優香ちゃんあんなに怒ってるの?もしかして私、何かした?」
「うーん、それがお母さんにもよく分かんなくて。でも、多分あんたが原因ではないと思うわよ。
というのも……あー、勝手に話すとまた優香が怒りそうな気がするけど、どうする?聞く?」
「お母さん。そこまで言っといて話さないっていうのは無しでしょ」
「そう。……実は優香ね、一学期の最後の方、学校休んでたのよ。一週間くらい。何かあったんだろうけど、一人で抱え込んじゃってお母さんにも相談してくれないのよねえ。困ったものだわ。
っと、そろそろ時間か。話はこれで終わり。私は仕事に行くけど、喧嘩はほどほどにね。じゃあ、いってきます」
「……あ、うん。いってらっしゃい」
呆気に取られていた私は「いってきます」の声に少し遅れて反応し、手を上げてお母さんを見送った。
お母さんの口ぶりがあまりに平然としていたため、私も自然とそんなに大事ではないのだろうと一瞬思い込んでしまったが、よくよく考えてみれば、妹が不登校という話は普通に大問題である。
「不登校、ねぇ……」
私は不登校になったことがない。仮病で休んだことはあっても、それはただの欠席だ。一番酷かった小学生の頃でさえ、長期間にわたって学校を休むという選択肢をとることはなかった。
今思い返せばよく学校に行けたなと思うことも多々あったが……私は自分が思っているより学校が好きなのだろうか。
中学は比較的楽しかったけれど……。
私の過去はさておき、渦中の人物は優香ちゃんだ。
話をお母さんから聞いてしまった以上、もはや喧嘩とかやっている場合ではなくなった。お母さんは私が原因じゃないと言っていたが、しかし今までの優香ちゃんの態度からして無関係ということもないだろう。少なからず、私自身も優香ちゃんの問題に関わっているはずだと思う。
喧嘩はさっさとやめにして、優香ちゃんから事情を聴き出さないと。
しかし間の悪いことに、私はついさっきその妹をひっぱたいてしまったばかりである。私と優香ちゃんの仲直りが困難を極めるだろうことは、想像に難くなかった。
ここで一つ、優香ちゃんの解説を挟んでおく。
優香ちゃんの怒り具合にはいくつかの段階がある。
レベル1
少し声が大きくなる。
ただ声が大きいだけの時もあるので、判断は難しい。
「ちょっと、ゆーちゃん!私のイヤホン知らない!?」
こんな感じ。
レベル2
逆に声が小さくなる。
なんとなく不機嫌なのが見てわかる。
この時はあまり声をかけない方が良い。
「ちっ……ねぇ、パパ。私の下着触んないでっていつも言ってるじゃん」(お父さん洗濯中)
レベル3
ここまで来ると相当お怒り。
ものに当たり始める。
そしてお母さんに注意される。
私に八つ当たりをしてくることも。
「うっざ……〇〇死ねっ(鞄を投げる→お母さんに怒られる)」
レベル4
家の中の空気が最悪。
私が全く関係ない時でも、私も一緒にお母さんに怒られることがある。理不尽だけど、我が家の最高権力者に逆らうすべはない(男女比的にお父さんよりお母さんの方が強い)。
しかし優香ちゃんは、怒りに任せてよく抵抗する。正直すごいと思う。
「……(無言)」
レベル5
未曾有の大災害。
避難するべき。
避難所はなっちゃんなど友人宅。
ちなみに今回はレベル4と5の間くらい。
普通に大災害。
優香ちゃんの解説、終了。
未だ自室に引きこもったままの優香ちゃんに、私はドアの外から話しかけた。
「優香ちゃん、話がしたいの」
「いや」
ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。返事はないだろうと予想していたので、少し驚いた。
でも、良い傾向だ。
「そう言わずに。ねえ、中入ってもいい?」
「ダメ」
「分かった」
そう言いながら、私はドアノブを引いた。
ダメ、と言う割には、あまり嫌そうじゃなかったからだ。
「え、ちょっと、ダメって言ったじゃんっ!入ってくるな!」
「でも、やっぱりドア越しじゃ話しずらいでしょ?それに優香ちゃんの様子も見たかったし。ほら、優香ちゃん、顔見えないからこっち向いて?」
「絶対、嫌」
私が部屋に押し入った時には、優香ちゃんは既に私の方を向いていなかった。椅子に座り、私に背を向けていた。先程まで優香ちゃんがずっと手に持っていたスマホは、彼女の目の前の勉強机に置いてあった。
