27話
〇湊優希
本日の天気予報、予想最高気温36度、終日快晴。どうしようもないくらい真夏日だった。なんでこんな日に私は外出してるんだろうか……。昨日この家を半ば逃げるように飛び出した時はまさか黒咲さんの家に泊まることになるなんて思ってもみなかった。それにしても、なぜ昨日の私は自転車を使わなかったのか───そんなことを考えながら、蝉の鳴き声が響く炎天下を歩き続けること二十分。
太陽の強い日差しと滲み出る汗の不快感に耐え続けること二十分。
予想最高気温一歩手前くらいの時間帯、すなわち昼前に、私はようやく我が家を目にすることが出来た。
一日ぶりの帰宅だ。
蒸し暑い空気から解放されることの喜びか、それとも黒咲さんの家での出来事の余韻がまだあったのか。
いずれにせよ上機嫌だった私からは、自然と弾んだ声が出た。
「ただいまー」
「…………ふん」
しかし、たとえ黒咲さんとの仲が進展しようとも、いくらファーストキスを捧げようとも、それで妹との仲が修復される訳もなく、家に帰れば敵意をむき出しにする優香ちゃんの姿がそこにはあった。
ソファーにふんぞり返って足を組み、不機嫌さを隠そうともせずスマホをいじっている。視線を合わせることもなければ、ただいまの言葉が返ってくることもなかった。
少し浮かれていた私の心が急転直下で沈んでいったのは言うまでもない。
しかし今の私は機嫌が良いので、腹を立てることもなかった。
優香ちゃんの態度を受け流し、手提げのバッグを自分の部屋に置いてきた私は、何事も無かったかのようにリビングの横長のソファーに腰をかけた。
優香ちゃんがソファーの左端に座っているので、私は右端だ。
「チッ……」
私がソファーに座ると、左の方から舌打ちが聞こえてきた。
私に向けたものか、それともスマホでやり取りしている誰かに向けたものかは分からないが、優香ちゃんが不機嫌であることには変わりなかった。
だからといって、私が優香ちゃんとの関係修復を諦めるということもない。
わざわざこんな時間帯に帰ってきた一番の理由は、この原因不明の喧嘩をこれ以上続けたくなかったからだ。(あの後、雰囲気は悪くなかったにもかかわらず、なぜか黒咲さんと会話が続かなくて気まずかったという理由もあるけど)
そのためには、まず会話が成り立たないとどうしようもない。強制的に喋らせるという方法(不機嫌な風を装って命令口調で問いかければ、優香ちゃんは大抵言うことを聞く。姉の特権だ)は、それをした場合、当然優香ちゃんとの仲が悪化するので今回は使えない。
そういう事情から、私が出来る最も有効なアプローチはとにかく優香ちゃんに話しかけるというものだった。そのアプローチもこの家に帰ってきてから毎日やってはいるのだが、その結果は現在の状況を見れば明らかだった。そろそろ他のアプローチを考えた方がいい気もするが、経験的にもこれが一番の方法だと思っているので、今日も最初は話しかけることから始めることにする。
まずは、昨日相談したなっちゃんの意見でもある、優香ちゃんはかまって欲しいだけではないか、というものを参考にして……
「……隣、いい?」
友人の言に従って、とりあえず接近してみようと思ったのだけれど、しかし優香ちゃんはソファーの中央に足を乗せることで拒否を示してきた。
隣はダメ、と。
近寄ってくんな、かもしれないが。
ニュアンス的には、おそらく後者が正解だろう。
かまって欲しい訳では無いらしい。
仕方ない。そうと分かれば、後はひたすら話しかけるだけだ。
「ねえ、優香ちゃん」
返事はない。
「アイス食べる?」
返事はない。
「私のアイス、半分優香ちゃんにあげようと思ったんだけど」
返事はない。
「ねえ、何か言ったらどうなの?」
返事はない。
「はぁ……。まあいいや」
アイス食べよ、と言って私はソファーを立った。
全く動じていない優香ちゃんに対して、私の方に早くも限界が来たのだ。主に心理的な面で。これじゃあ私が一人で馬鹿みたいに喋ってるだけだ。
アイスを取りに、我が家の冷凍庫へ向かう。
それにしても――と私は思った。
今回の喧嘩において優香ちゃんはすごく徹底している。
徹底して、私を拒絶している。
それは今の様子からもよく分かった。
実のところ、今日帰ったら優香ちゃんの機嫌が元に戻っていたりしないだろうかという希望的観測も一応あったのだけれど、しかし現実はそう簡単に問題解決とはいかないようだった。
とはいえ、事実は小説よりも奇なりとも言うし、今言った希望的観測も十分に有り得ることだったと私は思う。
というのも、そろそろ限界だと思うのだ。
優香ちゃんが。
怒るのも、不機嫌でいることも、私を無視することも、喧嘩をすることも。
それらを続けるのが、そろそろ限界なはずだった。
そろそろ疲れてどうでもよくなったり、諦めたりする頃合のはずなのだ。そうなれば、優香ちゃんの機嫌もある程度元に戻るだろうし、ひとまずは一件落着と言える。
あるいは、一件落着とならなかった場合。
その場合は逆に、溜めに溜めたストレスや苛立ちや不平不満が爆発し、自体が深刻化することだって有り得る。
かくいう私もつい昨日、我慢の限界が訪れていたのだ。
その限界の寸前に家を出たことで、なんとか最悪の状況になることは抑えられたけれど、依然として最悪一歩手前の状況であることには変わりない。