優香ちゃんに話しかけながら、後ろ手にドアを閉める。
「その……さっきはごめん。痛かったよね」
「……別に……もういいし」
「そう、ありがと」
……おかしい。
こんな簡単に許されるなんて。
さっきの返事が返ってきたことと言い、今のことと言い、どうにも調子が狂う。そのせいで言葉が詰まり、不覚にも会話を途切れさせてしまった。
次は何を話すべきか。
迷ったが、あまり会話が得意じゃない私があれこれ考えても仕方ないので、いきなりではあるが核心に踏み込むことにした。
「優香ち」
ブー。
間の悪いことに、私の声は優香ちゃんのスマホの振動音によって遮られた。
慌ててスマホを手に取る優香ちゃん。
そのおかげで、横顔が少し見えるようになった。
私よりそっちが優先なのか、と少し落ち込んだけど、ここ数日の優香ちゃんの態度からすればむしろ私が優先される方が不自然だろう。
(ん?)
そう考えながら自分を慰めていたところで、私は優香ちゃんの様子がおかしい事に気がついた。
──止まっている。
優香ちゃんの動作が止まっていた。
優香ちゃんはスマホ右手にその画面を見ている姿勢のまま、凍りついたように目を見開いて固まっていた。
本当に微動だにしないので心配になって声をかける。
「優香ちゃん?」
しかし、やはりというか、返事はない。
私の声が聞こえていないのだろうか?
今日の昼前までのあれはどう見ても私を無視していたけれど、今のはそもそも聞こえていないようにも見えた。
一体優香ちゃんは何を見たのだろうか?
気になる。
ので、優香ちゃんの動く気配がないのをいいことに、そっと背後からスマホを覗こうとした。
しかし、ちらっと見えかかったところで、不意に画面が黒くなってしまい、残念ながらその内容を知ることは叶わなかった。
「ゆーちゃんっ!?……見た?」
ばっ、と私の方へ振り返った優香ちゃんは、その勢いのまま椅子を立ち、私から距離を置いた。
言動が大袈裟過ぎる気もしたが、それほど見られたくない内容だったのだろうか。
「いいえ、見えなかったけど……良かったら、私にも見せてくれない?」
「見せるわけないでしょっ!っていうか、勝手に覗くなバカっ!」
優香ちゃんがスマホをとても大事そうに胸元に隠しながら私を睨みつけて罵倒する。
これ以上優香ちゃんの神経を逆撫でしたくなかった私は、ひとまず無難な会話を続けようと思ったのだけれど……初手でバカと来たか。
一見怒っているようにも見える発言だけれど(実際に怒っているけれど)、しかしこれは、そこまで怒っているわけではないと私には分かった。
怒りレベルで言うなら、レベルは1だ。
バカの言い方が軽かったというか、とりあえず私を罵倒するための言葉を吐いたみたいな感じで、要するに先程まで私を無視していた時ほど不機嫌そうではなかった。
例えるなら、子犬が虚勢を張って吠えている様子に近い。
「勝手に覗いたのは私が悪かった。ごめん。……それで、さっきは何を見たの?」
「ゆーちゃんには関係ない」
否定されるとますます内容が気になってくるのだけど。
「関係ないことない。優香ちゃん、ずっと私の事避けてるでしょう。それに関係することじゃないの?」
「違う。全然違う」
……目が泳いでる。
しかし、少し話すだけでこうもボロが出るとは……優香ちゃんが私をひたすら無視し続けたのは、優香ちゃんからすれば最適解の行動だったのかもしれない。
現に、一学期の後半にわたって、私は優香ちゃんの事情を知ることが全く出来なかったのだから。
「そう?でもほら、ここは仲直りの印として、少しくらい内容を教えてくれてもいいと思わない?」
「別に、仲直りとかどうでもいいし」
「ふーん、そんなこと言っていいの?アイスの件。あれ、私のだけじゃなくてお母さんのも無くなっていたんだけど……優香ちゃん、気づいてた?」
「えっ!?あ……い、いや、知らない。私知らないし」
「……」
もはや自白しているに等しい優香ちゃんへ、私が胡乱気な目線を向けてしまったのは仕方ないと思う。
「ほ、ホントだよっ!」
「そう。じゃあその件についてはひとまず置いておくとして」
と私が言うと、明らかにほっと胸を撫で下ろした優香ちゃん。
この子、本当に隠す気あるの?