今でこそ優香ちゃんからの一方的な攻撃を私が受け流すことで抑えられてはいるが、その私が明確な対立関係を築けば、状況が悪化することは目に見えている。
その前にどうにか仲直りをし、優香ちゃんが機嫌をなおしてくれたらいいのだけど。
──ところで。
喧嘩のきっかけというのは、その時々のシチュエーションによって千差万別だとは思うけれど、私たち姉妹の場合は総じて些細なことがきっかけで喧嘩になることが多い。
今回の喧嘩はいつの間にか発生していたのだけれど、そのきっかけも些細なことだったのだろうか――
それはさておき、よくやく冷凍庫にたどり着いた。
どのアイスを食べようかと楽しみにしながら、私は二段目の取っ手を引く。現在我が家の冷凍庫には、私の一週間分のアイスが眠っているのだ。
もし今の私を見たら優香ちゃんは間違いなく機嫌を損ねるだろうけど、こと私に限ってアイスの山を前にして気分が弾むのを抑えろというのは無理な相談だった。
──そんなことを考えていたから、バチが当たったのだろうか。
「ない……アイスが、ない」
どういうわけか、冷凍庫の中にあるはずのアイスがたったの一つもなかった。
三日前、お母さんと一緒にあれほど買い込んだはずのアイスが、全くなかった。しかも私の一週間分のアイスだけでなく、お母さんの分のアイスまで無くなっている。
皆無だった。
もしここで私が冷静だったなら、お母さんのアイスにまで手を出した怖いもの知らずに、なんてことをしてくれたんだと罵り恐れ戦いただろう。
しかしこの時の私には、この惨状を作り出した犯人に対する怒りしかなかった。
すぐさまリビングへと戻り、ソファーでくつろいでいる容疑者へと声をかける。
「優香」
呼び捨てなんてかなり久しぶりだった。
「っ……何?」
意外にも返事があった。その声を聞くのもまた随分と久しぶりだ。時間的には呼び捨ての方が遥かに昔の出来事のはずなのに、聞こえた声の方がその何倍も懐かしさを感じさせた。
そんな懐かしさを感じようとも、私の怒りがやわらぐことはなかったのだけれども。
「冷凍庫にアイスが一つもないんだけど、何か知らない?」
「知らない」
即答。
考えるそぶりすらなかった。
まるで、知らないと答えることが決まっていたかのよう。
要するに、犯人は優香で間違いないらしい。
何でこんなことを、というのは愚問だろう。動機はある程度予想がつく。腹いせか、嫌がらせか、単にアイスを食べたかったから食べてしまったか……まあ、そんなところだろう。
「……ねえ、いい加減にしてくれない。何が気に食わないの?はっきり言葉にして。じゃないと私も分かんないわよ」
自分でも驚く程、低く威圧的な声が出た。
「し、知らないって言ってるじゃん!」
優香は吐き捨てるように否定すると、自室へ逃げ込もうとした。ある程度大きな喧嘩をした時、なおかつ私が攻勢に回った時に取る彼女の常套手段だ。
逃げ出す妹を追いかけ、その手を掴み、握りしめる。
そして背の低い妹を見下ろし、命令口調で攻め立てた。
「逃げないで」
「いっつ……痛いんだけど。離して」
文句を言いつつも後ずさる優香を追い詰めるように、私はその身に一歩ずつ迫る。
「私が手を離す前に、あなたが答えなさい。優香。なんで怒ってるの?なんでそんな態度を取るの?私が何かしたの?私が悪かったなら謝るから。だから、話して」
「……だ、だからっ……ひ……うっ……」
私が言葉を重ねる度に、涙を浮かべていく優香。
それが嘘泣きでないことは分かったが、だからと言って攻勢を緩める気は毛頭ない。
「だから?」
「うっ…………ない」
「何?声が小さくて聞こえないんだけど」
「……言わない」
「は?」
「いっ、言わないっつってんの!」
と語気を強めた優香は、いきなり私の掴む手を振りほどこうと抵抗を始めた。だがここは優香の私室のドアの一歩手前。そのドアはこちらに開く仕組みだ。
逃げられはしない───そう思っていた。
だけど。
結果から言って、この優香ちゃんの抵抗は、優香ちゃんが私の拘束から解放されるという目的を達成せしめたのだった。
誰の予想とも違う形で。
そして、私達姉妹の仲がより一層悪くなるという結果を引き連れて。
「ちょっと、暴れないでっ」
「じゃあ離して!」
「いい加減に、しなさいっ!」
私はそう言って、掴んだ腕ごと優香をドアに押さえつけた。
「ぐっ……」
「ふぅ……」
油断があったとすれば、この時だろう。
私と優香ちゃんのあいだには、普通の女子大生と女子中学生くらいの体格差と力の差があり、その差をもって優香ちゃんを押さえつけたことで、私は安心してしまったのだ。
だから、その攻撃を回避出来なかった。
───がぶり、と。
優香は、私の左腕に噛み付いた。
「いたっ……!!」
全力ではなく、歯を突き立てる程度の噛み付く攻撃。
しかし当然、それだって十二分に痛い。だけれども、私が痛みで怯んだのは一瞬であり、だからこそ私は反撃できた。
反撃できてしまった。
───パシッ、と。
気がつけば私は、噛まれた方とは逆の右の手のひらで、私の腕に噛み付く妹の頬を平手打ちしていた。
そこでようやく、本当にようやく、私は冷静になれた。
しかし、しまった、と思った時にはもう遅かった。
「ごめん、優香ちゃ」
バタン。
私が呆然としていた隙に、強く音を立てて閉められたドアの向こうに優香ちゃんは閉じこもってしまった。