「でも優香ちゃん、そろそろ本当にお母さんに怒られるよ?昨日の朝とか、優香ちゃんの態度最悪だったじゃない。もし昨日お母さんが仕事無かったら、多分あの後ブチ切れコースだったと思うんだけど。優香ちゃんも怒られたくないでしょ?」
「うっ……だ……で、でも……」
おお、すごい。迷ってる迷ってる。
お母さん、効果抜群だな。
「アイスの件も、一緒にお母さんに謝ってあげるから」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………わ、分かった。ちょっと待ってて」
たっぷり長考した後に、優香ちゃんは私からスマホの画面が見えないようにして何やら操作し始めた。
さっき優香ちゃんが見たのが画像とかだった場合、もしここで消されたらそれでお終いなんだけど……まあ、そしたら仕方ない。私の負け(?)である。
「よし……うん……。うん。良いよ」
「ありがとう」
優香ちゃんが見せてくれたのは、一枚の写真だった。
その写真には二人の少女が映っていた。
一人は優香ちゃんだ。
そしてもう一人は……私の知らない子だ。優香ちゃんの友達にこんな子いただろうか。私のことだから忘れてるだけかもしれないが。
その子の身長は小柄な優香ちゃんより少し高いくらい。
顔立ちは幼く可愛らしい感じ。
黒髪ショート。今の私より短い。(今の私の髪は、肩上数センチくらいの長さ。もうショートと言える長さではないだろう)
服は二人お揃いで色違いのワンピース。優香ちゃんは黒で、もう一人の子が白。
ソックスは色もお揃い、白黒のボーダー柄に白のレース。
他にもネックレスとかがあったけど、それらは小さくてこの画像からは分かりにくかった。
後ろにはベージュのカーテンが見える。この子の部屋だろうか。
そんな感じでお揃いの服を着た二人が、お互い少し恥ずかしそうに笑っている写真だった。
どちらか片方だけだと普通のファッションに見えるけれど、二人並んで映るとコスプレに見えなくもない。レースの付いたお揃いの傘でも持っていれば、より一層コスプレっぽくなっただろう。
そんな感想も浮かんだが、しかしこれがどうしたというのだろうか?
このお友達が、優香ちゃんの悩みに関係あるといことだろうか。
「この写真がどうしたの?優香ちゃんの隣に写ってるこの子が、優香ちゃんが今悩んでいることに関係するってこと?」
「……」
「優香ちゃん?」
再度問いかけても、優香ちゃんから返事はかえってこなかった。
優香ちゃんは私の呼びかけを無視しているという訳ではなく、どう答えればいいか迷っていると言う感じだ。
「……あのね!」
そしてようやく口を開いたかと思えば、次はとても真剣な様相で──まるで好きな人に告白するような形相で──悩みの一端を告白した。
「これ、私の彼氏なの」
「……」
妹の告白に対してどう返せばいいのか、私には分からなかった。




